閑話01 光苔と三度目の鐘
それは、マルクスがまだカルディス家の当主となる前、弟のアウレリウスも帝国の剣として東部戦線へ名を轟かせる前のことだった。
「のう」
ティトゥス・ヴァレントは、つぶらな瞳でマルクスを見つめた。
第二王家ヴァレント家の四男。吸収の精霊と契約する第1級保持者であり、成人男性の胴ほどもある腕を持つ。胸板は鎧の寸法を取る職人が一度は仕事を断るほど厚い。
その巨体に似合わず、声だけは妙に穏やかだった。
「駄目だ」
マルクスは食い気味に答えた。
「まだ何も頼んでおらんぞ」
「おまえがその顔をするときは、ろくな頼みではない」
「先入観はよくないのう。忍耐の精霊と契約する者なら、もう少し辛抱強く聞くべきではないか?」
「なら聞こう」
マルクスは腕を組んだ。まだ当主の装いを身につけてはいなかったが、眉間へ寄る皺と口やかましさだけは、後年とほとんど変わらない。
「何だ」
「ワシの毛根に、忍耐をかけてくれんかのう」
「駄目だ」
二度目は、先ほどより早かった。
ヴァレント家は、肉体にまつわる精霊と縁が深い。
大胸筋、上腕、背筋。名を聞いた他家の者が笑いを堪え、実際に戦う姿を見た者が二度と笑わなくなるような契約者を、代々輩出してきた。
同家には頭髪を剃り上げた者も多い。鍛錬の邪魔にならず、兜の中で蒸れず、手入れの時間まで筋肉を鍛えられるというのが彼らの主張だった。
だが、ティトゥスは違った。
肩近くまで伸ばした髪を後ろへ流し、額へ落ちた前髪だけは、何度払ってもすぐ元へ戻る。近ごろは、その前髪の隙間が以前より広くなっていた。
「このままではワシまで、ヴァレント家の伝統へ屈してしまう」
「剃ればよい」
「戦わずして屈することを勧めるのか」
「毛髪の話を戦にするな」
ティトゥスは深く息をついた。
「ならせめて、ダンジョンへ付き合ってくれんか。北の浅層に生える光苔が、毛髪によいらしい」
「誰から聞いた」
「ヴァレント家に出入りしている薬師だ」
「効能を何と説明された」
「傷んだ皮膚へ塗れば、組織の再生を助けると」
「毛髪とは言っていないな」
ティトゥスは黙った。
マルクスも黙った。
短くない沈黙の末、マルクスは額へ手を当てた。
「浅層だけだ」
「おお」
「採取を終えたら、すぐに出る」
「持つべきものは友よのう」
「おまえ一人で行かせるほうが不安なだけだ」
二人がダンジョンへ入ったのは、その日の昼前だった。
内部は定期的に騎士団が巡回しており、入口に近い区域では危険な魔獣もほとんど確認されていない。壁に繁殖する光苔は、薄暗い洞窟の中で淡い青色に輝いていた。
「これか」
ティトゥスは採取用の小刀を、太い指で慎重に扱った。
「根まで取るな。次に生えなくなる」
「分かっておる」
「一か所から取りすぎるな」
「分かっておる」
「その量をすべて頭へ塗るつもりか」
「念のためじゃ」
「何の念だ」
ティトゥスは上機嫌だった。
魔獣を相手にするときより真剣な顔で苔を選び、形のよいものを布へ並べていく。マルクスは三度目のため息を飲み込み、周囲へ意識を向けた。
そのとき、ティトゥスの手が止まった。
「マルクス」
声から、先ほどまでの緩さが消えていた。
「何だ」
「外へ出るぞ」
「理由は」
「流れが逆じゃ」
ティトゥスは光苔から手を離し、洞窟の奥を見た。
「ダンジョンの魔力が、奥へ戻らず、出口へ向かっておる」
吸収の契約者は、周囲の魔力の流れを肌で感じる。ほかの者には動いていることさえ分からない薄い魔力も、どこから来て、どちらへ向かうのかをティトゥスは読み取れた。
マルクスは理由を重ねて尋ねなかった。
「走るぞ」
「光苔は」
「捨てろ」
「それだけは勘弁してくれんか」
ティトゥスは布を懐へ押し込み、マルクスに遅れず走りだした。
二人が入口を抜けた直後、最初の鐘が鳴った。
続いて、長く一度。
最後に、短く二度。
周囲の騎士たちが一斉に武器を取った。
「ダンジョン侵攻だ!」
叫びと同時に、二人が出てきたばかりの暗がりから魔獣が溢れた。
地を走る獣の群れ。その頭上を、翼を持つ魔獣が黒い雲のように覆っている。さらに奥から、一際大きな影が飛び出した。
四枚の翼を持つ飛翔型。その咆哮に応じ、散らばっていた魔獣が騎士たちの左右へ回り込む。
「あれが指揮官か」
マルクスは剣を抜いた。
「おそらくのう」
ティトゥスは答えながら、近くの兵へ飛んだ魔法を吸収した。火球が途中で形を崩し、赤い光となって彼の掌へ流れ込む。
「おそらくでは困る」
「なら、確かめるまで死なんようにせい」
マルクスの忍耐が、周囲の騎士たちを包んだ。
爪を受けた盾が割れても、腕は下がらない。転んだ兵が立ち上がり、隣の者と列を組み直す。ティトゥスは頭上から降る魔法を引き受けながら、少しずつ後方へ流していた。
しかし、数が多い。
飛翔型へ攻撃を届かせようとすれば、地上の守りが薄くなる。地上を固めれば、空から魔法を浴びせられる。
「マルクス、長くは保たんぞ」
「分かっている」
答えた直後、街道の向こうから大きな声が響いた。
「兄貴! 身体強化!」
馬を駆るアウレリウスが、こちらへ向かっていた。
何を強化するのか。自分か、前列か。
マルクスは一瞬だけ眉を寄せた。
アウレリウスの目は、兄ではなく空を見ていた。
それだけで、何をするつもりなのか分かった。
「全隊、身体強化を上げろ! 頭上を守れ!」
忍耐の力がさらに広がった。騎士たちの脚と腕を包む光が濃くなり、盾が一斉に頭上へ持ち上がる。
アウレリウスは馬から飛び降り、その勢いのまま戦場へ踏み込んだ。
まだ東部の英雄と呼ばれる前から、弟は兄の命令を待つような男ではなかった。若さに任せた無鉄砲にも見えるが、駆けながらすでに、空と地上の魔獣、崩れかけた騎士の列までを見渡している。
剣を抜くより先に、制約の精霊が顕現する。
「飛翔を制約する!」
空を埋めていた翼が、一斉に動きを止めた。
飛翔型の魔獣が雨のように落ちる。強化された兵たちは盾を重ね、頭上から降る爪と牙を受け止めた。四枚翼の巨体も地面へ叩きつけられ、土を跳ね上げながら街道を滑る。
「先に言え! 兵が巻き込まれるだろう!」
「やる前に言っただろ!」
アウレリウスは剣を抜き、地へ落ちた巨体へ走った。
「それより、やるぞ!」
「説明が足りん!」
「足りただろ。間に合った!」
否定できないことが、マルクスには腹立たしかった。
「おぬしら兄弟の会話へ、他人も巻き込むでない!」
落下した魔獣を受け止めながら、ティトゥスが怒鳴った。
「今だ、潰せ!」
三人は同時に動いた。
マルクスが正面から攻撃を受け、ティトゥスが翼へ集まる魔力を奪う。その隙にアウレリウスが巨体の下へ潜り込み、胸部を深く切り裂いた。
飛翔型は地上でも強かった。翼を腕のように振るい、街道を抉る。だが空へ戻れないまま三人の第1級保持者を相手にして、長くは続かなかった。
最後はマルクスが動きを止め、ティトゥスが防御の魔力を吸い、アウレリウスの剣が核を貫いた。
巨体が地へ伏した。
周囲の魔獣が、わずかに動きを鈍らせる。
「終わったか」
マルクスが息を吐いた。
「待て」
ティトゥスが言った。
だが、その警告より先に地面が割れた。
飛翔型の死骸の真下から、巨大な爪が突き出した。岩盤を砕く魔力が爆ぜ、三人を下から飲み込む。
ティトゥスは考えるより先に両腕を広げた。
爆発の魔力が、彼一人へ曲がった。
「ティトゥス!」
光と轟音が消えたとき、マルクスとアウレリウスは立っていた。
ティトゥスだけが膝をついていた。
魔力を奪われても、砕けた岩までは消えない。額から頭頂へ大きく裂け、長い髪が血に濡れて張りついている。
割れた地面から、黒い鼻先が現れた。
先ほどの飛翔型よりさらに大きな、土に覆われた魔獣だった。
そいつが鳴くと、動きを止めかけていた魔獣たちが再び一斉に走りだした。
「こいつが……指揮官だ」
マルクスは、自分の声が遠く聞こえた。
飛翔型が群れを動かしているように見えた。だから指揮官だと決めた。倒したことで、終わったと思った。
その判断の代価を、ティトゥスが血として流している。
「兄貴!」
アウレリウスの怒声が飛んだ。
「反省は帰ってからにしろ!」
弟に叱咤されるのは、これが初めてではなかった。
後年のマルクスならば、悔恨を抱えたままでも次の命令を出せただろう。だがこのころの彼はまだ、自分の判断で誰かが傷つく重さを、戦場のただ中で受け止めることに慣れていなかった。
土中へ戻ろうとした指揮官へ、アウレリウスが両手を向ける。
「地中に留まることを制約する!」
地面が盛り上がった。
潜ろうとした巨体が、見えない何かに押し返されるように土から飛び出す。地中で自在に向きを変え、足元から敵を襲う魔獣も、地上へ引きずり出されれば動きは鈍い。
「マルクス、立たせろ!」
マルクスは歯を食いしばった。
ティトゥスの周囲へ治療のできる者を集め、残る騎士たちへ忍耐を広げる。
「前列、盾を重ねろ! 負傷者を後ろへ! 指揮官はアウレリウスに任せ、群れを通すな!」
命令が復唱される。
崩れかけた列が、もう一度形を取り戻した。
アウレリウスは地上でもがく指揮官の正面へ立った。
「よくも俺の友人をやってくれたな」
返事の代わりに、巨大な爪が振り下ろされる。
アウレリウスは避けなかった。
受け止める寸前、自分自身へ課していた制約を一つ解く。長く蓄えられていた魔力が剣へ集まり、振り下ろされた爪ごと指揮官の頭部を断った。
今度こそ、群れが止まった。
指揮官を失った魔獣は統制をなくし、ダンジョンの奥へ逃げ戻り始める。騎士たちは追わず、負傷者の回収を優先した。
マルクスとアウレリウスは、すぐティトゥスのもとへ駆けた。
「死ぬな」
傷へ治療魔法を重ねながら、マルクスが言った。
「あれだけ駄目だと言ったのに、勝手に吸収するな」
「あの場で許可を取れと申すか」
ティトゥスの声は弱かったが、いつもの調子は残っていた。
「光苔は」
「今は髪の心配をしている場合か!」
「違う。傷んだ皮膚によいのじゃろう」
三人は同時に黙った。
やがてアウレリウスが、ティトゥスの懐から潰れかけた布包みを取り出した。
「持って帰っててよかったな」
「じゃろう?」
ティトゥスは血に濡れた顔で、少しだけ笑った。
傷は塞がった。
命にも別状はなかった。
ただし治療のため、ティトゥスの髪はすべて剃られた。傷跡の周囲には、その後も髪が戻らなかった。
まだらに残った部分を自分で剃り上げた日、アウレリウスは腕を組んで何度も頷いた。
「似合ってるぞ。ようやくヴァレント家らしくなったな」
「ワシが欲しかった言葉は、それではないんじゃがのう」
「光苔は効いたか」
マルクスが尋ねた。
「傷は綺麗に治った」
「毛髪は」
ティトゥスは、つぶらな瞳でマルクスを見た。
「それ以上聞くなら、次はおぬしの忍耐を吸収するぞ」
3人は揃って笑った




