第25話 あの日の本心
共同研究を始めてから、二人の間にあった卓は少しずつ狭くなった。
正確には、卓そのものが変わったわけではない。
向かい合って座っていた二人が、同じ記録を見るため隣り合うようになった。症状帳と診察記録を並べ、金色の瞳が示す知識を書き留めようとすれば、広い客間より小さな研究室のほうが都合がよかった。
儀礼のために控えていた人々も、研究が始まると必要なときだけ出入りするようになった。
義務という距離は、仕事に追われるうちに、いつの間にか縮んでいた。
「この仮説は違います」
エレナがきっぱり言った。
「まだ最後まで説明していません」
「最初の条件が、私の記録と合いません。魔力量が減ったあとだけ核が不安定になるなら、朝の症状を説明できないでしょう」
「朝の記録は、前夜からの影響かもしれません」
「では、前夜に症状がなかった日の朝は?」
ユリウスは口を開き、そのまま閉じた。
帳面を確かめる。エレナの言うとおりだった。
「……違いますね」
「はい」
「もう少し、言いにくそうにしてくれても」
「共同研究者ですから、早く違うと分かったほうがよいでしょう」
もっともな答えに、ユリウスは机へ額をつけた。
金色の瞳が、その姿を見下ろすように浮かぶ。
「全知も、分かっていたなら先に教えてくれればいいのに」
問われていない。
言葉ではない答えが、妙にはっきり伝わった。
エレナが口元を押さえる。
「笑いましたか」
「いいえ」
「笑いました」
「少しだけです」
ユリウスもつられて笑った。
研究は、失敗のほうが多かった。
過去の治療法を条件ごとに分け直し、薬の影響を比較し、治癒魔法をどこまで細く制御できるかを確かめる。見込みがあると思った仮説が、エレナの一行の記録で崩れることもあった。
それでも、二人で崩した仮説は無駄ではなかった。違う道を一つ消し、次に問うべきことを残した。
その日も、頁の上へ大きな線を引き、ユリウスは筆を置いた。
「今日はここまでにしましょう」
「まだ時間はあります」
「顔色が変わりました」
エレナは反論しようとして、諦めた。
以前なら、病気のことしか見ていないと思っただろう。いまは、彼が帳面を見るより先に自分の呼吸へ気づいたことが分かる。
侍女が薬湯を運び、術師が短い診察をして退室した。
研究室に静けさが戻る。
ユリウスは本を片づけ始めたが、エレナは席を立たなかった。
「一つ、研究とは関係のないことを伺っても?」
「はい」
「婚約が発表された日のことです」
ユリウスの手から本が滑った。
床へ落ちる前に掴んだものの、顔が目に見えて赤くなる。
「な、何でしょう」
「なぜ、あの場で蹲られたのですか」
いつか聞かなければならないと思っていた。
研究者として並んで歩けるようになっても、婚約の始まりにある誤解を残したままでは、その先を選べない。
「責めるつもりはありません」
エレナは静かに続けた。
「私との婚約によって、殿下は当主候補から外されました。望まない婚約であったとしても当然です。これまで誠実に接してくださったことには感謝しています。ですが、将来まで義務だけで縛ることは望みません」
「望まない?」
「あの日、とてもお辛そうでした」
「辛くはありませんでした」
ユリウスは即座に否定した。
「では、なぜ」
逃げ道を探して、金色の瞳を見る。
精霊は静かに瞬いただけだった。
あの日から、何度も言おうとした。会いに来た理由を病状へ変え、会いたい気持ちを研究へ隠した。その結果、エレナはいまも自分が望まれていないと思っている。
問いを立てなければ答えは得られない。
知らせなければ、知ってはもらえない。
全知の精霊と契約して最初に学ぶべきだったことを、ユリウスはようやく自分の心へ当てはめた。
「嬉しかったからです」
エレナが瞬く。
「……はい?」
「婚約できると聞いて、嬉しくて。でも父上が僕の気持ちを知っていたなら、家臣たちも全員知っているのではないかと思ったら、急に恥ずかしくなって」
「お待ちください」
エレナは片手を上げた。
「気持ち、とは」
そこまで言わなければ伝わらないのか。
ユリウスは逃げ出したいほど恥ずかしかった。けれど、あの日のように蹲るわけにはいかない。
「初めてお会いしたときから、あなたが好きでした」
声が上ずる。
「薬瓶が割れた中庭で、怪我をした見習いを助けていたでしょう。まだ生まれてもいない患者のために記録を残すと言った。僕は、たぶん、そのときに一目惚れしました」
エレナは動かなかった。
「だから婚約が決まって、夢みたいに嬉しかったんです。あとで、婚約を境に僕の名が後継候補から外れていったことと、皆があの日の僕をどう受け取ったかを知りました」
「では、あの震えは」
「笑うのを我慢していました」
エレナは両手で顔を覆った。
ユリウスの胸が冷える。
「すみません。やっぱり、迷惑でしたか」
「違います」
顔を覆ったまま、彼女は答えた。
「私もいま、とても顔を見られないだけです」
長い沈黙のあと、エレナはようやく手を下ろした。その頬にも、普段にはない色が差している。
「私は、殿下が義務で来てくださるのだと思っていました。私ではなく、病にしか関心がないのだと」
「病気を知りたいのは、あなたのことだからです」
「もし、治らなかったら」
その問いだけは、震えていた。
「私がこのまま精霊と契約できず、第1級の子を残せなくても、同じですか」
「僕が好きになったときから、あなたは病気でした」
ユリウスは迷わなかった。
「治したい。でも、それは好きになるための条件ではありません。治らなければ婚約をやめたいなんて、一度も思っていません」
エレナは目を閉じた。
ずっと胸の上へ載っていた重みが、少しずつほどけていく。
「私は、最初は申し訳なさばかりでした」
彼女は正直に言った。
「けれど、いつからか、廊下の足音を待つようになりました。使者だけが来る日は、安心するはずなのに寂しかった。研究室で一緒に答えを探す時間が、終わらなければよいと思いました」
エレナはユリウスを見る。
「いまは、あなたが来てくださることを、義務ではなく望んでいます」
それは彼女なりの告白だった。
ユリウスはしばらく意味を確かめるように瞬き、やがて顔全体で笑った。
「では、次からは、研究の用事がなくても来ていいですか」
「用事がない日を作れるのですか」
「努力します」
二人は、どちらからともなく笑った。
卓上には失敗した仮説が残っている。病は治っていない。政治的に決められた婚約であることも変わらない。
けれど、その日を境に、この婚約は両家だけのものではなくなった。
二人が、自分の意思で選び直したものになった。




