第20話 父が選んだ婚約
マルクスは、机の上へ二つの報告書を並べた。
一つには、リヴィアがこれまで積み上げてきた鍛錬、軍務・政務に備えた教育、父を補佐した記録。
もう一つには、ユリウスが契約以来成長させた魔力、孤児院の事業、情報網、そして第1級指揮官討伐の戦果が記されている。
比べるために作らせたものではない。それでも家臣たちは、二つを同じ卓上へ載せた。
「第二子を正式な候補として扱うべきだという声は、王院にも届いております」
家臣の報告に、マルクスは目を閉じた。
「本人が何を望むかは、誰か確かめたのか」
「殿下は、当主の座について明言なさいません」
「明言していない者の旗を、よくも勝手に掲げられるものだ」
冷えた声に、室内の者たちは頭を垂れた。
ユリウスが望んでいないことを、マルクスは知っている。リヴィアも弟を排除して席を得ようとはしていない。
だが、本人たちが争わなければ争いが起きないわけではない。
力を持つ者の周りには、力を利用したい者が集まる。孤児院へ渡した強化は私兵と呼ばれ、利益は独自財源と呼ばれた。侵攻での戦果は、本人の反省を置き去りにして英雄譚になった。
このまま二人が成長すれば、家臣の対立だけでは済まない。
「ネルヴィア家の資料を」
求めると、別の文書が運ばれた。
エレナ・ネルヴィア。第九家の娘。薬学と医学を修め、先天性の魔力不全症を患う。
同席した治癒術師へ、マルクスは確かめた。
「治療例は」
「ございません」
「成長によって自然に正常化した例は」
「記録にはありません」
「発症したまま子を得た場合、第1級は正常に継承されるか」
「困難と考えられております」
どの答えも、すでに知っていた。
カルディス王家の当主には、次代の第1級を残す責務がある。エレナと婚姻した者は、その条件を満たせないと見なされる。
ユリウスを罰する必要はない。力を奪う必要も、功績を否定する必要もない。ただ婚姻によって、当主候補としての資格だけを穏便に失わせればよい。
あまりに整った答えだった。
「ネルヴィア家は治療を諦めておりません」
家臣の一人が慎重に付け加えた。
「全知の精霊と自家の医術を合わせれば、可能性があると」
「歴代の術師が治せなかったものを、まだ幼いユリウスが治すと?」
「先方は、治療されていないことと、治療不可能であることは別だと申しております」
「医学を重んじる家らしい言い分だ」
研究が続くなら、それも悪くない。ユリウスの知的関心を医療へ向け、後継争いから遠ざけられる。成果が得られなくても、病を軽くする知識が残るかもしれない。
マルクスは、筋の通った判断だと思った。
だからこそ、胸の奥に残る痛みを私情として切り離そうとした。
「皆、下がって」
いつの間にか扉の近くに立っていたクラウディアが言った。
家臣たちはマルクスへ視線を送り、許しを得て退室する。扉が閉じると、妻は二冊の報告書を見下ろした。
「リヴィアを守るため?」
「家を割らぬためだ」
「ユリウスを守るためでもあると、あなたは言うのでしょうね」
「事実だ。派閥の旗にされれば、あの子は姉と争う。望んでいなくてもだ」
クラウディアはエレナの資料を開いた。
「そのために、一人の娘の病を使うの」
「ネルヴィア家にも利益はある。婚姻が成立し、全知の知識を研究へ得られる。条件は対等に詰める。彼女を粗末に扱わせはしない」
「粗末にしないことと、道具にしないことは違うわ」
マルクスは答えられなかった。
妻はさらに、最も触れられたくない場所へ手を伸ばした。
「アウレリウスが自分のために身を引いたのではないかと、あなたは今も苦しんでいる。それなのに今度は、あなたが息子を引かせるのね」
「分かっている」
声が低く沈んだ。
弟は、自分で選んだのだと言っていた。兄は家を保て、自分は剣として外敵を止めるほうが向いている、と。
だが、その選択に兄である自分の存在が影を落とさなかったと、どうして断言できる。
いま自分がしようとしていることは、もっと明白だった。子供が選ぶ前に道を狭める。
それでもマルクスには、当主として放置することもできなかった。
「二人が血を流すまで待つよりは、私が恨まれるほうがよい」
「それも、あなたの選択なのね」
クラウディアは反対を引っ込めなかった。ただ、夫の決断を感情だけで否定もしなかった。
「ならば、せめてエレナ本人の意思を聞いて。ユリウスにも、決まった結論を命じるだけにしないで」
「約束する」
ネルヴィア家との協議は、数度にわたった。
先方は、すぐに飛びつかなかった。エレナの父は、娘をカルディス家の後継候補を一人減らすための印として扱うなら、受け入れないと告げた。
協議の末、両家はエレナ本人の意思を聞き、婚約後も治療研究を続けるという方針で合意した。
マルクスもその方針に異存はなかった。治療が成るとは思っていないだけだ。
エレナもまた、家族から事情を隠されなかった。
婚約すれば、ユリウスは当主候補から事実上外れる。カルディス家はそれを望み、ネルヴィア家は彼の力に治療の可能性を求めている。
「断ってもよい」
父に言われ、エレナは長い時間をかけて書状を読み返した。
幼い日に一度会った少年の姿を覚えている。救われないかもしれないと口にした自分へ、治った者がいないことと治らないことは同じなのか、と尋ねた子供。
けれど、その一度の記憶を婚姻の根拠にすることはできない。
「お受けします」
ようやく、彼女は言った。
「我が家のためだけではありません。研究できる可能性を、私自身が捨てたくありません」
そして小さく息をつく。
「ただ、ユリウス殿下には、大きなものを失わせます」
その罪悪感を消す言葉は、家族にも見つけられなかった。
両家の合意を受け取った夜、マルクスは婚約発表の文面を確認した。
息子の恋心を知らない父が、姉弟を争わせないために選んだ婚約だった。
その決断が、ただ一人だけを幸福の絶頂へ突き落とすことを、彼はまだ知らなかった。




