第23話 遠ざかる足音
決まった日の午後になると、廊下の向こうから少し速い足音が聞こえた。
ネルヴィア家の屋敷へ慣れてからも、ユリウスは案内役より半歩だけ先へ進んでしまう。客間の手前で気づき、歩調を整える。そのわずかな乱れを、エレナはいつしか覚えていた。
だが、その日は足音が来なかった。
代わりに現れたのは、カルディス家の使者だった。
「殿下より、前回お預かりした記録と、新しい資料をお届けに参りました」
丁寧に包まれた帳面が卓上へ置かれる。
「殿下は、お忙しいのですか」
尋ねてから、エレナは自分の声に期待が混じったことを恥じた。
「本日は、ご訪問が負担になってはならないとのご配慮でございます」
使者に悪意はない。
だからこそ、その答えを別の意味へ変えることもできなかった。
エレナ自身が、毎回これほど時間を使わなくてよいと言ったのだ。ユリウスはその望みを受け入れ、会わなくても続けられる形で研究を続けている。
どこまでも誠実だった。
「お礼をお伝えください」
使者が去ると、客間には二人分の茶が残った。
侍女が片方を下げようとする。
「そのままで」
エレナは咄嗟に止め、すぐに言い直した。
「いえ、冷めてしまいますね。片づけてください」
湯気の消えた茶器が運ばれていく。
廊下の足音は、来るときより遠ざかるときのほうが長く聞こえた。
そのころユリウスは、自室で次の報告を待っていた。
本を開いても、同じ行を何度も読む。金色の瞳が頁の上へ浮かび、読解に必要な知識を示そうとしたが、彼は首を振った。
「分からないわけじゃないんだ」
分かっている。
エレナは体力を消耗しやすい。前回は話している途中で息を乱した。自分が長居すれば負担になる。資料なら使者に運ばせられるし、質問も書面で済む。
合理的だった。
それなのに、何も手につかない。
――今日、エレナは僕に会いたいと思っていたか。
問いかけようとして、やめた。
彼女がそう言葉にし、誰かが事実として知っているのならともかく、胸中に浮かんだだけの思いを全知は拾えない。
何より、知るための魔法で覗き込むようなことはしたくなかった。
本人に尋ねればよい。
その簡単な方法が、精霊へ問うよりずっと難しかった。
次の訪問日にも、使者が帳面を運んだ。
その次も同じだった。
ユリウスは、初めのうちは長い手紙を添えた。薬を使った日の体調、食事との間隔、眠りへ入るまでの時間。必要な質問を余白いっぱいに書き、最後に必ず、無理のない範囲で、と付け加えた。
訪ねない日に生まれた時間を、彼は別の遊びや休息には使わなかった。届く前の記録を想像して資料を探し、使者が戻れば廊下まで迎えに出た。会うことを控えた分だけ、研究へ費やす時間はかえって増えていた。
エレナは一つずつ答えた。
けれど、書面だけでは伝えにくいことがあった。
胸の痛みが鋭いのか重いのか。魔力が薄れる瞬間、身体の内側で何が起こるように感じるのか。言葉を選んでは消し、結局「前回と同様」と書いた。
前回とまったく同じではない。
それでも説明が長くなれば、ユリウスはさらに調べなければならない。自分が希望を見せるほど、彼へ治療の責任を負わせてしまう。
返事は少しずつ短くなった。
ユリウスはそれを、研究のための質問が彼女を疲れさせている証拠だと思った。問いの数を減らした。
使者には、返事を急がせないよう繰り返し言い含めた。その気遣いもエレナへ届くころには、「次の訪問予定は未定です」という簡潔な伝言の隣へ置かれていた。
エレナは、もう尋ねることがないのだと思った。返事をさらに簡潔にした。
互いを思いやるたび、往復する紙は薄くなっていった。
「会いに行かないの?」
夕食後、リヴィアが唐突に尋ねた。
ユリウスは手にしていた資料を取り落としかけた。
「誰に」
「婚約者は一人でしょう」
「行かないわけではありません。体調を考えて、回数を減らしているだけです」
「エレナがそう言ったの?」
「僕が毎回あれほど時間を使わなくてもいい、と」
「それは、来てほしくないという意味なの?」
ユリウスは黙った。
姉の問いは、全知の精霊より容赦がなかった。
「体調を悪くしたのは事実です」
「そう。なら、体調がよい日に短く会う方法もあるわね」
「でも、無理をしてよいと言わせるかもしれません」
「では、会わなくてよいと言わせているのは誰?」
答えられない弟を見て、リヴィアは溜息をついた。
「私は、あなたたちの心までは知らない。だから、自分で聞きなさい」
その忠告を受けても、ユリウスはすぐには動けなかった。
次の便へ、訪問を願う一文を書いては消す。エレナの体調を優先するなら、今の形で困ることはない。研究は続いている。婚約者としての義務も、書状と贈答で果たせる。
それは、あまりに都合のよい言い訳だった。
ネルヴィア家では、エレナが届いた資料を一人で読み返していた。
ユリウスが書き込んだ注釈は、どれも細かい。過去の症例と一致しない点には印があり、断定できない箇所には、分からない、と明記されている。
頁の端に、一行だけ研究とは関係のない文が残っていた。
前回より筆跡が乱れているように見えます。体調の悪い日に返事を急がないでください。
病気しか見ていない人の言葉だと思えば、そう読める。
けれど彼は、文字の乱れまで見ていた。
エレナは自分の帳面を開いた。
「動悸、三度」と書き、筆を止める。いつもなら隠していた感覚を、その下へゆっくり記した。
魔力が消えるのではなく、胸の中心へ戻ろうとして、どこにも留まれず滑り落ちるように感じる。
医学的な言葉ではない。術師が読めば、曖昧だと言うかもしれない。
だが、これは彼女にしか書けない情報だった。
さらに別紙を取り出す。
次回は使者ではなく、殿下ご本人へご説明したく存じます。
そこまで書いて、手が止まった。
研究のためです、と続ければ安全だった。
エレナはその言葉を書かなかった。
封をした書状が運ばれた翌日、久しく聞かなかった足音が、ネルヴィア家の廊下へ戻ってきた。




