第15話 まだ終わらない侵攻
先ほどまでユリウスの名を叫んでいた兵たちの声が、第二の咆哮とともに消えた。
倒れた巨体の向こうで、魔獣の群れが左右へ割れていく。丘の陰から響く甲高い声に応じ、ばらばらだった頭が一斉に門へ向いた。
ユリウスは騎士の肩を借りたまま、その光景を見ていた。指一本を強化する魔力さえ惜しい。喉は焼け、息を吸うたび胸が軋む。
悔いるための時間はなかった。新しい咆哮に押され、次の波がもう動き始めている。
「盾を上げろ!」
守備隊長の号令と同時に、土煙が壁のように迫った。兵たちは勝利のために崩した隊列を急いで組み直す。しかし、喜びで緩んだ間隔はすぐには埋まらない。
ユリウスは立とうとした。膝が震え、身体が言うことを聞かない。
「私の強化を――」
魔力を押し出そうとすると、視界の端が暗くなった。金色の瞳が鋭く細まり、止めるように彼の前へ回り込む。
「まだ、少しくらいは」
否定を待たずに力を絞った。淡い光が数人の兵へ届き、次の瞬間には霧のように散った。胸の奥がひっくり返り、ユリウスは地面へ手をついた。
その頭上を魔獣が飛び越えた。
騎士が割って入り、盾で牙を受ける。金属が潰れる音がした。別の兵が槍を突き込み、二人がかりで獣を押し返す。その背後へさらに一体が回り込む。
「右だ!」
ユリウスが叫んだときには遅かった。
兵の肩から腰へ、爪が斜めに走った。鮮血が散る。倒れた男を仲間が引きずり、空いた場所へ別の兵が入った。その動きは見事だった。見事であるほど、ユリウスには耐え難かった。
自分に魔力が残っていれば、傷つかなかった。
いや、そうではない。残していれば、だ。
「殿下、後ろへ!」
「負傷者を先に下げてください。正面は狭める。広く受けてはいけない」
「しかし――」
「ここで私を守るために人数を割けば、もっと死にます」
王族として命じる声だけは、震わせなかった。
守備隊は道幅の狭い区画まで後退し、荷車と倒木で即席の障害を作った。騎士を前へ、槍兵をその後ろへ置く。戦える者を一か所へ集めすぎず、負傷者を運ぶ者を必ず残す。さきほどの自分が捨てたものを、ひとつずつ拾うようにユリウスは命じた。
それでも、足りなかった。
残った指揮官の命令が届くたび、魔獣は弱い場所へ寄せてくる。柵が軋み、盾が割れ、治癒を待つ列が長くなる。悲鳴を上げる余力さえなく、運ばれていく者もいた。
つい先ほど、自分の名を呼んだ歓声が耳の奥に残っていた。あのとき勝利を疑った者はいなかった。誰より早く終わったと信じ、兵たちにもそう信じさせたのは自分だ。気の緩みまで誰か一人の責任にはできなくても、その最初の合図を作ったことからは逃げられなかった。
ユリウスは一人ずつ見た。
見ないことだけは許されないと思った。
最初の指揮官を討った自分を、兵たちは責めなかった。むしろ、幼い王族を逃がそうとして前へ立つ。その背中が増えるたび、自分の失敗の重さも増した。
全知ならば、救援がいつ来るか分かるだろうか。
問いかけようとして、止める。まだ誰も到着時刻を決めていない。使者が届いたかさえ分からない。決まっていない未来を、精霊は答えられない。
ならば、決められることを決めるしかない。
「伝令をもう一騎出します」
守備隊長が目を見開いた。
「外へ抜けるのは危険です」
「だから一騎では足りません。別々の道を使ってください。侵攻が継続していること、指揮官が複数いること、こちらには予備の第1級戦力がないことを伝える。私が魔力を使い切ったことも隠さないで」
最後の言葉に、周囲が息を呑んだ。
王族の弱体を知らせる報告は危険を招く。それでも、正しい情報がなければ、救援もまた誤った備えで来る。
「承知しました」
守備隊長は短く答え、動ける騎兵を呼んだ。
門代わりの荷車がわずかに開く。二騎が左右へ分かれ、魔獣の間を縫って駆け出した。兵たちが盾を重ね、その細い退路を守る。
一頭がよろめいた。もう一頭は土煙の向こうへ消えた。
ユリウスは立ち尽くし、その姿が見えなくなっても目を逸らさなかった。
金色の瞳が、黙って傍らに浮かんでいる。
「次の問いを、間違えないようにしないと」
答えはない。これは精霊が与えられる知識ではなかった。
障害の向こうで、三度目の咆哮が上がる。
今度こそ歓声と聞き違える者は、誰もいなかった。




