第31話 献身の精霊
治療後、エレナは歩くことから始めた。
第1級の魔力を取り戻したからといって、その力による身体強化を、その日から自在に扱えるわけではない。長く弱い循環に合わせて生きてきた身体へ、突然大きな力が満ちている。
廊下を端まで歩くだけで、最初の日は目を回した。
「治療は成功したはずでは?」
寝椅子へ座らされながらエレナが尋ねる。
「成功したよ。今のは、足へ回した身体強化が強すぎただけ」
「床が近づいてきました」
「君が床へ近づいたんだ」
「同じことでは」
真顔で言われ、ユリウスは笑った。
歩き方、物を持つ力、魔力を止める感覚。これまでなら漏れて消えていた力が、今は命じるまで身体に残る。エレナは自分を新しい研究対象にし、毎日細かく記録した。
初めて自分で身体強化をほどよく保てた日は、廊下を往復しても息が乱れなかった。階段の前で立ち止まる必要もなく、話しながら上まで歩けた。
到着したエレナが振り返ると、ユリウスは数段下で目元を押さえていた。
「泣いていますか」
「汗です」
「階段を上ったのは私です」
「感動すると、目から汗が出ることもある」
全知の精霊へ確かめようと金色の瞳を見た彼女を、ユリウスは慌てて止めた。
大きな変化ほど、エレナは喜びだけで終わらせず記録した。病だったころの頁も閉じない。治った今だからこそ、過去の感覚と現在の違いを言葉にできた。
やがて、精霊契約の日が来た。
以前の彼女には、契約を結ぶだけの安定した核がなかった。精霊が応じても、力を受け止める経路を保てなかった。
今は違う。
契約の前夜、ユリウスは彼女がどんな精霊を選ぶのか尋ねた。
「現れた精霊の名前だけで、君にふさわしいと決めなくてもいいんだよね」
「契約を望む精霊が現れ、その中から私が選びます」
「君が自分を削ることを求める精霊が来たら、選ばなくていい。君はもう、自分の望みを誰かの負担だと思って引っ込めなくていいんだから」
エレナは夫の心配を理解した。
かつての彼女は、相手のためだと言いながら、自分が傷つかない距離へ退こうとした。自分を消すことを思いやりだと取り違えたこともある。
「だからこそ、どんな精霊が現れても、その力が何を求めるのかを私自身で見ます」
その答えを聞いて、ユリウスはようやく頷いた。
契約の場で、エレナは一人で立った。
ユリウスは少し離れて見守る。助けを求められれば動ける距離。それでも彼女の選択を奪わない距離だった。
精霊たちの気配が、静かな空間を巡る。
やがて一つの精霊の気配が、エレナの前で強まった。
どのように顕現したのかを、ユリウスは一つの形に言い表せなかった。それでも契約の場にいる者たちには、新たな存在がそこにあると分かった。
気配とともに、その名がエレナへ伝わった。
「献身の精霊」
エレナが確かめるように名を呼ぶと、契約の気配がさらに満ちた。
ユリウスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
献身。
その言葉を、彼は一瞬だけ恐れた。
エレナは長く、自分の希望が他人の負担になると考えてきた。自分を抑え、政治的に決められた妻として振る舞おうとした。そんな彼女が献身を司る精霊と結べば、また自分を後回しにするのではないか。
「ユリウス」
エレナが振り返った。
考えていたことを見抜かれたらしい。
「献身とは、死ぬことだけではありません」
「分かっている」
「今、分かっていない顔をしていました」
ユリウスは、言い返せなかった。
「相手を思いやること。支えること。必要なときに力を渡すこと。そして、渡した後も二人で生きること」
エレナは精霊の気配へ手を伸ばした。
「私は、自分をなくすためではなく、大切な人と生きるために、この力を選びます」
その言葉とともに、契約の光が彼女の全身へ広がった。
正常になった魔力核がそれを受け止め、安定したまま脈打った。
契約は成立した。
光が収まっても、エレナはしばらく胸へ手を置いていた。治療によって得た新しい脈動と、そこへ加わった契約の感覚は、互いを押し潰さず重なっている。
ユリウスは駆け寄りたい足を抑え、彼女がこちらを向くのを待った。
「どう?」
「私のままです」
短い答えに、二人とも笑った。
部屋へ戻ると、エレナは早速記録を始めた。
精霊の格。顕現の状態。契約直後の魔力量。どの行為へ反応するか。
その日の夜、疲れたユリウスへ飲み物を差し出したとき、献身の精霊の気配がわずかに強まった。
「今ので?」
「今ので、ですね」
翌朝、ユリウスが資料を抱えているのを見て半分持つと、同じ変化があった。
「これでも?」
「これでも、です」
エレナが彼の外套の乱れを直す。また気配が強まる。
ユリウスは周囲を見回した。
侍女たちが笑いを堪えている。
「少し、分かりやすすぎないかな」
「精霊に隠すよう命じるのですか」
「いや、そういうわけじゃ」
「では、諦めてください」
エレナは楽しそうだった。
ただし、彼女は自分の食事を抜いてユリウスへ譲ろうとはしなかった。疲れている日は、飲み物を用意する代わりに彼へ運ばせた。支えることと、自分の健康を軽んじることは同じではないと、行動で確かめた。
ユリウスが徹夜をしようとすれば研究帳を閉じる。そのあと自分も休む。彼が重い資料を抱えていれば半分を持ち、彼女が疲れれば残りを任せる。
少なくとも、どちらか一人が消耗し尽くさなければ献身の力が育たない、ということはなかった。二人が日々の中で重ねる、共に暮らし続けるための小さな行いでも、魔力の変化は確かめられた。
極端な自己犠牲だけが献身ではない。
一緒に食事をし、相手の疲れを気遣い、日々の小さな世話をする。そのたび精霊は少しずつ育っていく。
目立たない、ゆっくりとした成長だった。
それでも二人は、その速さを好ましく思った。




