↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/57

第31話 献身の精霊

 治療後、エレナは歩くことから始めた。


 第1級の魔力を取り戻したからといって、その力による身体強化を、その日から自在に扱えるわけではない。長く弱い循環に合わせて生きてきた身体へ、突然大きな力が満ちている。


 廊下を端まで歩くだけで、最初の日は目を回した。


「治療は成功したはずでは?」


 寝椅子へ座らされながらエレナが尋ねる。


「成功したよ。今のは、足へ回した身体強化が強すぎただけ」


「床が近づいてきました」


「君が床へ近づいたんだ」


「同じことでは」


 真顔で言われ、ユリウスは笑った。


 歩き方、物を持つ力、魔力を止める感覚。これまでなら漏れて消えていた力が、今は命じるまで身体に残る。エレナは自分を新しい研究対象にし、毎日細かく記録した。


 初めて自分で身体強化をほどよく保てた日は、廊下を往復しても息が乱れなかった。階段の前で立ち止まる必要もなく、話しながら上まで歩けた。


 到着したエレナが振り返ると、ユリウスは数段下で目元を押さえていた。


「泣いていますか」


「汗です」


「階段を上ったのは私です」


「感動すると、目から汗が出ることもある」


 全知の精霊へ確かめようと金色の瞳を見た彼女を、ユリウスは慌てて止めた。


 大きな変化ほど、エレナは喜びだけで終わらせず記録した。病だったころの頁も閉じない。治った今だからこそ、過去の感覚と現在の違いを言葉にできた。


 やがて、精霊契約の日が来た。


 以前の彼女には、契約を結ぶだけの安定した核がなかった。精霊が応じても、力を受け止める経路を保てなかった。


 今は違う。


 契約の前夜、ユリウスは彼女がどんな精霊を選ぶのか尋ねた。


「現れた精霊の名前だけで、君にふさわしいと決めなくてもいいんだよね」


「契約を望む精霊が現れ、その中から私が選びます」


「君が自分を削ることを求める精霊が来たら、選ばなくていい。君はもう、自分の望みを誰かの負担だと思って引っ込めなくていいんだから」


 エレナは夫の心配を理解した。


 かつての彼女は、相手のためだと言いながら、自分が傷つかない距離へ退こうとした。自分を消すことを思いやりだと取り違えたこともある。


「だからこそ、どんな精霊が現れても、その力が何を求めるのかを私自身で見ます」


 その答えを聞いて、ユリウスはようやく頷いた。


 契約の場で、エレナは一人で立った。


 ユリウスは少し離れて見守る。助けを求められれば動ける距離。それでも彼女の選択を奪わない距離だった。


 精霊たちの気配が、静かな空間を巡る。


 やがて一つの精霊の気配が、エレナの前で強まった。


 どのように顕現したのかを、ユリウスは一つの形に言い表せなかった。それでも契約の場にいる者たちには、新たな存在がそこにあると分かった。


 気配とともに、その名がエレナへ伝わった。


「献身の精霊」


 エレナが確かめるように名を呼ぶと、契約の気配がさらに満ちた。


 ユリウスは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 献身。


 その言葉を、彼は一瞬だけ恐れた。


 エレナは長く、自分の希望が他人の負担になると考えてきた。自分を抑え、政治的に決められた妻として振る舞おうとした。そんな彼女が献身を司る精霊と結べば、また自分を後回しにするのではないか。


「ユリウス」


 エレナが振り返った。


 考えていたことを見抜かれたらしい。


「献身とは、死ぬことだけではありません」


「分かっている」


「今、分かっていない顔をしていました」


 ユリウスは、言い返せなかった。


「相手を思いやること。支えること。必要なときに力を渡すこと。そして、渡した後も二人で生きること」


 エレナは精霊の気配へ手を伸ばした。


「私は、自分をなくすためではなく、大切な人と生きるために、この力を選びます」


 その言葉とともに、契約の光が彼女の全身へ広がった。


 正常になった魔力核がそれを受け止め、安定したまま脈打った。


 契約は成立した。


 光が収まっても、エレナはしばらく胸へ手を置いていた。治療によって得た新しい脈動と、そこへ加わった契約の感覚は、互いを押し潰さず重なっている。


 ユリウスは駆け寄りたい足を抑え、彼女がこちらを向くのを待った。


「どう?」


「私のままです」


 短い答えに、二人とも笑った。


 部屋へ戻ると、エレナは早速記録を始めた。


 精霊の格。顕現の状態。契約直後の魔力量。どの行為へ反応するか。


 その日の夜、疲れたユリウスへ飲み物を差し出したとき、献身の精霊の気配がわずかに強まった。


「今ので?」


「今ので、ですね」


 翌朝、ユリウスが資料を抱えているのを見て半分持つと、同じ変化があった。


「これでも?」


「これでも、です」


 エレナが彼の外套の乱れを直す。また気配が強まる。


 ユリウスは周囲を見回した。


 侍女たちが笑いを堪えている。


「少し、分かりやすすぎないかな」


「精霊に隠すよう命じるのですか」


「いや、そういうわけじゃ」


「では、諦めてください」


 エレナは楽しそうだった。


 ただし、彼女は自分の食事を抜いてユリウスへ譲ろうとはしなかった。疲れている日は、飲み物を用意する代わりに彼へ運ばせた。支えることと、自分の健康を軽んじることは同じではないと、行動で確かめた。


 ユリウスが徹夜をしようとすれば研究帳を閉じる。そのあと自分も休む。彼が重い資料を抱えていれば半分を持ち、彼女が疲れれば残りを任せる。


 少なくとも、どちらか一人が消耗し尽くさなければ献身の力が育たない、ということはなかった。二人が日々の中で重ねる、共に暮らし続けるための小さな行いでも、魔力の変化は確かめられた。


 極端な自己犠牲だけが献身ではない。


 一緒に食事をし、相手の疲れを気遣い、日々の小さな世話をする。そのたび精霊は少しずつ育っていく。


 目立たない、ゆっくりとした成長だった。


 それでも二人は、その速さを好ましく思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。