第22話 義務という距離
最初の訪問に、ユリウスは本を七冊持っていった。
多すぎる、とリヴィアには言われた。
婚約者へ会いに行くのだから花の一つでも持てばよい、と母には言われた。
だが花を渡して、会いたかったと口にする自分を想像しただけで、婚約発表の日の熱が顔へ戻ってきた。医学書なら、少なくとも手渡す理由を説明できる。
ネルヴィア家の客間で、エレナは七冊の山を見つめた。
「すべて、私のために?」
「はい。こちらは魔力核に関する古い記録です。これは治癒魔法が効きにくい症例の一覧で、こちらには地球の――いえ、全知の精霊から得た、別の観点をまとめました」
危うく、説明できない言葉を出すところだった。
エレナは気づかなかったらしく、一冊ずつ慎重に表紙を確かめた。
「ずいぶんお調べになったのですね」
「婚約者として、当然のことです」
答えた瞬間、ユリウスは間違えた気がした。
本当は、婚約する前から気になっていた。彼女があの日拾った記録の続きを知りたかったし、何より、もう一度話したかった。
けれどエレナは、納得したように微笑んだ。
「ありがとうございます。殿下は、とても誠実な方なのですね」
その声に喜びが足りない理由を、ユリウスは読み取れなかった。
二人の間には、客を迎えるための広い卓があった。
向かい合って座るには立派で、婚約者同士が近づくには広すぎる。エレナの家族は二人きりにしない配慮から侍女と術師を残し、ユリウスの側にも従者が控えていた。
「最近、動悸が起こる時間に変化はありますか」
結局、ユリウスが最初に尋ねたのは病状だった。
「夜に多いのは変わりません。ですが、気温が高い日は、午前にも起こることがあります」
「食事との関係は」
「まだ分かりません。記録はこちらに」
帳面を受け取り、ユリウスは夢中になって頁を繰った。
細かな字で、その日の体調、食事、睡眠、使った薬、感情の変化まで記されている。彼が全知へ問いを立てるより前に、エレナは自分の身体へ何年も問い続けていたのだ。
「すごい」
思わず声が漏れた。
「これだけ条件が揃っていれば、変化を比べられます。術師の診察記録だけでは、診察のない時間が抜けてしまう。あなたにしか残せない情報です」
エレナは目を瞬いた。
これまで帳面を見た者は、几帳面だと褒めるか、病に囚われすぎていると案じた。自分にしか作れない記録だと言われたのは初めてだった。
「お役に立つでしょうか」
「もちろんです。少なくとも、僕が同じことを最初から調べ直す必要がなくなります」
ユリウスは顔を上げた。
「あの、次も見せてもらえますか」
「殿下が必要とされるなら」
必要だ。会うためにも、研究のためにも。
だが彼が口にできたのは、研究のほうだけだった。
それからユリウスは、何度もネルヴィア家へ通った。
病状の確認。
魔力核の研究。
医学書の貸借。
婚約者としての定期的な挨拶。
訪問のたびに、彼は立派な理由を用意した。理由が立派になるほど、本当の気持ちはその陰へ隠れた。
「この記録について伺いたくて」
「承知しました」
「新しい比較結果が出ました」
「ありがとうございます」
「次の儀礼で必要になる書式を持ってきました」
「ご足労をおかけしました」
会話は穏やかで、いつも礼儀正しかった。
エレナは、ユリウスが婚約発表の場で蹲った姿を忘れられずにいた。
彼は自分との婚約で家督候補から外された。そのうえネルヴィア家は、全知の力で病を治せるかもしれないと期待している。本人が望まぬ婚約を押しつけただけでなく、歴代の術師にもできなかったことへの責任まで負わせているのだ。
それなのにユリウスは、一度も不満を言わない。
本を探し、記録を読み、毎回明るい顔で訪れる。
その誠実さを、自分への好意と取り違えてはいけないと、エレナは繰り返し言い聞かせた。
彼が見つめているのは、自分ではなく病気だ。
そう思えば、期待せずに済む。
一方のユリウスは、エレナの静かな態度を、病を抱えながら周囲へ気遣いを忘れない強さだと思っていた。
本当は、研究以外のことも知りたかった。
何を見れば笑うのか。研究をしない日は何をして過ごすのか。幼い日の中庭を、彼女も覚えているのか。
だが、問いを口にするたび、別の問いへすり替わった。
「この薬を使った日は、眠りやすかったですか」
「はい。ただ翌朝は、普段より身体が重く感じました」
「では、量を減らした記録と比較しましょう」
金色の瞳が二人の間へ浮かび、既存の症例や薬草の性質を告げる。
全知の精霊は、記録にある事実をいくらでも示した。
エレナが彼をどう思っているかは、教えなかった。
ユリウス自身が何を言えばよいかも、教えてはくれなかった。
ある日、エレナは会話の途中で小さく息を乱した。
すぐに平静を装ったが、指先が震えている。
「今日は、ここまでにしましょう」
ユリウスは本を閉じた。
「まだ予定の半分ですが」
「残りは次にできます。身体のほうが大切です」
彼は本気で心配していた。
エレナには、その心配さえ、課された責任を果たそうとする真面目さに見えた。
「私のために、毎回これほど時間をお使いにならなくてもよいのです」
「でも、僕は来たくて――」
そこまで言い、ユリウスは固まった。
来たくて来ている。
ほんの少し先まで言えばよかった。
けれどエレナが苦しそうに胸へ手を置くのを見て、言葉を飲み込む。自分が会いたいからと、彼女へ無理をさせてよいはずがない。
「研究は、途中で投げ出しません」
また別の言葉へ逃げた。
「ですが、訪問の間隔は考えます。記録は使者に託していただければ」
エレナは胸の奥が沈むのを感じた。
彼は、直接会わずとも果たせる義務へ変えようとしている。それを望んだのは自分のはずなのに、安堵できなかった。
「ご配慮に感謝いたします」
丁寧に頭を下げる。
ユリウスも、落胆を隠して礼を返した。
二人の間には、最後まで広い卓があった。
義務という名の橋を何度も渡りながら、互いに近づきたい気持ちだけは、その両端に置き去りにされていた。




