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全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


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第16話 父の軍

 泥に汚れた伝令が報告を読み上げ終えるより早く、マルクスは尋ねていた。


「ユリウスは無事か!?」


 室内の空気が止まった。


 王家の当主が最初に確かめるべきなのは、侵攻の規模、周辺住民の被害、必要な戦力である。マルクス自身、誰よりそれを知っていた。


 伝令は一瞬だけ目を見開き、深く頭を下げた。


「報告が発せられた時点では、ご無事です。ただし殿下は、すでに魔力をほぼ使い切ったと」


 マルクスの指が卓上で固まる。


「……そうか」


 次に顔を上げたとき、そこにいたのは父親ではなく、カルディス王家の当主だった。


「地図を。周辺の騎士団へ緊急集結を命じる。第1級保持者には、現在地と出動可能時刻を回答させろ。王院へ軍事動員の承認を求める文書を、いまここで作れ」


 命令が部屋中へ飛び、家臣たちが走り出す。


 扉が強く開いた。


 訓練着の上から外套を羽織ったリヴィアが入ってくる。腰にはすでに剣があった。


「私も行きます」


「ならん」


「弟が、予備戦力のない戦場にいます」


「分かっている」


「いいえ。後継候補を一人残すため、私だけ安全な場所へ置くおつもりなら、父上は分かっていません。あれは家督争いの相手ではなく、私の弟です」


「だから行かせん」


 マルクスの声は低かった。


「カルディスの子を二人とも、同じ危険へ差し出すことはできない。おまえには帝都側の防衛準備と、次の援軍編成を任せる。ただ待てとは言わん。ここでしか果たせぬ役目を果たせ」


 リヴィアは歯を食いしばった。握った拳が白くなる。


 父の命令に従えば、弟の実戦と功績を安全な場所から眺めることになる。逆らえば、指揮官の命令より自分の感情を上に置くことになる。


 長い沈黙ののち、彼女は剣の柄から手を離した。


「……承知しました。追加の兵は、一刻でも早く送ります」


 その言葉を聞き届けると、クラウディアは静かに立ち上がった。


「王院への話は、私が通します」


「クラウディア」


「あなたは軍を集めて。治癒術師と避難先も要るわ。セウェル家にも動いてもらいます」


 彼女は息子の安否を一度も尋ねなかった。尋ねても、報告以上の答えはない。ならば、息子が帰ってくるために必要なものを一つでも増やすほうがよい。


 王院では、平時の手順を守ろうとする声が上がった。動員範囲、費用、属州間の指揮権。どれも本来なら軽視できない。


 クラウディアは一つずつ聞き、必要な文書を一つずつ卓上へ置いた。


「緊急出動後の追認が可能な条文です。費用の仮割当ても添えました。避難民の受け入れはカルディス家とセウェル家で分担します」


 実家の当主が、娘をじっと見た。


 かつてのクラウディアなら、自分一人で成し遂げた形にこだわったかもしれない。兄弟姉妹より劣っていないと証明するために、他人へ頭を下げることを敗北だと思ったかもしれない。


「そこまでして、他家の助けを借りるか」


 試すような問いに、クラウディアは眉一つ動かさなかった。


「息子と、そこにいる民が生きて帰るなら」


 セウェル家当主はしばらく黙り、やがて最初の承認印を押した。


「治癒術師はこちらで集めよう」


 クラウディアは礼を述べ、次の席へ文書を回した。


 そのころマルクスは、集結を待ち切らず先発隊を率いて街道を駆けていた。


 忍耐の精霊は、速く進むための力ではない。疲れを消してもくれない。ただ、疲れた脚にもう一歩を踏ませ、軋む身体に責務を続けさせる。


 彼の軍は休息を削って進み、それでも隊列を崩さなかった。


 やがて空が暗くなるほどの土煙が見えた。


 即席の防壁は半ばまで壊れ、守備兵の列は薄くなっていた。魔獣の波を受け止めるたび、誰かが倒れる。中央近くに、小さな身体が見えた。剣を杖のように地面へ突き、立っている。


 生きている。


 安堵は一息だけだった。


 マルクスは剣を抜き、軍団全体へ届くよう魔力を解き放った。


「恐れるな! 退くな! 勝利は、立ち向かう者の先にある!」


 号令とともに、忍耐の力が戦場を覆った。


 傷は消えない。折れた盾も元には戻らない。けれど、恐怖で力を失いかけた手が再び柄を握った。崩れた膝が伸びる。あと一撃で倒れるはずだった兵が、その一撃を受け止めた。


 救援軍が左右から流れ込み、守備隊と一つの列になる。


 ユリウスは、息をすることさえ忘れて父の軍を見た。


 大きな魔力を一か所へ叩き込むのではない。前列の厚み、負傷者を運ぶ隙間、騎士が魔法を放つ順番。マルクスは声と旗だけで、ばらばらだった人間を一つの身体のように動かしていく。


「ユリウス!」


 呼ばれ、ユリウスは背筋を伸ばした。


「最初に討った個体が、指揮官のうち最も強力だったことは確かか」


 問いの形が違う。


 目の前の敵だけではない。残った戦場全体をどう使うか、そのために何を確かめるべきかが最初から含まれている。


 金色の瞳が開いた。ユリウスは、必要な範囲へ細く絞って問いを渡す。


「確かです。残る群れは、咆哮が届くごとに動きを変えます。指揮の起点は奥です。ただし左側の群れは、別の合図へ反応しています」


「十分だ。右を押さえろ。左は追うな、分断する。中央の騎士は道を作れ!」


 マルクスはユリウスの失敗を責める前に、その戦果を戦場の勝利へ組み込んだ。


 複数の第1級保持者が、それぞれ異なる場所へ入る。誰もが自分の力を最大に振るうのではない。互いの空白を埋める位置に置かれていた。


 その一人、ヴァレント王家の契約者が前へ出た。


 厚い胸板が不自然なほど大きく盛り上がったかと思うと、その胸部から灼熱の奔流が放たれた。魔獣の群れが左右へ割れ、炎の道が奥まで延びる。


「胸から……!」


 死にかけていたことも忘れ、ユリウスの目が輝いた。


「すごい。あれは、どういう原理で――」


 マルクスが息子を見た。その視線には安堵と呆れが、きわめて不本意そうに同居していた。


「あとにしろ」


「はい」


 切り開かれた道を騎士たちが走る。別の契約者が群れの進路を押さえ、第1級保持者が強化した一隊が指揮の起点へ突入した。


 やがて、ひとつの咆哮が途切れた。


 続いて別の方向でも、群れの動きが乱れる。


 マルクスは追撃の深さを制限し、予備を残した。新たな異変がないことを確かめるまで、勝利の声を上げさせなかった。


 最後に魔獣たちが一斉に向きを変え、ダンジョンへ退き始める。


 誰もすぐには動かなかった。


 黒い流れが完全に入口へ消え、見張りの騎士から合図が届いて、ようやく兵たちは剣を下ろした。


 ユリウスの身体からも力が抜けた。


 地面へ崩れかけた彼を、硬い腕が支える。


 見上げると、マルクスがいた。


 父は何も言わず、まず息子の肩と腕に触れ、どこに傷があるかを確かめていた。


 その手は震えていなかった。けれど肩を確かめる指が一度だけ、痛いほど強くなり、父はようやく長い息を吐いた。


 その一瞬に、ユリウスは父がどれほど息を詰めてここまで来たのかを知った。


 手を離した父の顔には、もう勝利を喜ぶ色がなかった。

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