第10話 知るための帳簿
「この孤児院で、昨夜、夕食を受け取れなかった子供は何人?」
『十一』
答えと同時に、十一人の姿がユリウスの意識へ浮かんだ。
孤児院の管理人が持つ配膳記録と一致していた。小さな範囲の、すでに数えられた事実。それを知るために減った魔力は、指先ですくえる水ほどだった。
それなら、とユリウスは思った。
「帝国全土では?」
金色の瞳が、いつもより長く沈黙した。
『範囲を確定せよ』
「すべての孤児院。昨夜、夕食を受け取れなかった子供の人数」
問いを結んだ瞬間、身体の内側に穴が開いた。
各地の記録、記録されなかった配膳、数えた管理人、数えなかった管理人、一人ずつの昨夜。それらへ手を伸ばすため、魔力が一気に引き抜かれていく。
椅子が倒れた。
床へ手をついたユリウスを、金色の瞳が真上から見下ろす。
『継続するか』
「ま、待って。止めて」
流出が止まった。答えは得られていない。
息を整えても、身体の芯に空洞が残っているようだった。近くにいた書記が慌てて人を呼ぼうとしたが、ユリウスは片手を上げて止めた。
「大丈夫。少し休めば戻る」
『大丈夫、の定義が不明』
「今は黙っていて」
『了承』
精霊は本当に黙った。
知りたいことへ何でも答えられる力を得たつもりでいた。だが実際には、答えの重さを自分の魔力で持ち上げなければならない。
十一人を知ることと、帝国全土の一人一人を調べること。同じ一つの数字に見えても、その内側にある情報量はまるで違う。
倒れた椅子を戻した書記が、恐る恐る言った。
「各属州の管理官へ報告を求めれば、いずれ集計できましょう」
「いずれって、いつ?」
「早くとも数月は。そもそも、すべての孤児院が同じ形の記録を残してはおりません」
「同じ形にすればいい」
書記が嫌な予感を覚えた顔をした。
「毎日、誰が食べたかを記録する?」
「殿下、管理する者の手が足りません」
「一人ずつ名前を書かなくていい。一日に用意した食事の数と、受け取れなかった人数。それなら?」
「それだけなら、可能な場所もあるでしょうが」
「学校へ行った人数、働ける年齢の人数、仕事を得た人数も」
「増えております」
「病気になった人数と、治った人数」
「さらに増えました」
金色の瞳が一度瞬いた。書記へ新しい記録の必要を知らせる行為も、全知の概念に触れたのだろう。ユリウスの空になりかけた魔力核へ、ごくわずかな手応えが返った。
問いに必要なのは、答えだけではない。
答えを作る仕組みだ。
空欄にも意味があることを、ユリウスは書記から教わった。誰も食べ損ねなかった「零」と、数えていないため分からない空白は違う。全知に問うときも、その二つを混ぜれば誤った問いになる。書記が日々扱ってきた小さな区別は、大精霊の力にも必要だった。
ユリウスは紙を広げた。孤児院ごとに記載方法が違えば、最後に人が読み直さなければならない。ならば欄の順番を揃える。数字が存在しない場合と、報告が届いていない場合も分ける。昨日の数と今月の合計を混ぜない。
地球のどこで覚えたのかは分からない。それでも、同じ枠へ数字を入れれば比べられる、という発想は自然に浮かんだ。
「まず、この孤児院だけで試します」
書記は安堵し、次の言葉でまた顔を曇らせた。
「うまくいったら、同じ形でほかへ知らせる」
「殿下。それには管理官の許可と、上位官庁への説明と、記録を運ぶ伝令が必要です」
「誰の許可がいるか、順番に教えて」
全知へ聞けば名前や役職は分かる。しかし実際にその人々を動かすのは書面であり、説得であり、仕事を引き受ける人間だった。
夕刻、机には何度も書き直された報告用の紙が積み上がっていた。
そこへマルクスが入ってきた。
「魔力を使い切りかけたそうだな」
「使い切ってはいません」
「言い換えを聞きに来たのではない」
父は紙の束を一枚ずつ確かめた。
「孤児院へ食事の数を報告させ、仕事と収入まで調べるのか」
「何が足りないか知らなければ、正しく助けられません」
「知った後は、誰が助ける」
「足りないところへ王院が――」
「王院が決める前に、お前が身体強化を与えようとしている」
指摘され、ユリウスは口を閉じた。
父は怒鳴らなかった。代わりに、逃げられない問いを置く。
「お前が知り、お前が知らせ、お前の力で解決する。その仕組みが帝国のためのものか、お前のためのものか、誰が見分ける?」
「私のためには使いません」
「意図を尋ねてはいない。そう見えぬ仕組みを作れるかと聞いている」
分からなかった。
飢えている人数を知ることと、権力を得ることが、ユリウスの中では結びつかない。しかし父には、同じ一本の道に見えているらしい。
「考えます」
「考えたものを持ってこい。禁止はしない」
マルクスはそう言い、紙を机へ戻した。
翌日から、ユリウスは管理人、書記、役人と何度も話し合った。記録は管理する者の仕事を増やしすぎない形へ削った。孤児院の数字をユリウスだけが受け取るのではなく、担当官庁にも同じ報告を送ることにした。試行の記録は閲覧を許された者なら確かめられるようにする。
それで父の問いへ完全に答えられたとは思わない。それでも、不完全なまま放置するよりはよかった。
最初の集計が届いた日、全知へ同じ問いを投げた。
今度は、数字がすぐに返る。誰かがすでに数え、まとめ、伝えた情報だった。消費した魔力は、以前の問いとは比べものにならないほど少ない。
同じ紙には、年長の子供たちが仕事を得られなかった件数と、近隣の低危険度ダンジョンで採取の人手が足りていないという報告も並んでいた。
ユリウスは二つの欄を指で結んだ。
帳簿は、離れていた困り事を同じ机の上へ運んできた。
「試す場所が見つかった」
金色の瞳が、紙の上で静かに開いた。
知るために作った帳簿が、次は子供たちをダンジョンの入口へ連れていこうとしていた。




