第33話 治った者の政治
治療成功の報告書は、読む者によって別のものになった。
ネルヴィア家の治療術師は、正常化した魔力核の形、安定した第1級の純度、今後同じ症例が現れたときに応用できる可能性を読んだ。
エレナは、その前に並ぶ頁を読んだ。病だったころの症状記録、採用しなかった方法、本人の同意、治療直後から続けた観察。成功した最後の頁だけを抜き出せば、同じ治療を安全に再現するために必要なものが失われる。
「治ったという一文だけが、ずいぶん速く広まりますね」
彼女が言うと、ユリウスは届いた書状の束を見た。
祝いの言葉に交じり、治療法の公開、将来の患者への適用、両家が持つ権利について尋ねる文書がある。現在ほかに患者はいなくても、病が生まれたときの婚姻と継承の判断は、もう以前と同じではいられない。
「だからこそ、全部の記録を残した意味がある」
ユリウスは答えた。
二人が見ていたのは、病が治らないと決めつけられない未来だった。
王院の当主たちは、別の一文を読んだ。
――第1級を正常に継承する子をもうけられる可能性が回復した。
マルクスはその行を、長いあいだ見つめていた。
「間違いはないのか」
「複数の治療術師が確認しています」
報告者が答える。
「治療前の診断が誤っていた可能性は」
「ありません。魔力不全症だったことも、現在それが解消していることも確実です」
問いを重ねるほど、逃げ道が消えた。
報告者が退出すると、マルクスはもう一度文書を開いた。
父として最初に浮かんだのは、幼い日の息子の顔だった。婚約の発表で蹲った姿を、当主への道を失って泣いているのだと思った。あの解釈が正しかったのか、マルクスはいまも確かめていない。
息子は、父の意図とは無関係に彼女を選び続け、父が不可能とした病を二人で治した。
誇らしくないはずがない。
同時に、その誇りを公の判断へ混ぜれば、リヴィアの積み重ねを傷つける。喜びを隠せば、今度は息子夫婦の成果を政治の都合で否定することになる。
マルクスは報告書を閉じた。
だが当主として見れば、自分の策は完全に破綻していた。
エレナとの婚約によって、ユリウスは王家を継続できない者と見なされた。それゆえ第二子派は勢いを失い、リヴィアへの継承が固まった。
今、その理由が消えた。
それだけではない。前例のない病を治した功績まで、ユリウスへ加わった。
「お父様」
声に顔を上げると、リヴィアが執務室の入口に立っていた。
「入れ」
彼女は机の前まで来て、閉じられた報告書を見る。
「エレナが治ったそうですね」
「そうだ」
「お喜びにならないのですか」
「喜んでいる」
「当主としては?」
正面から問われ、マルクスは娘を見た。
リヴィアはもう、守られるだけの子供ではなかった。父が隠そうとする政治的な意味も、家臣の動きも理解している。
「当主としては、備える」
「弟にですか」
「弟を担ぐ者たちにだ」
リヴィアの目が細くなる。
「ユリウス本人にその気がなくても、力と実績は人を集める。本人が命じなければ派閥ではない、とは言えない」
「分かっています」
「なら、おまえも備えろ」
「弟を敵だと思えと?」
「違う。弟を愛しているという理由で、自分の責任を放棄するなと言っている」
「愛しているからこそ、弟の力をないものにはしません」
リヴィアは父の視線を正面から受けた。
「エレナが治ったことも、ユリウスが成し遂げたことも祝います。それを恐れて口にしなければ、私が自分の積み上げたものを信じていないように見えるでしょう」
「祝福と警戒を同時に持てるか」
「父上こそ、いま持っておられるのではありませんか」
マルクスは否定しなかった。
厳しい言葉だった。
その厳しさの裏に、マルクス自身の過去があることをリヴィアは知っている。
優秀な弟アウレリウスに席を譲らせたのではないか。その悔いを抱えた父は、同じ形を子供たちに繰り返させまいとしている。
「私は、弟に譲らせません」
リヴィアは言った。
「ですが、弟を小さくして自分が当主になることも望みません」
「その二つを両立させる答えを探せ」
「お父様は、見つけられたのですか」
マルクスは答えなかった。
その沈黙だけを受け取り、リヴィアは一礼して部屋を出た。
廊下には、すでに複数の家臣が待っていた。祝意を伝えたい者、今後の家政分担を確かめたい者、ユリウスへ新しい役目を与えるべきだと進言したい者。同じ報告書が、それぞれ異なる行動を始めさせている。
リヴィアは彼らへ、まずエレナ本人の回復を祝うよう命じた。
命じなければ最初に政治が語られる。その事実自体が、父の警戒の正しさを示していた。
一方、ユリウスはネルヴィア家から届いた追加の医学記録を読んでいた。
「これで将来、同じ病の子が生まれても――」
「ユリウス」
エレナが呼ぶ。
「何?」
「廊下にいる方々が、医学の相談に来たように見えますか」
彼は耳を澄ませた。扉の外で交わされる低い声には、治療後の経過を尋ねる言葉より、家督、血統、支持という語が多い。
「……お祝いだと思っていた」
「お祝いではあります。何を祝っているかが、私たちと違うだけです」
エレナは自分の胸へ手を当てた。正常な脈動は、政治の声に関係なく一定だった。
「治る前の私が残した記録も、治った後の私と同じ人間が書いたものです。そのことを、忘れさせないでください」
「忘れない」
ユリウスは資料を閉じ、妻と並んで扉へ向かった。
扉の向こうには、第三家の家臣たちが控えていた。
治療成功を祝うためだと、ユリウスは思っていた。
彼らが祝いに来たのは、エレナの健康だけではなかった。
回復した後継資格と、ユリウスが再び次の当主候補になったことを祝いに来たのだ。




