第18話 救われない病
縁談の相手は、来なかった。
朝から整えられていた客間では、湯気を失った茶が手つかずのまま並んでいる。窓辺に飾られた花だけが、誰かを迎えるはずだった時間を知らずに咲いていた。
エレナ・ネルヴィアは、向かい側の空席をしばらく見つめていた。
「先方から、正式に辞退するとの書状が届きました」
侍従は声を低くして告げた。まるで大きな音を立てれば、彼女の身体まで壊れてしまうと思っているようだった。
用意されていた席順には、両家の者が自然に話せるよう細かな配慮が重ねられていた。エレナの好き嫌いではなく、王家の娘として可能な将来を家族が諦めず探した跡だった。その労が、空席によっていっそう鮮明に見えた。
「理由は」
尋ねる必要はなかったが、エレナは尋ねた。
「家同士の将来を、慎重に考え直した結果だと」
つまり、魔力不全症である。
第1級の力を安定して持てない。精霊とも契約できない。子をもうけても、第1級を正常に継がせられないと考えられている。
王家の婚姻で、それ以上の理由が必要だろうか。
「承知しました。先方へ、わざわざお知らせくださったことへの礼を」
侍従は何か言いたそうに唇を動かしたが、結局、深く頭を下げた。
エレナは怒っていなかった。
初めから親しくもない相手である。会う前に将来を計算し、成立しないと判断した。それだけのことだった。王家を存続させる責任を負う者としては、むしろ誠実なのかもしれない。
そう整理できることと、傷つかないことは別だった。
胸の奥が冷える。その冷たさが病の症状なのか、感情なのか、エレナには区別がつかなかった。
「顔色がよくありません」
診察に同席していた治癒術師が進み出る。
「いつもと同じです」
「いつもと同じなら、よいわけではありません」
ネルヴィア家の人間らしい答えだった。
エレナは素直に手首を差し出した。術師の魔力が皮膚を通り、胸の奥へ慎重に触れてくる。
そこには、本来なら途切れず魔力を生み、巡らせる核がある。
エレナの核は、目覚めかけては眠り、満ちかけては形を失う。治癒魔法を注がれれば一時的に整ったように見えても、術を解かれると元へ戻った。
「昨夜、動悸は」
「ありました。横になってから、短いものが三度。二度目だけ、指先に痺れが」
「息苦しさは」
「階段を上ったあとに。いつもより少し長く残りました」
術師が記録係へ伝えようとすると、エレナは首を振った。
「私が書きます」
客間を出て研究室へ戻ると、華やかな衣装の袖を留め、机に向かった。自分の字で、時刻、食事、体温、動悸、痺れ、息苦しさを書き込む。縁談の辞退を聞いた直後であることも、迷った末に記した。
感情が症状へ影響する可能性を、傷ついたからという理由で記録から外すべきではない。
机には、何年分もの帳面が積まれていた。
幼いころは、医師に問われたことだけを答えていた。やがて、診察と診察の間に起こったことこそ必要なのではないかと思い、自分で書き始めた。日ごとの小さな変化は治療法を教えてくれなかったが、少なくとも、何をしても同じだという諦めだけは否定してくれた。
同じ一日など、なかった。
「今日はもう、お休みになっても」
助手が遠慮がちに声をかける。
「この薬草の組み合わせだけ確かめます」
「治療術師も、根本的な効果は望めないと」
「根本的でなくても、動悸が一度減るなら意味があります」
エレナは乾燥させた葉を指で崩し、量りへ載せた。
魔力不全症そのものを治す薬はない。歴代の治癒術師も、医学と薬学を重んじてきたネルヴィア家も、魔力核を正常な形へ戻せなかった。
それでも、眠れない夜を減らす薬、呼吸を少し楽にする手当て、危険な兆候を早く見分ける記録は作れる。
救うという言葉は、完治だけを意味しない。
試料へ湯を注ぐと、苦い香りが立ちのぼった。エレナは色の変化を見ながら、古い症例記録を開く。
過去に同じ病を得た者たちの記録は、どれも途中で終わっていた。婚姻の記録から名前が消え、契約の儀の欄は空白になり、やがて診療の記述もなくなる。
現在、同じ症状を持つ者は、確認されているかぎり彼女一人だった。
一人だけなら、研究する価値がないと言う者もいる。
だが、病が一度生まれたなら、次が生まれないという保証はない。
自分は間に合わないかもしれない。
それでも次に生まれた子が、会う前から縁談を断られ、契約の場へ立てず、理由を知っているから怒ることさえ許されない人生を送る必要はない。
その子へ渡せるものが一行でもあるなら、今日の記録は無駄ではなかった。
扉が控えめに叩かれた。
入ってきた父は、まだ客人を迎えるための正装を解いていない。辞退の書状を受け取ったのは彼であり、娘に伝えさせたのも彼だった。
「すまない」
「父上が謝ることではありません」
「おまえを、価値のない者として扱わせるために縁談を探しているのではない」
「分かっています」
それは慰めではなかった。父も母も、彼女を病と引き換えに扱ったことはない。治療の望みが薄くても、書物も薬材も術師も惜しまなかった。
家族に愛されていることと、王族として選ばれないこともまた、同時に成り立つ。
父は机上の帳面へ視線を落とした。
「まだ続けるのか」
「はい。私に効かなかった方法も、条件が違う誰かには役立つかもしれません」
「おまえ自身が救われる可能性を、捨てたように聞こえる」
エレナは返事をしなかった。
捨てたのではない。期待を大きくしすぎれば、それが外れたときに研究まで続けられなくなる。だから希望を、自分一人の未来から少し遠い場所へ置いているだけだ。
父は懐から一通の書状を取り出した。
先ほどの辞退の書状とは違う。封蝋には、第三家カルディス王家の印が押されていた。
「もう一件、話がある」
エレナの手が止まる。
先ほどと同じ縁談だとしても、期待してはならない。そう自分へ言い聞かせながら、封蝋から目を離せなかった。
窓の外では、幼い王子がダンジョン侵攻から帝国を救ったという知らせを、早馬が街から街へ運んでいた。
その名を、エレナも知っていた。




