第29話 選ぶのは患者
結婚してから、季節が一巡しようとしていた。
研究室の壁には、細い線で描かれた魔力核の図が何枚も並んでいる。正常な核。エレナの核。治療の途中で想定される形。失敗した場合に起こり得る崩壊。
最後の一枚だけは、白紙のままだった。
治療後、と上に書かれている。
「安定しています」
エレナが自分の脈を取りながら言った。
「前月より揺らぎが小さい。昨日と今日の差も、測定誤差の範囲です」
ユリウスは彼女の記録と、全知から得た人体の知識を照合した。
成長途中の魔力核へ手を加えれば、形を整えるより先に新たな歪みを作る危険があった。そのため二人は待った。成人した身体に核が馴染み、これ以上大きく形を変えない時期まで。
条件は揃っている。
その結論へ至るまでに、二人はネルヴィア家の治療術師たちを交え、同じ確認を何度も重ねた。核の状態が前の観察から変化していないこと。途中で中止できる段階と、一度進めれば元へ戻せない段階。想定外の変化が起きたとき、誰が中止を命じるのか。
成功を望む者だけで話を固めないため、計画へ慎重な術師にもすべての記録を渡した。指摘を受けるたび手順は書き直され、実施できると判断されるまで、最初の案よりずっと長いものになった。
エレナの家族も説明を聞いた。父は治療を受けろとも、危険だから諦めろとも言わなかった。
「家として望む答えと、おまえが選ぶ答えを混ぜてはならない」
そう告げ、最後には家族さえ席を外した。
残った空白を埋められるのは、エレナだけだった。
それでもユリウスは、白紙を見た。
「もう一度、危険を確認しよう」
「昨日もしました」
「昨日と今日で、君の状態が変わっているかもしれない」
「それなら、今日の測定結果を確かめるべきです。治療法の既知の危険については、昨日から新しい記録は増えていません」
「……そうだね」
エレナは少し笑った。
笑われても、ユリウスは手元の紙を置かなかった。
魔力の流れを一時的に止める時間が長ければ、身体そのものが保たない。短すぎれば、歪んだ経路を整える前に元へ戻る。核へ直接働きかける以上、失敗すれば今より悪化する可能性もある。
治療例は、過去に一つもない。
エレナは胸へ指を当てた。長年そこにあった不規則な揺らぎは、今日も静かに続いている。苦しい日もあれば、病を忘れられる日もある。このままなら、明日ただちに命を失うわけではない。
治療を選ばず、今の均衡を守る道も確かに存在した。
誰かに勇敢だと呼ばれるために、その道を捨てるつもりはない。最初の患者になるという言葉を、美しい自己犠牲へ変えるつもりもなかった。怖さを小さく見せず、得られるものと失い得るものを同じ重さで見て、それでも自分が望むほうを決める。
「僕には、成功すると約束できない」
「知っています」
「全知で得られるのは、人体と魔力について存在する知識だ。まだ誰も行ったことのない治療の結果じゃない」
「それも知っています」
「最悪の場合は――」
「死にます」
エレナが先に言った。
静かな声だった。
「だから、僕は」
「ユリウス」
呼ばれて、顔を上げる。
「あなたは、治療する者が決めることと、治療される者が決めることを混ぜています」
エレナは二人の記録を机の中央へ置いた。
「方法が実行可能かを判断するのは、医療を行う側の責任です。危険を理解したうえで、その方法を受けるか決めるのは、患者の権利です」
その言葉は、二人が研究の初めに決めた原則だった。
未知の治療を前にして、ユリウス自身が破ろうとしていた。
治療する側の不安は、患者の同意を軽く扱う理由にはならない。危険だからと黙って進めることも、危険だからと本人の意思を聞かず止めることも、どちらも同じように彼女を研究から追い出す。
ユリウスは、膝の上で固く握っていた手を開いた。
エレナを愛している。
だから失いたくない。
しかし、その思いを理由に彼女の選択を取り上げれば、治すという名で相手を自分の所有物にすることになる。
「怖くない?」
「怖いです」
エレナは即答した。
「失敗も、痛みも、死ぬことも怖い。ですが、怖くないことだけが、自分で選んだ証明ではありません」
白紙の図へ指を触れる。
「私は、自分が治ることだけを望んで研究してきたのではありません。次に同じ病で生まれる人へ、治療できる可能性を残したい。その最初の患者になることを選びます」
「君が成功しなければ、次はない」
「ならば、成功するために準備した一年を信じます」
「僕を、ではなく?」
「私たちを、です」
エレナの返事に、ユリウスは目を伏せた。
「途中で、やめたいと思ったら」
「その時点で戻れる段階なら、やめます」
「僕が続けるべきだと言っても?」
「患者である私が決めます」
「君が続けたいと言っても、医療として実行できない状態なら、僕が止める」
「それが、あなたの責任です」
二人は見つめ合い、同時に頷いた。選ぶ権利を守ることは、すべてを患者一人へ背負わせることでもなかった。
一人で救うつもりになっていた。
彼女の記録と知識がなければ、治療法の輪郭さえ作れなかったというのに。
ユリウスは白紙の隣へ、新しい紙を置いた。
そこへ、治療の日付を書き込む。
「最後に確認します」
公的な場で使うような、はっきりした口調で尋ねた。
「エレナ・ネルヴィア。予想される危険と、過去に成功例がないことを理解したうえで、この治療を受けますか」
エレナも、研究者ではなく一人の患者として答えた。
「はい。私の意思で受けます」
その声を記録者が書き留める。ユリウスも、本人から同意を受けたこと、自分が方法を実施可能と判断したことを署名して残した。
どちらか一人の決断ではない。役割の異なる二人が、それぞれ引き受けるべきものを引き受けた記録だった。
白紙だった未来に、最初の文字が記された。




