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全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


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第30話 新しい脈動

 ユリウスが十六歳を迎えて間もない日、治療室には必要な者だけが残った。


 ユリウスとエレナ。ネルヴィア家の治療術師たち。そして、記録を担当する者。


 部屋の外には両家の家族が待っている。だが、誰も中へ入れなかった。家族の祈りや動揺も、声や動きとなれば集中を乱し、治療手順へ影響する可能性があった。


 治療室の器具は、前夜に一度、今朝にもう一度確かめた。使わない物はすべて運び出し、誰がどの位置に立つかも床の印で定めてある。異常が起きた場合の合図と中止の条件は、壁に見える大きさで掲げられていた。


 それでも、予定どおりに並んだものを見回すユリウスの指は冷たかった。


 全知の精霊へ具体的に問えば、準備一覧にある器具と実物の差や、合意した手順と書面の食い違いは確かめられる。だが今日、この治療が成功するかという問いに答えはない。


 エレナは寝台へ横たわり、胸の上で両手を組んでいた。


「まだ、やめられます」


 ユリウスが言うと、エレナは組んでいた手をほどいた。


「あなたも、まだ中止できます」


「僕が?」


「医療として実行できないと思ったなら。昨日、そう決めたでしょう」


 不安を隠して勇気のある振りをするのではなく、それでも実行できるかを互いに確かめる。ユリウスは一度深く息を吸い、震えが収まるまで吐いた。


「実行できます」


「私も受けます」


「始めます」


 ユリウスが告げる。


「お願いします」


 まず、乱れて流れる魔力を外側から支える。


 魔力不全症は、魔力がない病ではない。第1級の純度を受け継ぎながら、それを安定して留める核が正常に形成されていない。溜めようとするほど漏れ、流そうとするほど経路が乱れる。


 ユリウスは彼女の手首へ触れ、全知へ具体的な問いを立てた。


 今この瞬間、どの経路にどれほどの魔力があるか。


 答えが意識へ届く。


「第一段階」


 治療術師たちが、エレナの四肢と身体を巡る流れを一定に保つ。彼女の呼吸が浅くなった。


 ユリウスは核へ細く魔力を差し入れた。


 壊して作り直すのではない。


 崩れた部分を一度に押し固めれば、別の歪みが生まれる。足りない場所へ支えを作り、余分に折れ重なった経路をほどき、エレナ自身の核が正常な形を選べるよう導く。


「右側、流量上昇」


 記録者の声。


「想定範囲です」


 エレナが自分で答えた。


 患者にしか分からない感覚がある。胸の奥で引きつる場所、熱が滞る位置、呼吸とともに流れが変わる瞬間。


「もう少し下です」


「ここ?」


「違います。指一本分ほど、内側」


 ユリウスが流れを変える。


 エレナの眉が寄った。


「そこです」


 痛みで額に汗を浮かべながら、彼女は意識を手放さなかった。


 ユリウスは返事を聞くたび、決めていた項目へ印を入れた。痛みの強さ、呼吸の間隔、意識が明瞭か。夫としてなら、すぐに手を止めたくなる表情だった。治療を担う者としては、合意した中止条件に届いていないことも見なければならない。


「私を見てください」


 エレナが言った。


「見ている」


「心配している夫の目ではなく、記録を読むときの目で」


 厳しい注文に、ユリウスは唇を引き結んだ。彼女は守られるだけの身体ではない。感覚を伝え、処置を修正する、治療の一員だった。


 時間が進む。


 一つ整えるたび、別の場所が崩れようとする。成長期の長い年月を、歪んだまま均衡してきた核である。その均衡をほどく以上、身体は元の形へ戻ろうとした。


「魔力の漏出が増えています」


「補助を上げる」


 ユリウスは魔力を注いだ。


「上げすぎです」


 エレナが苦しい息の中で言う。


「でも、このままでは」


「私の核が、あなたの魔力へ寄りかかります。計画どおりに」


 一人で支え続ければ、治療後も自力で動けない核になる。


 ユリウスは歯を食いしばり、流量を戻した。


 助けることと、相手の代わりになることは違う。


「最終段階へ」


 外から支えていた魔力を、一つずつ外す。


 エレナの核が震えた。


 一度、流れが止まる。


 部屋の誰もが息を止めた。


 全知に問う。


 エレナの生命活動は保たれている。核は損壊していない。だが、まだ自力の循環が始まっていない。


 あと一押しを加えるべきか。


 待つべきか。


 未来の結果は知れない。


 問いを重ねても、届くのは現在までの事実だけだった。生命は保たれている。核は壊れていない。予定した待機時間もまだ残っている。


 ならば、恐怖を新しい情報のように扱ってはいけない。


 ユリウスはエレナの顔を見た。


 彼女が、ごく小さく首を横へ振った。


 待って。


 言葉にならない意思を受け、ユリウスは手を出さなかった。


 一拍。


 二拍。


 静けさの中で、ユリウスには自分の鼓動ばかりが大きく聞こえた。待つと決めた時間が、戦場で魔獣の爪を待つより長い。誰かが息を呑む音にも手が動きそうになり、彼は寝台の縁を握って耐えた。


 三拍目を数えようとした、その前に。


 胸の奥で、小さな光が脈打った。


 それはユリウスが与えた魔力ではない。


 エレナ自身の核が生み出した、最初の安定した魔力だった。


 もう一度、脈打つ。


 流れが一つの輪になり、全身へ巡り始めた。


 記録者が声を震わせる。


「循環、維持されています」


 治療術師が涙を拭う。


 ユリウスは問いを立てた。魔力純度。核の形。経路の安定性。どの答えも、これまで一度も得られなかった正常の範囲を示す。


「エレナ」


 彼女がゆっくりと目を開けた。


「終わりましたか」


「うん」


 声が掠れた。


「君の核が、自分で動いている」


 エレナは胸へ手を置いた。


 生まれて初めて感じる、一定の脈動。


 強くも激しくもない。ただ、途切れずにそこにある。


「これが、私の魔力なのですね」


「そうだよ」


 術師たちは補助を戻さず、しばらく循環を見守った。新しい脈動は弱まらない。外から支えられなくても同じ間隔を保ち、巡った魔力が再び核へ戻ってくる。


 エレナは指先へごく薄く力を集め、すぐに解いた。今までは留めようとする間にも失われていたものが、命じるまでそこにあった。


「消えません」


 その驚きに満ちた一言で、ユリウスの視界が滲んだ。


 ユリウスは笑おうとして、先に泣いた。


 エレナも泣きながら笑った。


「記録を」


 涙声のまま彼女が促すと、呆然としていた記録者が慌てて筆を動かした。治療直後の最初の脈動、その間隔、補助を外しても循環が続いたこと。歓喜の中でも、次の患者へ渡すべき事実を残す仕事は終わっていなかった。


 治療室の外で待つ者たちは、まだ結果を知らない。


 けれど白紙だった最後の図には、もう描くべき新しい脈動が生まれていた。


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