第21話 ただ一人の歓喜
婚約の発表は、カルディス家の主要な家臣とネルヴィア家の使者が揃う席で行われた。
ユリウスは父の右手側に立ち、リヴィアは左手側にいる。向かいにはエレナと、その家族が並んでいた。
なぜ彼女がここにいるのか。
考えるたび、ユリウスの視線は勝手にそちらへ向かった。幼い日の面影を残しながら、エレナは以前より落ち着いた表情で立っている。目が合いそうになると、彼は慌てて正面へ戻した。
その動きを、エレナは見ていた。
やはり、自分と顔を合わせることさえ負担なのだろうか。
誰も二人の考えを知らないまま、マルクスが立ち上がった。
「本日、両家の合意により、カルディス王家第二子ユリウスと、ネルヴィア王家の娘エレナとの婚約を提案する。両名の返答をもって、正式に定める」
言葉が、理解できる形になるまで時間がかかった。
婚約。
誰と誰が。
自分と、エレナが。
ユリウスは正面を向いたまま固まった。
次いで、全身の血が一度に顔へ集まった。
父は知っていたのだ。
誰にも話していないはずの恋心を、いつの間にか見抜いていた。そして自分が口に出せずにいた願いを、両家を動かして叶えてくれた。
そこまで考えた瞬間、別の恐ろしい可能性に気づく。
父が知っているなら、家臣たちも知っているのではないか。
自分が儀礼のたびにエレナを目で追っていたことも、ネルヴィア家の名を聞くと妙に黙ったことも、全部見られていたのではないか。
左右から注がれる視線が、急に意味を持ち始めた。
嬉しい。
恥ずかしい。
顔を隠したい。
だが王族が正式な発表の場から逃げるわけにはいかない。
相反する命令を受けた身体は、妥協するようにその場へ蹲った。
「ユリウス!」
リヴィアの声が飛ぶ。
彼は両手で顔を覆った。肩が細かく震える。笑い声が漏れそうになるのを必死に噛み殺しているのだが、周囲からは泣いているようにしか見えなかった。
広間へ、重苦しい沈黙が落ちた。
マルクスは息子を見下ろし、胸を抉られる思いがした。
やはり、分かっていたのだ。エレナとの婚姻が何を意味するか。家督への道を父の手で閉ざされた屈辱に、声も上げられず耐えている。
それでも当主として、決定を取り消すわけにはいかない。
マルクスは息子の前へ膝をつき、肩へ手を置いた。
「私を恨んでよい」
ユリウスは顔を覆ったまま、目を瞬いた。
恋心を見抜いたうえで婚約を整えてくれた父を、なぜ恨むのだろう。
ひょっとすると、自分に黙って話を進めたことを怒ってよいという意味かもしれない。父は不器用だが、ずいぶん気を遣ってくれているらしい。
「……いいえ」
声を出すと喜びが露見しそうで、喉が震えた。
「異存は、ありません」
精いっぱい公的な言葉を選ぶ。
家臣たちは、当主に抗うことも許されず従ったのだと受け取った。
エレナも意思を問われ、静かに「異存はございません」と答えた。マルクスが両者の婚約を正式に宣言すると、広間には控えめな祝福の拍手が響いた。それは慶事の音でありながら、喪失を悼む音のようにも聞こえた。
エレナは、さらに深く傷ついた。
自分との婚約によって、これほど明るい少年が人前で蹲るほど追い詰められた。それでも彼は、彼女の家族の前で拒絶しなかった。異存はないと言って、体面を守ってくれた。
その誠実さが、かえって苦しかった。
「立てる?」
リヴィアが手を差し出す。
ユリウスは姉の手を借りて立ち上がった。顔の赤みが引いていないため、まともにエレナを見られない。
姉はその様子を、怒りと悲しみを堪えているのだと思った。
正式な挨拶のため、二人は向かい合った。
「エレナ・ネルヴィアです」
彼女は静かに頭を下げた。
「このたびの決定により、殿下へ大きなご負担をおかけします。政治的に定められた役目以上のことを、私から求めるつもりはありません」
ユリウスは一瞬、言葉を失った。
なんと慎ましく、思いやりのある人なのだろう。まだ婚約したばかりなのに、自分へ無理をさせまいとしている。
「負担ではありません」
本当は、その先まで言いたかった。
ずっとお会いしたかった。あの日から好きだった。この婚約が嬉しくて仕方がない。
しかし背後には両家の人間が並び、父まで恋心を知っている。ここですべてを口にすれば、自分は二度と彼らの顔を見られない気がした。
「婚約者として、誠実に務めます」
結局、選んだのは最も安全な言葉だった。
エレナはわずかに目を伏せた。
やはり義務なのだ。
「私も、殿下のお立場を損なわぬよう努めます」
やり取りを聞いた大人たちは、傷ついた二人が互いを気遣い、政治的な婚約を受け入れようとしていると思った。
二人を争わせるつもりのなかったリヴィアは、自分の地位を守るために弟が犠牲にされたような居心地の悪さを覚えた。
マルクスは、息子の痛みを見ても決定を維持する責任を噛み締めた。
ネルヴィア家の者たちは、娘を拒絶せずにいてくれたユリウスへ感謝しながら、治療への期待まで背負わせることに後ろめたさを抱いた。
エレナは、不本意な婚約を押しつけられた相手へ、これ以上何も望むまいと決めた。
その場で幸福だったのは、ユリウス一人だけだった。
発表を終えて自室へ戻ると、彼は扉を閉め、寝台へ顔から倒れ込んだ。
「婚約……」
口にしてみる。
「僕が、エレナ様と」
枕へ押しつけた声が、どうしても笑いを含んだ。
金色の瞳が、寝台の脇に浮かんでいる。
ユリウスは勢いよく起き上がった。
「婚約の協議で、僕がエレナ様を慕っていると伝えた者はいた?」
問いに応じ、記録に残る事実が届く。
婚約協議の記録には、そのような発言も報告もなかった。
「え」
父が胸の内で何を目的としていたかまでは、全知にも答えられない。婚約を協議した記録に並んでいるのは、家の事情と政治上の利点ばかりだった。母や姉が恋心を理由として口を挟んだ形跡もない。ユリウスは、それを両家の条件を釣り合わせた政略婚なのだと受け取った。そこから父が自分個人へ何を望んだのかまでは、考えなかった。
ユリウスは寝台の上で固まった。
少なくとも、自分の願いを知って整えられた縁談ではないらしい。家同士の判断が、偶然、自分の一番大きな願いと重なったのだ。
それなら、先ほど蹲った理由も、誰にも理解されていないらしい。
「……待って」
エレナの言葉を思い返す。
大きな負担。役目以上を求めない。
自分の返した言葉は、婚約者として誠実に務める、だった。
喜んでいることが伝わる要素が、一つもない。
「全知」
金色の瞳が瞬く。
「いまから、どう説明すればいいと思う?」
まだ決められていない未来と、言葉になっていない他人の心について、精霊は沈黙した。
ユリウスは再び枕へ顔を埋めた。
幸福の絶頂には、思いのほか深い穴が開いていた。




