第35話 東からの早馬
東部戦線への増援案は、三日間決まらなかった。
一日目、国境守備隊から求められたのは偵察を補う第1級保持者だった。
二日目には、騎士団の追加派遣と補給の増量が加わった。
三日目の朝には、報告書の余白へ、敵軍が複数地点で同時に動いている可能性が記された。
求められる備えは増えているのに、王院の決定だけが同じ場所に残った。
三日目の緊急軍議には、十三家の当主だけでなく、動員案を説明する軍務官と、指揮官候補に挙げられたリヴィア、ユリウスも同席していた。姉弟に議決権はないが、問われれば軍務上の案を述べる立場だった。
敵の動きが活発になっている。国境近くで補給路が伸び、兵の集結を示す報告もある。通常なら、王院は複数の王家から第1級保持者と騎士団を動かしただろう。
だが今回は、その指揮を誰へ与えるかで議論が止まった。
ユリウスへ任せれば、第二子派に新たな軍功を与える。
リヴィアへ任せれば、正式な後継者を危険な東部へ送り、戦争を利用して継承問題を決めようとしていると見られる。
マルクスが自ら出れば、第三家が戦力を独占するという反発が出る。
「敵は、我々の家督が決まるまで待ってはくれない」
リヴィアが言った。
議場の者は皆、それを理解していた。
理解したうえで、自家の利害を捨てられない。
「国境守備隊は持ちこたえている」
「その報告は四日前のものです」
「ならば最新の報告を待つべきだ」
「待つ間に状況が変われば、また古くなる」
「ならば、姉上と私へ別の役目を」
ユリウスが口を開いた。
「一人へ指揮と戦功を集める必要はありません。東部の守備を立て直す者と、後続の増援をまとめる者に分ければ――」
「姉弟二人へ軍権を与えるのか」
すぐに反対の声が飛んだ。
「第三家だけで東部軍を握ることになる」
「では、他家の第1級保持者を加え、指揮権を明記してください」
「誰を上位に置く。それこそ後継候補の序列を示すことになるぞ」
戦場を分けても、政治の問いはついてきた。ユリウスが合理的だと思う案は、誰が誰へ命令するかという一点で止まる。
ユリウスが整えた報告書式と伝令網によって、以前より情報は速く、正確に届くようになった。
皮肉にも、誰もが同じ数字を見られるようになったことで、その解釈をめぐる争いは鮮明になった。
情報が足りないから決められないのではない。
以前より正確な情報を前に、決めた結果が誰の利益になるかを皆が理解できるからこそ、譲れなくなっていた。
全知の精霊が傍らで静かに瞬く。ユリウスは、必要な事実を知らせれば人は同じ答えへ近づくと思っていた。だが、同じ事実から何を優先するかは、人によって違う。
マルクスは議長席の一段下で、黙って各当主の発言を聞いていた。
息子に功績を与えまいとする者。
娘を前線へ送り、勝てば実力を認め、死ねば問題が消えると考える者。
帝国全体の利益を語りながら、その中へ自家の都合を混ぜる者。
自分もまた、その一人だった。
ユリウスの婚約を決めたとき、帝国と家の安定を考えた。同時に、娘へ過去の自分を重ね、息子が亡弟のように帰らなくなることを恐れた。
公と私情を、完全には分けられない。
弟アウレリウスなら、戦場の異変を前に決定を三日も待たなかっただろう。そう考えた瞬間、マルクスは、自分がまた弟を物差しにしていることへ気づいた。
ここにいるのは自分だ。
過去の弟ではなく、現在の当主たちを動かして決めなければならない。
それでも決めなければならないのが当主だった。
「明朝までには結論を出すべきです」
マルクスが議長へ告げたとき、議場の外が騒がしくなった。
衛兵の制止を振り切るような足音が近づく。
扉が開き、泥まみれの伝令が倒れ込んだ。
「東部より、緊急報告!」
片膝をつこうとして、力が入らない。衛兵に支えられながら、封じた筒を掲げる。
「パルティア王国軍、国境を突破。確認された兵数は――」
読み上げられた数字に、議場が静まり返った。
ユリウスは、三日前の報告書を思い出した。あの時点で出動していれば侵攻を防げたかどうかは、もう知り得ない。まだ決まっていなかった過去の可能性を数えても、現在の敵は止まらない。
「突破地点と、守備隊の退路は」
彼が問うと、伝令は息を整えながら答えた。記録された範囲では退却路は残っている。しかし、次の報告が届くまで保たれる保証はなかった。
小競り合いでも威力偵察でもない。
長年集められた魔力保持者の大軍だった。
「侵攻開始は、我々の予測より早い」
一人の当主が呟く。
「早いのではない」
マルクスは立ち上がった。
「我々が遅れたのだ」
その言葉に、議場の誰も反論しなかった。
マルクスは、議決を待たずカルディス家の権限内で始められる準備を、家臣へ一つずつ命じた。家が保有する物資と人員の確認、直属の者への待機命令、避難民を受け入れられる場所の洗い出し。国境守備隊への補給や近隣騎士団の集結は、王院の採決なしには命じられない。
続いて十三家の当主へ、動員の採決を直ちに行うよう求めた。
先ほどまで序列を争っていた者たちも、今度は票を止められなかった。
敵は、帝国内の空白を見ていた。
どちらの姉弟に軍功を与えるか。誰を危険へ送るか。王院がその答えを巡って足を止めた瞬間を、侵攻の好機として選んだ。
動員案は可決された。議長が立ち上がった。
「全家へ動員を命じる。継承の議論は凍結する。これは第三家の争いではない。帝国への大侵攻だ」
リヴィアとユリウスが同時に立ち上がった。
どちらを前へ出せば有利かではない。迫る敵へ、誰をどこに置けば帝国を守れるか。その判断へ戻るには、あまりにも多くの時間を使ってしまった。
さらに別の伝令が駆け込んだ。
「敵軍先頭に、精霊契約者と思われる者を二名、目撃したとの急報です!」
帝国外の精霊契約者は、それだけで五百年来の前提を揺るがす。精霊と契約できるのは、原則として始祖の血を引く第1級保持者だけだった。
「確証は」
「まだありません。単一の斥候隊からの報告です。別隊の報告と照合を急いでおります」
未確認の一報にすぎない。
それでも、王院の誰一人として聞き流すことはできなかった。
東から来た二頭目の早馬は、王院が先送りにした時間だけでなく、帝国が疑いもしなかった前提の終わりを告げていた。




