第36話 五百年目の血
「精霊契約者が、二人確認されました」
東部から届いた報告を読み上げる声が、王院の軍議室に重く落ちた。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
精霊と契約できるのは、原則として始祖の血を引く第1級保持者だけである。その血統を十三に分けて受け継いできたのが、ルクシオン帝国の十三王家だ。東方のパルティア王国には第1級保持者こそ多いが、精霊契約者はいない。それが帝国の優位を支える、五百年来の前提だった。
「見間違いではないのか」
「同じ報告が、異なる三隊から届いております」
卓上へ三枚の書板が並べられた。
一人は、兵士たちへ自分を愛するよう強いる。術中にある者は、傷も恐怖も顧みず、その女を守るために戦う。
もう一人は、受けた者の痛みを増幅する。敵を傷つけることそのものを楽しみ、味方さえ近づくのを恐れるほど残虐だという。
名は、アイラとリタ。
二人が互いをそう呼ぶ声を、生還した斥候たちが聞いていた。
「愛と、嗜虐……」
リヴィアが低く呟いた。
過去の軍務記録に残る精霊現象と、三隊から届いた報告が照合された。愛の精霊は亜神、嗜虐の精霊は大精霊である可能性が高いと推定されている。断定を避けても、二人が戦線の形を変え得る力を持つことだけは疑いようがなかった。
ユリウスの傍らで、金色の瞳が音もなく浮かんでいる。
「確かめられるか」とマルクスが問うた。
「問いを絞れば」
ユリウスは答え、報告書の横に置かれた古い系譜の写しへ目を落とした。
パルティアの後方拠点から押収された文書には、双子へ至る血統が記されていた。すべてを信用することはできない。敵国が自らの王統を飾るため、帝国の血を騙っている可能性もある。
一方、ネルヴィア王家の古い記録には、五百年前、東部で一人の子供が消息を絶ったことが残る。戦死とも逃亡とも確定されず、ただ「奪われた可能性あり」と記されたまま、系譜の枝が途切れていた。
ユリウスは、問いの範囲を卓上の二つの系譜記録に限定した。
「この二つの系譜記録に含まれる情報だけで、同じ子供を起点とすると確認できるか」
金色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
『是』
短い答えだった。
室内の空気が張りつめる。
ユリウスは二つの記載を指で追った。
「記録が示す限り、双子へ続く枝はネルヴィア家から分かれています」
エレナは目を伏せなかった。
軍議へ同席した彼女の前にも、途切れた系譜と、敵国で五百年続いた系譜が置かれている。二つの枝は、国境を挟んで一本につながった。
「では、あの二人はエレナの——」
「遠い同族です」
エレナ自身が言った。
声は静かだったが、膝の上で組んだ指先は白い。
五百年前に奪われた子供が、パルティアで生き、子を残した。その血が絶えずに続き、帝国の外で第1級の純度を保ち、ついに精霊契約者を生んだ。
始祖の血を奪おうとしたパルティアの試みは、五百年目に実ったことになる。
「奪われた王族の子孫なら、帝国へ戻すべきだ」
軍議の一角から声が上がった。
「戻す?」
エレナがその言葉を捉えた。
「あの二人は、物ではありません。五百年前の誘拐が罪であることと、今を生きる子孫がどの国の人間であるかは、同じ話ではないでしょう」
「しかし、始祖の血と精霊を敵国に——」
「血は、持ち主の意思を離れて帝国へ忠誠を誓いません」
返した言葉は、ネルヴィア家の娘というより、長く自分の身体を他人の都合で評価されてきた一人の人間のものだった。
同じ祖先へ連なる血があっても、五百年の暮らしと教育まで同じにはならない。系譜をつなぎ直しただけで、二人が帝国の王族へ戻るわけではなかった。
病んでいたころは、第1級を継げない身体として縁談から外された。治った後は、第1級を継げる身体として後継争いに組み込まれた。そのどちらにも、本人の選択より先に血の価値を語る者がいた。
だからこそエレナは、まだ会ったこともない遠い同族を、奪い返すべき血とは呼ばなかった。
「エレナの言うとおりだ」とユリウスは言った。「二人が敵軍にいる事実と、ネルヴィアの血を引く事実は分けて考えるべきです。戦うなら、今の行動に対して戦う」
「その区別を、相手もしてくれるとは限らん」
マルクスの言葉に、ユリウスは黙った。
父の前にあるのは、十年以上前の軍務記録だった。
その表紙へ記された名を、ユリウスも知っている。
アウレリウス・カルディス。
十五年前、ユリウスが一歳のころに東部戦線で戦死した父の弟。ユリウスだけが一度も会ったことのない叔父である。
「愛を強いる幼い契約者について、この記録に報告がある」
マルクスは頁を開いた。
「当時、七歳。名はアイラ」
リヴィアの顔から、表情が消えた。
彼女とアイラは同じ年である。現在だけではない。叔父が死んだあの日にも、二人は同じ七歳だった。
「叔父上は、その子と戦ったのですか」
「戦い、捕らえ、保護しようとした」
「では、叔父上が最期に助けた子供というのは」
「アイラだ」
マルクスの声は、当主のものだった。そこに兄の感情を混ぜまいとして、硬く抑えられていた。
古い記録には、軍事的な事実しかない。用いられた制約、撤退を命じた時刻、救出された兵の数、アウレリウスが最後に確認された地点。
ユリウスなら、問うことでその記録を補える。生還者が証言した言葉も、残された報告も知ることができる。
けれど父が覚えている弟の声も、母が見た笑い方も、リヴィアの髪を乱した手の感触も持ってはいない。
そして、アウレリウスの本当の最期を最も近くで見た者が、今は敵軍の先頭にいる。
新たな早馬が到着したのは、そのときだった。
扉が開き、泥にまみれた伝令が膝をつく。
「パルティア軍、国境防衛線を突破。双子の契約者を先頭に、三方へ進軍を開始しました」
卓上の地図へ、三本の赤い駒が置かれた。
五百年を隔てた血は、系譜の上でつながっただけではない。
今、軍勢を率いて帝国へ帰ってきた。




