第38話 叔父が語った姪
「やっと会えたわぁ。リヴィア・カルディス」
アイラの声は、戦場を隔てても不思議なほどよく通った。
両軍の間には、矢の届かない空白がある。朝から続いた戦いが途切れ、負傷者を下げるための短い静けさが訪れていた。その静けさの中央へ、アイラは白い馬を進めてきた。
護衛も連れていない。
必要がないのだろう。亜神である愛の精霊と契約した第1級保持者を、この距離から射抜ける者はいない。何より彼女の背後には、自分の命よりアイラを優先する兵たちが、熱に浮かされた目で並んでいる。
リヴィアは自軍へ待機を命じ、一人で前へ出た。
「私の名を、どこで知った」
「ひどいわぁ。会ったことはなくても、わたしはずっと前から知っていたのに」
アイラは拗ねた子供のように唇を尖らせた。
年齢はリヴィアと同じ。それなのに笑い方も、首を傾ける仕草も、幼いころで時間を止めたように見える。無邪気に見えるその手が、どれほど多くの兵の心を奪ったか、リヴィアは報告で知っている。
「アウレリウスが教えてくれたのよぉ」
叔父の名を聞いた瞬間、リヴィアの指が剣の柄を強く握った。
「叔父上を呼び捨てにするな」
「でも、あの人は怒らなかったわ」
「叔父上が寛大だっただけです」
「そうねぇ。とても優しかった」
アイラは嬉しそうに頷いた。
敵意を向けられるより、その笑顔のほうがリヴィアには耐え難かった。叔父を死なせた戦場にいた者が、懐かしい思い出を自分と分け合うように語っている。
「わたしと同じ年の姪がいるって言ってた。剣を振るんですってねぇ。でも子供だから、戦場には出さないって」
胸の奥で、古い記憶が揺れた。
叔父が東部へ発ったころ、リヴィアは五歳だった。
記憶の中のアウレリウスは、いつも大きすぎる。大股で歩き、声が大きく、笑うと廊下の向こうまで聞こえた。見かけるたびに頭を乱暴に撫でられ、髪が崩れると腹を立てた。
一度、壁に立てかけてあった叔父の剣へ勝手に触れたことがある。鞘に収まっていても、幼いリヴィアには両手でようやく動かせる重さだった。
『何してやがる』
背後から声をかけられ、驚いて剣を落としかけた。
叱られるより先に、叔父の手が剣をつかんだ。次に肩と指を確かめられ、どこも傷ついていないと分かってから、額を軽く弾かれた。
『剣を触るなとは言わん。だが、扱い方を習ってからにしろ。怪我したらどうする』
勝手に触ったことではなく、怪我をしかけたことを叱られたのだと、成長してから気づいた。
庭で転んだときも同じだった。泣いてなどいないのに、一番先に駆け寄ってきたのは叔父だった。それから人前で転ぶなと笑われ、腹を立てて追いかけた。
声の調子も、手の重さも、リヴィアは断片的に覚えている。
ユリウスには決して持てない記憶だ。
けれど、叔父が家を離れた後の二年間を、リヴィアは知らない。東部で何を見て、どのように話し、最期にどんな顔をしたのか。目の前の敵だけが、それを知っている。
「叔父上は、私のことをほかに何と?」
問いが口から出た後で、リヴィアは自分に腹を立てた。敵から家族の思い出を与えられることを、求めてしまった。
アイラは、それを見透かしたように笑った。
「会わせてやるって。わたしも子供だから、帝国へ連れていくって言ったわぁ。リヴィアは剣を振るけれど、戦場で人を斬るためじゃない。今はまだ強くなる練習をしているんだって」
その言葉が本当に叔父のものか、確かめる術はない。
だが、嘘をついているようには見えなかった。アイラにとって、それは大切にしまってきた宝なのだ。
「わたし、びっくりしたの。同じ年なのに、戦わなくていい子がいるなんて知らなかったから」
リヴィアは返せなかった。
七歳の自分は、守られた屋敷で木剣を振っていた。できなかった動きができるようになるたび、母に報告し、父に褒められるのを待った。
同じ七歳のアイラは、敵国の軍を愛の力で狂わせる兵器として、東部の戦場へ置かれていた。
二人を分けたのは、才能でも、努力でもない。
子供を子供のまま守る家族がいたかどうかだった。
それを教えたのがアウレリウスだった。
「叔父上は、あなたを助けようとした」
「そうよぉ」
「帝国へ連れ帰り、生かそうとした」
「ええ」
「ならば、叔父上が守ろうとした命で、なぜ帝国を侵す」
アイラは不思議そうに瞬いた。
「守ってくれたからよ」
まるで答えが一つしかない問いをされたような顔だった。
「アウレリウスは、わたしを愛した。だから、わたしを追って戻ってきた。逃げられたのに戻って、わたしのために死んだの」
「違う」
リヴィアの声が低くなる。
「叔父上は死ぬつもりではなかった。父上が残した軍務記録にも、全員の退路を用意していたとある」
「でも死んだわぁ」
「パルティアの国王が、味方ごと戦場を焼こうとしたからです」
「最後に戻ることを選んだのは、アウレリウスよ」
アイラは胸元へ両手を重ねた。
「死ぬ直前まで、わたしを見ていた。あのときの愛は、もう誰にも変えられないでしょう? 死んだ人は、離れていかないもの」
その笑顔を見て、リヴィアはようやく理解した。
叔父が救った七歳の少女は、確かに目の前の女の内側にいる。飢え、怯え、同じ年の子供が守られていると知って驚いた少女が、今も残っている。
けれど、その子供が抱いた誤解を、誰かが長い年月をかけて育てた。
愛は戻ること。
愛は逃がさないこと。
死ねば、その者の愛を永遠に自分のものにできること。
だからアイラにとって、叔父の最期は喪失ではない。所有の始まりなのだ。
「叔父上は、あなたのものではない」
「そうかしらぁ」
「兄がいて、義姉がいて、姪がいた。帰る場所があった。叔父上は私たちを残すために死を選んだのではありません。あなたも、兵も、自分も、全員で帰ろうとした」
アイラの笑みが、わずかに深くなった。
「あなた、アウレリウスと同じことを言うのね」
背後で、休戦の終わりを告げる角笛が鳴った。
アイラは馬首を返す。
「ねえ、リヴィア。知りたい?」
「何を」
「あの人が、どうやってわたしの軍を壊したのか。どうして、敵だったわたしに食事をさせたのか。最後まで、どうして自分も帰れると思っていたのか」
振り返った横顔から、無邪気な笑みが消えた。
そこに一瞬だけ浮かんだのは、戦場で泣いていた七歳の少女の目だった。
「わたしは、ぜんぶ覚えているわぁ」
次の角笛とともに、両軍が動き始めた。
その角笛の余韻へ重なるように、十五年前の戦場でも角笛が鳴った。




