第19話 幼い日の面影
ユリウスがエレナ・ネルヴィアを初めて見たのは、王家の子供たちが集められた儀礼の日だった。
全知の精霊と契約して、まだ間もないころだった。
大人たちの挨拶は長く、子供に求められるのは笑顔と沈黙ばかりだった。ようやく短い休息を許されたユリウスは、人の少ない回廊を選んで歩き、薬草の匂いがする中庭へ迷い込んだ。
そこには、自分より年上らしい少女が、正装の裾をたくし上げて地面に膝をついていた。
倒れた見習いらしい少年の手を取り、傷口を布で強く押さえている。脇には割れた薬瓶が散らばり、石床に赤い滴が落ちていた。
「その手を、心臓より上に」
少女は落ち着いた声で言った。
「大丈夫。深くはありません。硝子が残っているかもしれないから、自分で触らないで」
「治癒魔法を呼びますか」
ユリウスが尋ねると、少女は初めて彼に気づいた。
「お願いします。ですが、走らないでください。向こうの廊下にも薬瓶があります」
王族の子供へ、走るなと命じる声だった。
驚くより先に、ユリウスはおかしくなった。笑う場面ではないので口元を押さえ、通りかかった侍従を呼び止める。ほどなく治癒術師が来て、見習いの傷を閉じた。
「助かりました」
少女は立ち上がろうとした。
その身体が大きく揺れた。
ユリウスは慌てて腕を差し出す。少女は触れる寸前で踏みとどまり、近くの机へ手をついた。
「怪我をしたのは、あなたではないでしょう」
「少ししゃがみすぎただけです」
そう答えた顔には、立っているだけで苦しい者の色があった。
治癒術師は見習いより先に少女を椅子へ座らせ、胸元へ探るような魔力を流した。だが表情は晴れない。
「いつもの症状です。休めば治まります」
少女の言葉に、術師は不満そうだった。
「いつも起こることと、放っておいてよいことは別です」
「そうですね。では、少し休みます」
素直に返事をしながら、少女の視線は床に散った薬瓶へ向いていた。
「あれは、何の薬ですか」
ユリウスが尋ねる。
「薬になる前の試料です。魔力の巡りを助けると言われる草を、濃さを変えて抽出していました」
「あなたのために?」
ほんの一瞬、周囲が静かになった。
大人たちは、病気について本人へ直接尋ねることを避ける。ユリウスはその空気を読み損ねたらしい。
けれど、少女は怒らなかった。
「私にも試します。でも、私だけのためではありません」
「ほかにも同じ病気の人がいるんですか」
「いま確認されているのは、私だけです」
「では、誰のために?」
少女は割れた瓶から滲む液を見つめた。
「次の人です」
その答えが、ユリウスにはうまく理解できなかった。
「まだいない人のために、薬を作るんですか」
「同じ病気の人が二度と生まれないと分かっているわけではありませんから。私に間に合わなくても、何が効かなかったかを残せば、その人は同じところから始めずに済みます」
風が中庭を抜け、薬草の葉がさざめいた。
見習いが礼を言いに戻ってくると、エレナは自分の不調を隠すように姿勢を正し、割れた試料のことより先に傷の具合を尋ねた。治癒された手を見て、安堵した笑みを浮かべる。その表情を見たとき、ユリウスの胸はもう一度、不意に強く鳴った。
ユリウスは、彼女が自分を救われない側へ置いていることに気づいた。
それは諦めた者の言い方に似ていた。なのに彼女の手は、割れた瓶のそばに落ちた記録紙を拾おうとしている。自分に間に合わないと思いながら、何も投げ出していない。
「治らないと、決まっているんですか」
「治った人はいません」
「それは、同じ意味ですか」
少女が目を上げた。
ユリウス自身、なぜそこに引っかかったのかを説明できなかった。地球という遠い場所の知識が、病には原因があり、原因が分からないことと治せないことは違うと囁いたのかもしれない。
だが、幼い口から出た問いは、そんなに整ってはいなかった。
「まだ誰も見つけていないだけかもしれないでしょう」
少女は彼を見つめ、それから、ごく小さく笑った。
「そうだと、よいですね」
ただの社交辞令だったのかもしれない。
それでもユリウスには、その笑顔だけ周りより明るく見えた。
金色の瞳が、肩口で彼を見ていた。
――彼女の病名は。
魔力不全症。
――治療法は。
現在、確立された治療法は存在しない。
答えを得るたび、胸の内側が強く鳴った。知りたいことが次々と増えていく。病の原因。過去の記録。彼女が試した薬。その笑顔をもう一度見る方法。
最後の一つだけは、問いの形にできなかった。
「あなたは、全知の精霊の……」
少女が金色の瞳へ気づいた。
「ユリウス・カルディスです」
名乗ると、彼女は座ったまま丁寧に頭を下げた。
「エレナ・ネルヴィアと申します」
名前を知っただけなのに、ひどく大切な秘密をもらった気がした。
その後、大人たちが二人を見つけた。ユリウスは本来の席へ戻され、エレナは休むため別室へ連れていかれた。
儀礼が再開しても、彼は話をほとんど聞けなかった。
――僕の胸が、さっきから速く動いている理由は。
金色の瞳へこっそり問いかける。
精霊は、会場の温度、直前の運動、身体の状態といった既存の要因なら示せた。けれど、ユリウス自身もまだ言葉にできていない感情を、代わりに名づけてはくれなかった。
答えは得られない。
それでも、エレナという名前を思い出すたびに同じことが起こった。
彼はやがて、その感情を自分で知った。
誰にも知らせなかった。
父にも、母にも、いつも近くにいる姉にも。知ることと知らせることを司る精霊と契約しながら、これだけは胸の内へしまった。
ダンジョン侵攻のあと、帝都で自分の名が英雄として広がっていく間も、ユリウスは時折、あの日の中庭を思い出した。
救われないかもしれないと言いながら、まだ存在しない誰かのために記録紙を拾った少女。
もう一度会いたいと思った。
けれど、その願いを誰かへ伝えることはなかった。
名を知らせれば、いつか自分へ戻ってくると思っていたわけではない。ただ胸の内へ置いておくだけで、その思いは彼にとって失いたくないものになっていた。
だから、カルディス家からネルヴィア家へ使者が向かったことを、そのときのユリウスはまだ知らなかった。




