第28話 夫婦の研究室
婚礼を終えた翌日、エレナはネルヴィア家からカルディス家へ居を移した。
門をくぐった荷車には、衣装箱や嫁入り道具に混じって、幼いころから書き続けた症状帳、薬学書、調合器具、家族から届いた手紙を収めた小箱が積まれていた。
夫婦に与えられた居室の前で、エレナは一度だけ足を止めた。ネルヴィア家には、動悸が起きればすぐ術師を呼べるよう整えられた自室と、廊下を行き交う家族の足音があった。今日から暮らす場所には、まだ自分の記憶が一つもない。
「具合が悪いなら、運び込みは後日にできます」
ユリウスが心配そうに顔を覗き込む。
「いいえ。今日から、ここが私たちの部屋になるのだと思っていただけです」
エレナは自分で敷居をまたいだ。
診察と共同研究のため、エレナは今後もネルヴィア家へ通う。家族や治療術師も必要に応じてカルディス家を訪ねる。カルディス家を新しい住まいとしながら、ネルヴィア家との医療と家族のつながりも保つことを、両家で決めていた。
症状帳と薬学書は、居室の隣にある一室へ運び込まれた。そこへカルディス家の魔法記録とユリウスの比較表も加わり、婚礼から三日もしないうちに、部屋は二人の研究室になった。
カルディス家での暮らしが始まって、最初にできた習慣は、研究室へ朝食が運ばれることだった。
正確には、食堂へ来ないユリウスを探して、エレナが朝食を持ってくるようになった。
「冷めます」
「あと、この一頁だけ」
「昨日もそう仰いました」
「昨日は三頁でした。今日は一頁です」
「進歩として記録しておきましょうか」
ユリウスはようやく顔を上げた。
研究室は、すでに壁際の棚まで資料で埋まり始めていた。
中央には大きな卓が一つ。
婚約当初の客間と違い、二人を隔てるためではない。同じ資料を広げ、同じ側から見るための卓だった。
エレナは皿を置き、開かれていた本を閉じた。
「食事を忘れた状態で考えた仮説は、昨日より正確になるのですか」
「なりません」
「では、召し上がってください」
ユリウスは素直に椅子へ座った。
「あなたも一緒に」
「私はもう済ませました」
「僕を探す前に?」
エレナが一瞬黙る。
「……半分ほど」
「では、残りを持ってきてもらいましょう」
患者の体調を気遣う研究者の顔になった夫に、今度はエレナが従う番だった。
夫婦の暮らしと研究は、きれいに分かれてはいなかった。
朝食の途中で症状について思いつき、二人同時に筆を取ることがある。夜、研究を終えたはずが、寝台へ入ってから記録の食い違いに気づくこともあった。
反対に、研究室で体調を確かめていたはずが、いつの間にか今日の食事や、届いた家族の手紙の話になる。
「研究と休息の境目がありません」
エレナが言うと、ユリウスは新しい板を扉へ掛けた。
研究中。
休息中。
札を裏返せば、どちらの時間か分かる仕組みである。
初日の夜には、休息中の札を掛けたまま二人で研究していた。
「役に立っていませんね」
「札が間違っているのではなく、僕たちが守っていないだけです」
「ならば、守るための決まりも作りましょう」
研究帳の端に、食事中は本を開かない、夜更けを越えて続けない、どちらかが休むと言ったら反対しない、と書き加えた。
その決まりも完璧には守れなかったが、破った日は互いに気づけた。
季節が一つ巡る間に、二人は過去の治療記録をほぼすべて条件ごとに分け直した。
「治癒魔法が効かなかった」という一文だけでは足りない。
どの時点で、誰が、どれほどの魔力を使ったか。処置の直後に何が変わり、どのくらいで元へ戻ったか。患者自身はどう感じたか。
記録にないことを全知の精霊へ問うても、答えが存在しなければ得られない。古い症例を知っていた者も、すでに言葉を残さず世を去っている。
だから二人は、分からない欄を想像で埋めなかった。
空白のまま残し、その空白が何を判断できなくするかを書いた。
「全知があっても、空白は消えないのですね」
エレナが言った。
「僕がもっと上手く問えば知れることもあります。でも、存在しない記録までは作れません」
金色の瞳が静かに瞬く。
「その代わり、これからの記録には空白を作らないようにできます」
エレナは新しい診察表を示した。
術師が外から観察する魔力核の変化と、本人が内側で感じる変化を、同じ時刻で並べる形式にしてある。
二人は身体へ負担をかけない範囲で条件を変え、何度も記録した。
休息しているとき。食事のあと。ごく弱い治癒魔法へ触れたとき。自然に症状が起きたとき。
危険な処置はしない。変化が大きければ即座に止める。治療術師を必ず同席させる。
急げば近道に見える試みほど、二人で退けた。
やがて、外から観察された変化と、エレナが「留まれず滑り落ちる」と表現した瞬間が、何度も重なることが分かった。
答えではない。
けれど、どこを見ればよいかを示す目印にはなった。
ユリウスは全知の精霊へ、そこに関係し得る医学、人体、魔法の知識を、範囲を絞って問い続けた。広すぎる問いは魔力を奪い、必要のない答えまで押し寄せる。条件を一つずつ定め、エレナと相談してから問う。
以前の彼なら、知り得るかぎりを一度に知ろうとしたかもしれない。
いまは問いのあとに必ず、二人で答えを確かめた。
「この方法なら、魔力核へ働きかけられる可能性があります」
ある冬の夜、ユリウスは何度も書き直した図を卓上へ置いた。
「ただし、可能性です。過去のどの処置とも条件が違う。全知が示した個々の知識は既存のものですが、それをこの病へどう組み合わせるかは、まだ誰も知りません」
エレナは図を長く見つめた。
「危険は」
「あります」
ユリウスは隠さなかった。
魔力を生み出し循環させる中枢へ手を加える。失敗すれば、いま保たれている均衡まで崩す可能性がある。良くなる保証はなく、悪化しない保証もない。
「すぐには行いません」
彼は図を伏せた。
「核の状態が十分に安定したと、長期の記録で確認する必要があります。手順も、止める条件も、失敗した場合の対処も足りない」
「分かりました」
エレナは急かさなかった。
春になり、夏が来た。
ユリウスが十六歳へ近づくころまで、二人は準備を重ねた。
処置の各段階を細かく分け、どこまでなら引き返せるかを術師たちと検討する。必要な魔力、治癒の補助、観察する者、緊急時の対応。結果を楽観した者の目ではなく、失敗を恐れる者の目でも確かめてもらった。
候補となる手順は、少しずつ一つの形になった。
研究室の棚には、成功へ至る方法より多く、採用しなかった方法が並んでいる。
「これで、すべてですか」
ある夜、エレナは完成した資料の束へ触れた。
「分かっていることは、すべて書きました」
「成功する可能性も」
「推定できる範囲で」
「失敗した場合も」
「隠していません」
エレナは頷いた。
最後の頁には、実施の可否を記す欄があった。
そこだけが空白だった。
「なぜ、書かないのですか」
ユリウスは筆を持ったまま答えなかった。
治したい。
誰より強く、そう願っている。
同時に、自分の願いのために彼女へ危険を選ばせることが恐ろしかった。
「これは、僕が決めてはいけないことです」
ようやく言う。
エレナは空白の欄を見つめた。
婚約が決まったとき、彼女の人生は家同士の判断で進んだ。
結婚の日、二人はそれを自分たちで選び直した。
そして今、研究によって初めて生まれた治療の可能性もまた、誰かから与えられる答えではなかった。
夫婦の研究室で最後に残った空白は、患者である彼女自身が選ぶために残されていた。




