第37話 三つの戦線
東部戦線は、三つに割れた。
東部へ着いた日、現地の指揮所前で増援軍を迎えたのは、正面に立つだけで指揮所の扉を半ば塞ぐような巨漢だった。頭はきれいに剃られ、額から頭頂へ古い傷が走っている。
男はマルクスの前で拳を胸へ当てた。
「ティトゥス・ヴァレント、ただいまより閣下の指揮下に入ります」
「ご苦労」
当主と第1級保持者の挽拶が済む。
そのまま二人は、しばらく互いの顔を見た。
「久しいな、ティトゥス」
「おぬしが来るのを待ちくたびれたわ」
「待たせたな」
ティトゥスが声を上げて笑った。
マルクスも笑った。
リヴィアは思わず父を見た。家族の前でさえ、父はこんなふうに声を立てて笑わない。それは当主の顔でも、現場司令官の顔でもなかった。リヴィアが知らないころから続いてきた、一人の友人の顔だった。
笑い声が収まると、ティトゥスがリヴィアへ向き直った。
「おぬしがリヴィア殿か。マルクスから話は聞いておる」
「私のことを?」
「親というのは、自分の子の話だけはなかなかやめられんものじゃ」
「余計なことを言うな」
叱る声に怒気はなかった。
その後、二人が軍務の中で友人の言葉を交わすことはなかった。一方は現場司令官として命じ、一方は指揮下の第1級保持者として応じた。
リヴィアが直接見た父の最後の姿は、あのわずかな時間に見た、古い友人の前で笑う顔となった。
中央では、マルクスが現場司令官としてパルティア軍の主力を受け止める。
北寄りの街道と防衛拠点は、リヴィアが預かった。突破されれば、敵は帝国の内側へ回り込み、中央軍の補給路を断てる。
南では、ユリウスが侵入した別働隊を追いながら、都市と村からの避難を進める。敵を倒すだけでなく、散らばった守備隊、伝令、避難民を一つの流れへまとめる役だった。
三人を一か所へ集めれば、目の前の敵には勝ちやすい。だが帝国は広く、守るべき場所も人も多すぎる。一つの勝利のために二つを捨てることはできなかった。
開戦から十日目、ユリウスは南部の街道で馬を止めた。
「この先の村から、避難完了の報告は?」
「まだ届いておりません」
伝令役の騎士が答える。
かつてなら、報告がないことしか分からなかった。今は違う。各地で共通の書式を用い、どの村が、いつ、何人を、どの道から避難させたか記録する仕組みを整えてある。全知の精霊へ帝国中の一人ひとりを尋ねれば莫大な魔力を失うが、既にまとめられた報告一件なら、少ない負担でたどれる。
「最後の集計は三日前です。住民は全員いた。避難を開始したという知らせだけがない」
金色の瞳から得た答えを口にし、ユリウスは地図を見た。
村から最寄りの退避先まで、通常なら一日。途中の橋は無事だと報告されている。三日前に全員いたのなら、今なお村に残っている可能性が高い。
「敵の別働隊は西へ向かっている。先に村へ行く。騎士の半数は街道を守り、避難民が来たら護送して」
「若君自ら向かわれるのですか」
「私の強化があれば、連れて帰れる人数が増える」
王族である自分が決め、自分の力で安全を保証する。その考え方に危うさがあると、今のユリウスは以前より知っている。それでも、敵が迫る状況で決断を他人へ押しつけるつもりはなかった。
村人たちは、避難命令を拒んだのではなかった。足の悪い者を運ぶ荷車が足りず、誰を残すか決められずにいた。
「誰も残さない」
ユリウスは兵と村人へ第1級の身体強化を施した。荷車を増やす時間はない。歩ける者は歩き、兵が歩けない者を背負い、残った荷を捨てる。
敵の斥候が村の東に姿を見せるより早く、最後の一人が街道へ出た。
その日の戦果報告には、パルティアの別働隊を退け、住民を一人も失わなかったと記された。
翌日、王院へ送られた写しには、別の一文が加わっていた。
——ユリウス・カルディスの情報網と個人的な支持により、南部住民の救出に成功。
誰が加えたのか、ユリウスには分からなかった。
北では、リヴィアが街道を一歩も譲っていなかった。
彼女は奇抜な策を用いなかった。夜ごと交代する見張りの順序、盾を上げる角度、退く際の歩数、伝令が走る道筋。そのすべてを兵へ繰り返させた。
鍛錬の精霊の力で作った環境の中、平時から何度も行ってきた動きを、戦場で崩さず実行させる。
「三列目、二歩退け。前列はその場で維持。合図まで追うな」
敵がわざと崩れたふりをしても、兵は誘いに乗らない。側面から伏兵が出た瞬間、待機していた騎士が進路を塞ぐ。混乱が生まれる前に、訓練された動きが穴を埋めた。
大勝ではない。
だが、一日目も二日目も、街道は帝国の手に残った。負傷者を後方へ送り、空いた場所へ次の兵を入れる。小さな正しさを積み重ね、敵に望む形を一度も与えなかった。
北部戦線から王院へ届いた報告には、こう記される。
——正式な後継候補たるリヴィア・カルディス、期待どおり防衛任務を遂行。
ユリウスの働きは「奇跡」と呼ばれ、リヴィアの働きは「当然」と呼ばれた。
弟の成功を妬むつもりはない。それでも、当然という二文字が、彼女の十年以上を何の重さもないものにするようで、リヴィアは報告書をしばらく閉じられなかった。
中央のマルクスは、二人の報告を同じ卓上へ並べた。
「どちらも、役目を果たしている」
それだけを告げ、次の命令を作る。
忍耐の精霊魔法によって、中央軍は何度崩されても戦線を立て直した。傷が消えるわけではない。恐怖がなくなるわけでもない。それでも立ち、隊列を保ち、隣の者が退くまで盾を支えられる。
マルクスが率いる軍は、華やかな勝利より先に、負けない時間を積み重ねた。その時間が北と南の働きを可能にしていた。
しかし帝都から来る文書は、戦況より姉弟の名を多く記すようになった。
南部の功績を理由に、ユリウスへより大きな指揮権を与えるべきだという意見。
北部の安定を理由に、リヴィアを中央へ移し、正式な後継者として大戦果を得させるべきだという意見。
逆に、どちらかを危険な戦線へ置けば、継承問題そのものが片づくと考えているとしか思えない提案まであった。
パルティア側も、帝国の亀裂を知っているように動いた。
捕らえた伝令には、ユリウスこそ帝国軍を率いるべきだという偽の命令書を持たせていた。北部では、リヴィアが弟に功績を奪われたという噂が、捕虜の口から意図的に流された。
姉弟は、短い書状を交わした。
『南は持ちこたえています。姉上も無事で』
『北は渡しません。あなたは住民を連れて帰りなさい』
後継の話は、一文字も書かなかった。
書かなくても互いの意思は分かっているつもりだった。だが、周囲にとっては沈黙もまた、好きな意味を入れられる空白になる。
戦線が動いたのは、その書状が届いた翌朝だった。
中央から退いたはずのパルティア軍の一部が、突然北へ向きを変えた。先頭に立つのは、白い馬に乗った一人の女だった。
戦場には似つかわしくないほど楽しげに髪を揺らし、矢の届かない距離で両手を広げる。
その周囲では、傷ついた兵たちが笑いながら彼女の名を呼んでいた。
「アイラ……」
リヴィアが呟くと、女は遠くからでも聞き取ったようにこちらを向いた。
そして初対面のはずのリヴィアへ、懐かしい相手を見つけたように微笑んだ。
「やっと会えたわぁ。リヴィア・カルディス」




