第26話 封じられた後継者
婚約が公になってから、ユリウスの名は後継候補を論じる席から少しずつ消えていった。
最初に変わったのは、家臣が作る予定表だった。
他家との会談、属州からの報告聴取、騎士団の閲兵。かつては姉弟それぞれに割り振られていた当主候補としての役目が、リヴィアへ集められていく。
ユリウスの予定には、情報制度の整備、孤児院の事業、ダンジョンに関する調査、そしてネルヴィア家での医学研究が並んだ。
彼が望んで始めた仕事ばかりだった。
だから本人は、しばらく変化の意味に気づかなかった。
「こちらをご確認ください」
家臣から渡された文書を読み、ユリウスは首を傾げた。
「次の家政会議に、私の席がありません」
「今後、殿下には専門の事業へ力をお注ぎいただくこととなりました」
「報告書式の変更について議題があるはずです。私が説明したほうが早いと思いますが」
「資料は、リヴィア殿下へ引き継いでおります」
丁寧な言い方だった。
拒絶ではなく配慮に聞こえるよう、よく整えられている。
それでもユリウスはようやく、婚約を機に、周囲が自分を当主教育の中心から外し始めたのだと理解した。
「分かりました。姉上から質問があれば答えます」
あっさり受け入れると、家臣のほうが戸惑った。
当主になりたいと思ったことはない。姉から席を奪うつもりもない。自分の好きな研究や事業に時間を使えるなら、むしろ望ましいとさえ思った。
だが、その反応もまた、周囲には別の意味を持った。
第二子派と呼ばれ始めた者たちは、殿下は屈辱を耐えている、と囁いた。
長子を支持する者たちは、ユリウスが表面上従って機会を待っているのではないかと警戒した。
本人が争う意思はないと語っても、誰もがその言葉だけを受け取るわけではない。
「私の名を掲げるのは、やめてください」
ユリウスは、自分の名を掲げようとする家臣たちを集めて言った。
「カルディス家の長子は姉上です。姉上は、私より長く当主になるための訓練を受けています。私の事業を理由に、家を二つへ分けないでほしい」
「しかし殿下。家督は長幼ではなく、実力によって定まります」
「それは知っています」
「大精霊たる全知の精霊と契約し、第1級指揮官を討たれた御方が、初めから候補にならぬのは道理に反します」
「私の戦いで兵に死傷者が出たことも、知っているはずです」
「それを補って余りある戦果です」
ユリウスは言葉を失った。
自分が最も重く受け止めている失敗は、彼らにとって、差し引きできる数字の一つにすぎないらしい。
「私は、姉上と争うつもりはありません」
改めて、はっきり告げた。
家臣たちは頭を下げた。
だが、その沈黙が納得を意味しないことまでは、ユリウスにも分かった。
「ずいぶん立派な演説だったそうね」
その夜、訓練場へ呼び出されると、リヴィアは木剣を一本投げてよこした。
「姉上にも伝わったんですか」
「私を支持しろと命じられた者が、真っ先に私へ報告に来たわ。『殿下はご自身を犠牲にしておられる』と」
「なぜ、そうなるんだろう」
「あなたが政治を知らないからよ」
リヴィアの木剣が、予告なく振り下ろされた。
ユリウスは辛うじて受ける。腕が痺れた。
「話している途中です」
「相手が待つとは限らない」
二撃目が横から来る。ユリウスは後ろへ跳び、金色の瞳を呼び出しかけた。
「精霊へ頼る前に足を動かす!」
叱られ、慌てて踏み込む。
しばらくは木剣の音だけが続いた。
最後にユリウスの剣が弾かれ、土の上へ落ちる。リヴィアは息一つ乱さず、その喉元へ切っ先を止めた。
「私は、あなたが小さくなることで当主になるつもりはない」
「小さくなったつもりはありません」
「なら、強くなり続けなさい。私が追いつけないほど遠くまで行って、それでも私のほうが当主に向くと言うなら、そのとき自分の言葉で説明して」
ユリウスは姉を見上げた。
婚約によって政治上の道は閉じられた。それでも彼女は、弟へ力を抑えろとは言わない。
「姉上は、僕が当主になりたいかもしれないとは思わないんですか」
「思っているかもしれないし、思っていないかもしれない。あなた自身、まだ分かっていないでしょう」
図星だった。
当主の座を望んではいない。だが、正式に道を閉ざされて初めて、選ばなかったことと、選べなくされたことが違うとも感じていた。
「だから、いま決めたつもりにならないことね」
リヴィアは木剣を引いた。
「それまでは、私もあなたも、自分の役目を果たす。手加減はなしよ」
「はい」
ユリウスは落ちた剣を拾った。
表向きの後継問題は、ほどなく決着した。
家政と軍務の中心にはリヴィアが置かれ、諸家も彼女を次代の当主として扱い始める。ユリウスの婚姻では第1級を正常に継ぐ子を望めないという判断は、彼を候補から外すのに十分だった。
マルクスの狙いどおり、家中の声はひとまず静かになった。
しかし、消えたわけではない。
ユリウスのもとには、孤児院からの報告が届き続けた。彼が整えた情報の仕組みを使う官僚も増えた。ダンジョン侵攻での名声も、時が経つほど整った英雄譚になっていく。
支持する者たちは旗を畳んだだけで、捨てなかった。
そんな政治の底流から少し離れ、ユリウスとエレナは研究を続けた。
「本当に、この婚約のままでよいのですか」
ある日、エレナが改めて尋ねた。
「後継候補から外されたことを、いまになって軽いことだとは思いません。私との婚姻が、その理由になっています」
ユリウスは少し考えた。
「選べなくされたことに、何も感じないわけではありません」
以前なら、すぐに気にしていないと答えただろう。だがそれでは、姉にもエレナにも嘘になる。
「でも、あなたとの婚約をやめて道を開けたいとは思いません。僕があなたを選ぶことと、当主についていつか答えを出すことは、別です」
エレナは静かに頷いた。
「私も、治ることを婚姻の条件にはいたしません」
「それは僕の台詞です」
「私から申し上げてもよいでしょう」
二人は笑い、研究帳を開いた。
季節が重なっても、決定的な治療法は見つからなかった。
仮説を立て、危険を除き、試せる範囲を確かめる。成果は遅く、婚約によって閉ざされた道だけが先に確定したように見えた。
婚約から幾年もの季節が重なり、やがてユリウスが成人を迎える年が近づいた。
治療の成功を待って婚姻を延ばすべきだという声もあった。病が治れば、政治的な条件を改めて考え直せるからだ。
ユリウスは、その提案を退けた。
「治るかどうかで結婚を決めるなら、僕が彼女を選んだことになりません」
成人の日を越えたのち、二人は予定どおり婚姻する。
そう告げた彼の言葉によって、閉じられたはずの道の先に、別の未来が定まり始めた。




