第34話 破られた封印
「次代の当主へ、ご挨拶申し上げます」
最初の一人がそう言ったとき、ユリウスは聞き間違いだと思った。
「次代の、何ですか」
家臣は床へ膝をついたまま、顔を上げた。
「カルディス王家の当主です」
「それは姉上です」
あまりに当然のこととして答えたため、家臣のほうが言葉を失った。
「しかし、エレナ様は快癒されました。殿下は第1級の後継者を――」
「妻が治れば、僕にも後継者となる資格が戻る。ですが、それで姉上に代わる理由にはなりません」
ユリウスにとって、資格が戻ることと、後継者が変わることは別の話だった。
エレナは隣で目を閉じた。
「資格が戻ったからこそ、皆様は殿下を次代にと考えるのです。そして、マルクス様が私との婚約をお決めになった理由も、その資格にありました」
「治療の可能性があったから?」
「反対です」
彼女は静かに告げた。
「治らないと考えていたからです」
ユリウスの表情が止まった。
婚約を境に、自分の名が後継候補から外れていったことは知っていた。だが、それを知ることと、父がその結果を得るために婚約を選んだと知ることは、まったく別だった。
婚約を発表された日を思い出す。
父が自分の恋心を察したのだと信じた。家臣にまで知られていると思い、喜びと恥ずかしさで蹲った。
父の目的は、最初から別にあった。
「僕を、後継候補から外すため」
「はい」
ユリウスは、あの日の父の言葉を思い返した。
私を恨んでよい。
喜びを見抜かれた気恥ずかしさへの言葉だと受け取っていた。父は、当主への道を閉ざされた息子が泣いていると思っていたのだ。二人は同じ場所にいながら、まったく違う婚約を見ていた。
「君は、最初から知っていたの」
「両家の意図は説明されました」
「それで、自分が僕から何かを奪ったと思っていた?」
エレナは答えなかった。婚約当初の遠慮と罪悪感を、沈黙が肯定していた。
「それは違う」
ユリウスは言った。
「父上の判断については、父上と話します。けれど君が病だったことも、婚約を受けたことも、君の罪じゃない」
父への複雑な思いと、妻への思いを同じものにしない。その区別だけは、すぐにつけられた。
家臣が口を挟む。
「ですが、その理由はもはや消えました。殿下は帝国を益する力と実績を持ち、今や王家を存続させる資格も――」
「妻を資格と呼ばないでください」
ユリウスの声が低くなった。
男が口を閉ざす。
エレナは夫の手へ、自分の手を重ねた。
「私は、ユリウスを当主にするために治ったのではありません」
家臣をまっすぐに見る。
「私たちが治療を続けたのは、私が自分の身体と未来を選ぶためです。将来同じ病で生まれる人に、治らないと決めつけられない道を残すためです」
「それでも、結果として殿下の資格は回復しました」
「結果を政治が利用できることと、そのために結果が生まれたことは別です」
「では殿下ご自身のお力は、いかがです」
別の家臣が進み出た。
「大精霊である全知の精霊との契約、ダンジョン侵攻での軍功、救われた孤児たちと新たな情報制度。婚姻の条件を除いても、殿下を推す理由はございます」
「私が望んでいないと伝えたはずです」
「いま望んでおられないことと、将来も家の責任を負わないことは同じではありません」
かつて姉に言われた言葉と似ていた。自分自身、当主について最終的な答えを出したわけではない。その隙間へ、家臣たちは自分たちの望みを差し込んでくる。
家臣は引き下がった。
だが、一人を退けても動きは止まらなかった。
第二子派は、婚約によって封じられていた年月を取り戻すように勢力を伸ばした。孤児院事業で育った者、情報制度の恩恵を受けた官僚、ダンジョン侵攻の戦果を知る軍人。それぞれが自分の理由でユリウスを支持した。
ユリウスが「派閥を作るな」と命じると、その言葉さえ、姉との正面衝突を避ける慎重さだと解釈された。彼がエレナの療養と研究を優先すれば、将来の制度改革へ備えていると語られた。
行動しないことまで政治的な行動になる。
長子派も結束を強める。
リヴィアが積み上げた年月と実務、正式な後継者として担ってきた責任を、弟の新しい功績で消してはならないと主張した。
中には、ユリウスの仕事を縮小し、軍務から遠ざけるべきだと求める者もいた。
「弟を弱くして得る席なら要らない」
リヴィアはその進言を退けた。
すると今度は、弟を恐れぬ強い長子だという評判が広まり、長子派の支持がさらに固まった。姉もまた、自分の意図と政治的な意味のずれから逃れられない。
姉弟は争っていない。
それでも、二人を中心に争いが生まれた。
やがて対立は第三家の内部に収まらなくなる。
王院では、ユリウスへ軍務を与えればさらに名声が高まるという声が上がった。リヴィアへ危険な任務を与え、実力を示させるべきだという声もあった。それぞれの王家が、自家にとって有利な後継者を選ぼうとする。
第三家の人事は、いつしか帝国軍の配置と属州の予算にまで絡み始めた。どちらの名で提案されたかによって、内容が同じでも賛否が変わる。決裁は遅れ、マルクスが婚約で封じようとした争いは、以前より広い場所で蘇った。
マルクスは議場で忍耐強く意見を聞いた。
だが、息子を婚約で外すという一度目の答えは、もう使えない。
「姉上と話さないと」
ユリウスが言う。
「何をお話しになりますか」
エレナが尋ねた。
「僕は当主の座を奪うつもりはないと」
「それだけでは足りません」
「どうして?」
「あなたに奪うつもりがなくても、あなたの名で奪おうとする人がいるからです」
「なら、何を言えば止まる?」
「言葉だけで止めるのは難しいでしょう。何を望み、何を引き受け、何を姉上へ委ねるのか。あなた自身がまだ決めていない部分を、周りが代わりに埋めています」
厳しい答えだったが、エレナは夫を責めるために言ったのではない。彼の名を使う者たちが、本人の無自覚を盾にできないようにするためだった。
善意だけでは、人の思惑は止められない。
ユリウスは扉の外に残る気配を見た。
自分が作ったつもりのない派閥は、すでにそこに存在していた。




