第24話 不可能とは違う
戻ってきた足音は、以前より速かった。
客間の前で歩調を整える余裕もなかったらしく、扉の外で一度だけ靴底が滑る音がした。
「失礼します」
入ってきたユリウスは、息を整えながら礼をした。後ろの従者が抱える本は三冊だけだった。
「お呼びいただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ、ご足労をおかけしました」
形式的な挨拶を交わし、二人はいつもの広い卓につく。
しばらく会っていなかった理由を、どちらも口にできなかった。
代わりにエレナは、書き直した症状記録を差し出した。
「書面では説明しきれないことがあります」
ユリウスはすぐに頁を開いた。
「魔力が胸の中心へ戻ろうとして、留まれず滑り落ちる……」
声に出して読み、金色の瞳を見る。
「これは医学的な表現ではありません」
エレナが先に言った。
「構いません」
ユリウスは顔を上げた。
「むしろ必要です。術師は外から魔力の動きを見られます。でも、内側からどう感じるかは分からない。あなたが感じたことを、既存の言葉へ無理に合わせないでください」
「曖昧でも?」
「曖昧なら、何を指しているか一緒に確かめればいい」
エレナは、机上の自分の字を見た。
病気について話すとき、彼女はいつも診られる側だった。どこが痛むか、いつ起きたか、薬を飲んだか。問われた範囲で正しく答えることが、よい患者の務めだった。
いまユリウスは、彼女の曖昧な感覚を、研究に欠かせない情報として扱っている。
「もう一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「はい」
「殿下は、私の病が治るとお考えですか」
ユリウスの指が止まった。
エレナは表情を崩さず、続きを言った。
「我が家は、全知の精霊に期待しています。婚約をお受けした理由にも、その期待があります。ですが、歴代の治癒術師が治せなかった病です。殿下が治療を約束する必要はありません」
期待していない、とは言わなかった。
彼へ重荷を負わせたくない思いと、自分も救われるかもしれないという望み。その二つが、初めて同じ言葉の中にあった。
ユリウスはすぐに答えなかった。
金色の瞳へ、静かに問いを渡す。
――現在、確立された魔力不全症の治療法は存在するか。
存在しない。
――過去に、治療へ成功したと確認できる記録はあるか。
ない。
そこまでは、誰もが知る答えだった。
――ネルヴィア家と王院に現存する症例・研究記録の中に、魔力不全症が原理上治療不可能だと証明するものはあるか。
届いた答えは、否定だった。
治せるという意味ではない。治せないと決まったわけでもないというだけだ。
ユリウスは言葉を選んだ。
「治るとは、まだ言えません」
エレナの瞼がわずかに下がる。
「でも、治らないとも言えません」
「同じことではないのですか」
「違います」
彼ははっきり答えた。
「治療法が分からないことと、治療が不可能なことは違います。全知の精霊は、すでにどこかにある答えなら教えてくれる。でも、まだ誰も作っていない治療法を、そのまま取り出すことはできません」
金色の瞳が瞬いた。
「だから、調べます。何が起きているのか。何が分かっていて、何が分かっていないのか。治せなかった方法は、なぜ届かなかったのか」
「それでも、答えが見つからないかもしれません」
「はい」
無責任な慰めで覆わず、ユリウスは認めた。
「見つからないかもしれない。間に合わないかもしれない。危険すぎて試せない方法しか残らないかもしれません。だから、完治を約束はできません」
彼は帳面へ手を置いた。
「けれど、分からないものを、分からないという理由だけで不可能にしたくない」
その言葉は、幼い日の中庭で聞いた問いと同じだった。
エレナはようやく、あの日の少年が目の前の婚約者なのだと実感した。
英雄になったからでも、全知の精霊を得たからでもない。彼は最初から、誰も見つけていないだけかもしれない、と言った。
たとえこの婚約が彼にとって義務であっても、その姿勢から受け取れるものはある。
そして、自分が治る可能性を遠くの誰かへ譲っておくだけでなく、自分の手で取り戻そうとしてもよいのかもしれない。
「私にも、調べさせてください」
ユリウスは不思議そうに目を瞬いた。
「もちろんです。あなたの病ですから」
「患者として答えるだけではなく」
エレナは机の横に積まれていた自分の帳面を、一冊ずつ中央へ移した。
「私は薬学と医学を学んできました。自分の症状も記録しています。過去に試した薬の量と反応も、治癒術師が見た魔力核の状態も整理できます。殿下の研究を受けるのではなく、私も研究する側に置いてください」
一瞬の沈黙のあと、ユリウスの顔が明るくなった。
「それなら、僕が見落とした問いを、あなたが見つけてくれる」
ダンジョン侵攻で、彼は問いを一つ欠いたために人を死なせた。
すべてを一人で知ろうとするのではなく、別の目を持つ者と問いを作る。その意味を、以前より深く理解していた。
「僕は既存の医学や魔法の情報を集めます。地――遠い知識との比較もします。あなたは記録と身体の感覚を。ネルヴィア家の術師には、外から見た変化をお願いする」
「試す前に、危険を整理しましょう」
「はい。治療を急ぐために、あなたを危険へ置くことはしません」
「それも、私と相談して決めてください」
穏やかな声だったが、譲る気のない目をしていた。
ユリウスは息を止め、それから深く頷いた。
「分かりました。あなたの身体について、僕一人で決めません」
二人は新しい帳面を開いた。
最初の頁に、エレナが研究の目的を書く。
魔力不全症の状態を明らかにし、安全な治療の可能性を探る。結果は成功も失敗も残し、将来の症例へ渡す。
ユリウスは、その下へ研究上の約束を書き足した。
分からないことを隠さない。危険を過小に伝えない。本人の同意なく処置を行わない。
最後に、研究に携わる者の名を書く欄が残った。
ユリウスが先にエレナへ筆を渡す。
彼女は自分の名を書き、その横へ筆を滑らせた。受け取ろうとしたユリウスの指と、ほんの少し触れる。
二人とも同時に手を引き、目を逸らした。
恋心については、まだ何一つ確かめられていない。
それでも帳面の上では、二人の名前が初めて同じ側に並んだ。
患者と治す者ではない。
婚約を命じられた者同士でもない。
まだ存在しない答えを探す、二人の共同研究者として。




