第32話 渡す力、返す力
献身の精霊魔法を試す日は、治療の日と同じくらい多くの記録用紙が用意された。
まずエレナ自身の魔力量と体調を測り、ユリウスも身体強化を一定の強さへ整える。何も受け取っていない状態で同じ動作を行い、比較の基準を残した。
「最初は、ごく少量です」
「分かっています」
「温かい、だけで終わらせないでください」
先回りされ、ユリウスは不満そうな顔をした。研究者として長く組んできた妻には、彼が最初に口にしそうな感想まで知られていた。
最初の実験で、エレナは小さな光をユリウスの掌へ渡した。
「何か変わりましたか」
「少し温かい」
「それは感想です。測定結果を」
「身体強化が、僕一人のときより安定している。消費もわずかに減っている」
記録係も、数値を読み上げた。
献身の精霊魔法は、無から力を作るものではなかった。エレナ自身の魔力を相手へ渡し、相手が持つ魔力や身体強化を支え、増強する。
渡した分だけ、彼女の中からは減る。
ユリウスが腕を動かすと、自分の魔力だけを使うときより、力がむらなく全身へ行き渡った。エレナの魔力が代わりに身体を動かすのではない。彼が命じた強化を、横から支えている。
「君の考えていることまで分かるわけではない」
「それは全知の精霊にも分からないでしょう」
「うん。力だけが来ている」
今回の試験では、力を重ねた後も、二人の受け答えや判断に変化は見られなかった。観察できた事実だけを記録へ残した。
「返してみます」
ユリウスは受け取った光を意識した。
二人の間には、細い糸のような感覚が残っている。その糸へ沿わせると、魔力は抵抗なくエレナへ戻った。
受け取ったときの温かさが掌から抜け、重なった手を通って移っていく。エレナは胸へ戻ってきた力が、元から自分のものだったように核へ馴染むのを確かめた。
「返還を確認」
「損失は?」
「今回用意した器具で測定できる範囲では、ほとんどありません」
次は、距離を置いた。
同じ部屋。廊下の端。別棟。
姿が見えない場所では、決めた時刻に合わせて送った。合図の声も光も届かない。それでもエレナが力を渡すと、ユリウスの身体強化は同じように安定した。
少なくとも屋敷の中で試した範囲では、届いた量に明らかな差はなかった。エレナはそのたびユリウスを思い、二人の間に残る経路を探った。二人は成功するたび条件を書き換え、偶然でないことを確かめた。
深く結びついた相手なら、姿が見えなくなってもエレナからユリウスへ力を渡せた。
「では、返します」
別棟にいるユリウスが試す。
魔力は動かなかった。
経路は感じる。だが、返還しようとした力は行き先を失い、彼の中へ留まった。
壁を隔てた程度なら戻せるのではないか。扉の近くなら。互いに手を伸ばせる距離なら。
何度か場所を変えても、接触がないかぎり返還は始まらなかった。譲渡と返還は、同じ道を逆に進むだけの現象ではないらしい。
ユリウスは急いで研究室へ戻り、エレナの手を取った。
その瞬間、受け取っていた魔力が経路を通って滑らかに戻る。
「遅かったですね」
「廊下は走ったよ」
「そういう意味ではありません」
待っていたエレナの声には、研究上の指摘だけではないものが混じっていた。ユリウスは手を離さず、返還が終わるまでその温度を確かめた。
「譲渡は遠隔でも可能」
エレナが記録する。
「返還には直接接触が必要」
「不便だね」
「受け取った人が、返すために帰ってくる必要があります」
「精霊が、そういう仕組みにしたのかな」
二人はこの仕組みを、まず観測できた事実として記録した。なぜその形なのかは、分かったこととして書かなかった。
実験を重ね、安全に渡せる量を測った。
魔力が減れば疲労が生じる。一定量を超えれば手足が冷え、判断が鈍る。それでも安全範囲なら、休息によって自然に回復した。
実験の翌日にも測定し、回復が一時的な見かけではないことを確かめる。少量から始め、一度に増やさず、前回の影響が残っていない状態で次へ進んだ。
エレナが平気だと言っても、数値が戻らなければ休む。ユリウスが心配だからと中止を求めても、記録上安全なら理由を言葉にして相談する。病の研究で定めた原則は、新しい精霊魔法にも引き継がれた。
「ここを下限にしましょう」
エレナが紙へ線を引く。
「この線より下へは渡さない」
「緊急時は?」
「緊急時でもです」
「僕が死にそうでも?」
彼女は筆を止めた。
「意地の悪い質問ですね」
「研究では、最悪の場合を考える必要がある」
「では、研究者として答えます。線を越えれば、私の魔力核は生命維持のための力まで失います。自力で自然回復を始められなくなる可能性がある」
「だから越えない」
「はい」
「約束して」
エレナはすぐには返事をしなかった。
「君が僕を生かすために死ぬのは、望まない」
「私も、あなたが私を生かすために死ぬことは望みません」
「なら」
「ですが、未来のすべてを今ここで縛ることも、互いの選択を奪うことになります」
「約束は、選択を守るためにするものでもある」
「はい。だから、安全限界を理解せず越えないとは約束します。何が起きても決して越えないと、未来の私たちへ命令することはできません」
エレナは紙に引いた線を指でなぞった。
「この線は、軽く扱わないためにあります。越えることを美しく見せるためではありません」
静かな視線が重なる。
「私は危険を理解します。あなたも理解してください。そのうえで、そのときに二人とも生きる可能性を選びます」
ユリウスは納得し切れない顔をした。
それでも、彼女へ絶対の制約を課すことはしなかった。
代わりに、接触すれば必ず返せるよう訓練を続けた。
何度も渡し、何度も返す。
ときには隣室から、ときには屋敷の反対側から。ユリウスは受け取った力を保ったまま戻り、エレナの手を取る。焦って多く返しすぎず、経路に沿って少しずつ戻す手順を、考えなくても行えるまで繰り返した。
返還が終わると、エレナの魔力核が自力の循環を続けていることまで必ず確かめた。
そのたびユリウスは、エレナの手を取るため彼女のもとへ戻った。
二人はまだ知らなかった。
いつかその単純な反復が、生と死の境をつなぐ道になることを。




