第12話 私兵と呼ばれた善意
孤児院の変化は、まず匂いに現れた。
食堂へ入る前から、煮炊きする湯気の匂いがする。長机には全員分の皿が並び、壁際で順番を待つ子はいない。寝室には補修した寝具が増え、年長の子供たちは自分で買った靴を、泥がつくたび丁寧に拭いていた。
ダンジョンへ行かない日も、仕事は生まれていた。
持ち帰った資源を選り分ける者。袋を数え、破れを直す者。読み書きのできる年長者は、管理人と一緒に収支を記録する。入口の外でする仕事を、とユリウスが口にしたことを、孤児院の側が自分たちで広げたのだ。
「今月の利益です」
以前パンを譲った少年が、数字の並んだ紙を差し出した。
「俺に?」
「確認してくれ。ごまかしてない」
「疑ってないよ」
「疑わなくても、見せるんだろ。帳簿ってそういうものだって書記が言ってた」
ユリウスは紙を受け取った。自分が教えた仕組みが、自分へ向けても使われている。それが少し嬉しかった。
金色の瞳へ問えば、計算の誤りはすぐに分かる。二か所を指摘すると、少年は悔しそうに唇を噛み、その場で数字を書き直した。
「次は間違えない」
「間違えても、直せればいい」
「でも、間違えないほうがいい」
横で聞いていた少女が笑う。
「こいつ、字を習うの嫌いだったのに」
「金が合わなくなるほうが嫌なんだ」
学ぶ理由を自分で持った者は強い。ユリウスが知らせた知識は、相手の中で別の疑問になり、また彼へ返ってくる。そのたびに全知の精霊も、ごくわずかずつ育っていった。
その日は、もう一つ初めての試みがあった。
子供たち自身で、ダンジョンへ入る班と役割を決めるのだ。
長机へ低危険度区域の見取り図を広げ、一番年かさの少年が名前を書き込んでいく。先頭で盾を持つ者、採取する者、荷を運ぶ者。魔獣を倒したあとに動けなくなった者が出た場合、誰がその肩を貸すかまで決めた。
「今日は入らない」
前回、途中で槍を手放した少女が言った。
少年は理由を聞かなかった。
「じゃあ入口で、出た人数を数えてくれ。中にいる俺たちが数え違うかもしれない」
「分かった」
入らない選択にも、必要な仕事が渡された。ユリウスが決めたのではない。
彼がしたのは、出発前に一人ずつの身体へ強化を施したことだけだった。
「俺は中へ入らない。進む場所も、帰る時刻も、君たちで決めて」
少年たちは緊張した顔で頷いた。同行する騎士が、列の最後尾へつく。
「私は安全を監督する。危険と判断すれば止める。だが、それまではおまえたちの合図に従おう」
ユリウスは入口に残った。
口を出さないと決めた時間は、戦っていたときより長く感じられた。
子供たちは予定していた浅い区域を半ばまで進んだ。決めた順番で資源を集め、曲がり角ごとに帰路の印を確かめる。騎士は剣へ手を添えていたが、指示は出さなかった。
予定した採取場所の手前で、先頭の少年が足を止めた。
朝の巡回記録にはなかった新しい爪痕が、岩壁へ深く刻まれている。その奥から、低く湿った息遣いが聞こえた。
「まだ袋は半分だ」
後ろの子が囁いた。
少年は爪痕と、仲間の顔を順に見た。それから長い笛を一度、鳴らした。
全員が集めた袋をその場へ置き、入口へ向きを変えた。騎士は何も言わず、最後までその列を守った。
戻ってきた子供たちの手に、売れる資源はなかった。
「今日の取り分は減る」
少年はユリウスへ報告し、悔しそうに続けた。
「でも、あれが何か分からなかった。だから戻った」
「うん」
「間違ってたか」
「帰ると決めたのは、君たちだ。俺は正しかったと思う」
外で人数を数えていた少女が、最後の一人まで戻ったことを帳面へ記した。騎士も安全上の介入をしなかったと署名する。
子供たちは、持ち帰れなかった資源と同じように、引き返した理由も記録へ残した。
事業は成功していた。
少なくとも、ユリウスが見ようとしていた数字の上では。
問題が起きたのは、その日の帰りだった。
孤児院の前に、見慣れない貴族と従者が立っていた。視察だと名乗り、装備、負傷記録、帳簿、それに参加した子供たちの身体を確かめたいという。
「王院と騎士団の正式な命令系統の外で、武装した未成年者へ第1級の強化を施し、継続的にダンジョンへ入れているとの届けがあった。安全管理と指揮の所在、利益の会計を王院へ報告する必要がある」
もっともらしい言葉だった。だが男は、強化に伴う損傷や隠された負傷がないか改めると言い、許しを待たず少女の腕を取ろうとした。
少年がその間へ入った。
動きは訓練で教えられたものだった。少女を背へ隠し、自分の身体を盾にする。ほかの子供たちも一斉に集まり、長机の脚から作った訓練用の棒を握った。
「何のつもりだ」
貴族の従者が剣へ手をかける。
「やめて」
ユリウスが声を上げると、子供たちはすぐ棒を下ろした。
その場にいた全員が、誰の命令を聞いたかを見た。
貴族は少女から手を引き、代わりにユリウスへ深く頭を下げた。
「失礼いたしました。なるほど、よく統制されております」
「兵士じゃありません」
「承知しております」
口ではそう答えながら、男の目は兵を見るものだった。
屋敷へ戻ると、すでに評議の用意がされていた。
机の上には、孤児院の収支、参加者と班編成、ダンジョンへの入退場時刻、負傷と撤退の記録、同行騎士の署名が並んでいる。ユリウスが強化を施した時刻と魔力量まであった。自分が公開するようにした記録だった。それが今度は、自分の行動を測る証拠として置かれていた。
「孤児たちの生活は改善しました」
ユリウスは最初に成果を述べた。
「学校の欠席も減っています。今のところ、負傷者はいません。利益の使い道も――」
「成果を疑っているのではない」
マルクスが遮った。
「では、何が問題なのですか」
「王院の軍は、王院が動員し、王院が給与を払う」
「知っています」
「騎士団は定められた指揮系統に属する。各王家の第1級保持者も、国外戦争や大規模討伐で軍団を強化するときは、命令と責任の所在を明らかにする」
父の指が記録の一行を押さえた。
「この者たちは誰の命令で戦い、誰の力で強くなり、誰が利益を分けている」
「私です。でも、戦争をしているわけではありません」
「お前が戦争を望むかどうかではない。戦える集団が誰に従っているかを聞いている」
ユリウスは昼間の光景を思い出した。棒を構えた子供たちは、彼の一言で止まった。
「日々の運営は、管理人と年長者が決めています。同行する騎士には、安全のため活動を中止させる権限があります」
「最後に従う相手は?」
答えは分かってしまった。
「……私です」
「独自の収入があり、第1級の強化を受け、王院の外でお前個人に従う。人数が百になり、千になっても、お前は孤児院の仕事だと言うのか」
「千人もいません」
「今の人数を尋ねてはいない」
また、意図ではなく仕組みを問われている。
「私兵を作るつもりはありません」
「つもりがなければ、私兵に見えぬか」
部屋の端で、家臣の一人が小さく身じろぎした。
「殿下の私兵と呼ぶのは、いささか――」
かばう言葉に聞こえた。だが続きは違った。
「将来カルディス家を担う御方が育てる兵ならば、家の戦力と考えるべきではございますまいか」
別の家臣がすぐ反論した。
「後継者はリヴィア様です」
「まだ正式には決まっておりません」
孤児院の話だったはずが、いつの間にか姉とユリウスの話へ変わっていた。
「やめてください」
声を張っても、いったん生まれた意味は消えない。
評議の後、廊下でリヴィアが待っていた。
「孤児院を閉じさせる?」
「父上はそこまで言っていない。王院と騎士団の監督を入れて、指揮と会計を僕一人から離す方法を考えろって」
「そう」
姉は安堵したようだった。
「姉上も、僕が兵を作ったと思う?」
「あなたが作ろうとしたのは仕事よ」
「なら――」
「でも、あの子たちはあなたに救われたと思っている。食べ物ではなく、自分で生きられる力をもらったと」
リヴィアは足を止めた。
「感謝する人は、あなたの意図どおりにだけ感謝してはくれない。あなたが違うと言っても、命を預けたいと思うことがある」
「どうすればいい?」
「私に聞かないで。私も考えるから」
姉は答えを持っているふりをしなかった。
その夜、家臣たちの間を一つの呼び名が巡った。
孤児院の子供たちを私兵と呼び、その成長をユリウスの実績として数える者たち。
彼らは自分たちを、第二子派と呼び始めた。
善意から生まれたものへ、ユリウスの知らないところで、政治の名前がつけられていた。




