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のび太一死す  作者: 伝説の男前
第二幕:それぞれの戦国

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第八話「美声の噂」

 赤い体が、山の中を歩いていた。昼も夜もなかった。疲れもなかった。空腹もなかった。ただ、歩いた。

 人の気配があれば、遠回りした。人に会えば、何かが起きる。何かが起きれば、判断しなければならない。判断するためには、考えなければならない。考えれば——思い出す。

 思い出したくなかった。でも、思い出した。何度も。毎日。バンブーコプターの音。静寂。野火 太一(のび たいち)の顔。眠っているような顔。忘れることができなかった。

 山の中で、ネズミと会った。岩の陰から顔を出して、ニャえもんを見た。ニャえもんの体が反応した。怒りが全身を駆けた。赤がさらに深くなった。ネズミが逃げた。

 ニャえもんは自分の手を見た。赤い手だった。

(わたしは、何者だ)

 野火 太一(のび たいち)が言っていた。「ニャえもんは、誰かのそばにいるために、作られた」

 そばにいるために、作られた。でも、そのそばにいた人間を、失った。ならわたしは、何のために存在しているのか。答えが出ないまま、また歩き始めた。

 一ヶ月が経った。

 ある夜、山の斜面から、遠くの村が見えた。灯りがいくつかあった。人の声が、風に乗って聞こえた。

 野火 太一(のび たいち)たちと最初に泊まった廃屋を思い出した。丘の上の、壁が三方しかない小屋。皆で固まって眠った夜。武がいびきをかいていた。野火 太一(のび たいち)が、隣にいた。

 ニャえもんは山の斜面に座った。初めて、止まった。一ヶ月ぶりに、止まった。

 何かが、胸の中で動いた。寂しい、とニャえもんは思った。そうだ。寂しい。ただ、寂しい。

 翌朝、ニャえもんはまた歩き始めた。方向が、少し変わっていた。体が、東から北東へ向いていた。

 二日後、峠を越えた。その時、集落から声が聞こえてきた。歌声だった。ニャえもんは止まった。体が知っていた。武の声だった。

 歌が止んだ後、集落の人間の声が聞こえた。「北の城に向かうそうだ」「歌の男か」「巨漢だと聞いた」

 やはり武だった。武が、北の城を拠点に歌い続けている。

須根 夫介(すね おすけ)は、と思った)

 情報がなかった。でも、武が生きているなら——須根 夫介(すね おすけ)も、たぶん生きている。あの二人は、そういう組み合わせだった。

 行くか。行けるか。行っていいのか。この赤い手で。野火 太一(のび たいち)を失った後の、壊れた体で。

 ニャえもんはその夜も、山の中で動かなかった。空を見た。星が出ていた。

 野火 太一(のび たいち)が言っていた。最初の夜に。「戦国の空は広すぎる」

 ニャえもんは思った。野火 太一(のび たいち)が生きていたら、どう言うか。——きっと「来い」と言う。お前のせいじゃないと言う。大丈夫だと言う。

 でも野火 太一(のび たいち)はいない。

 夜明け近く、ニャえもんは自分の胸の収納庫を押さえた。バンブーコプター。光る石。遠見の鏡。笛。縄。眠り笛。石ころ。野火 太一(のび たいち)が死んだあの夜から、一度も開けていなかった。開けたくなかった。自分の体の中にあるものが、全て憎かった。

 でも——ニャえもんは、一つのことを考えた。信長には、鉄の鳥がいる。歩きながら人の声を断片的に聞いていた中に、それがあった。「鉄の鳥が空を飛ぶ」「火を吹く異人がいる」。

 武の歌と集まった人間だけでは、それに対抗できない。

 ならば——この胸の中の道具は、何かに使えないか。欠陥品だらけの道具が。でも——。

 夜明けの空が、少しずつ白くなった。ニャえもんは立ち上がった。北の方角を向いた。体が向いていた。ニャえもんは歩き始めた。武たちのいる城へ向かって。ただし——城に入るためではなかった。城の外から、できることがあるかもしれない、と思った。

 城の近くまで来た。城下の外縁を歩いた。人が多かった。ニャえもんは城下には入らなかった。外縁の森の中から、武の声を聞いた。

「俺は小心者だ。怖くて、逃げたくて、歌うしかなかった。それだけだ。でも、歌ったら人が来てくれた。来てくれたから、また歌う。それだけだ」

 城下の人間が笑った。温かい笑いだった。それから武がまた歌い始めた。

 ニャえもんは森の中で、その声を聞き続けた。武は変わっていなかった。相変わらず小心者だった。相変わらず怖いから歌っていた。でも——それが、これほど多くの人を集めていた。

 あの中に、武がいる。須根 夫介(すね おすけ)も、いるかもしれない。入るか。入れなかった。この赤い体で、城の中に入れば——武が出てくる。顔を合わせることになる。まだ、合わせられなかった。

 ニャえもんは森に引いた。夜の闇の中に溶けた。

 その夜、ニャえもんは城壁の外の森に座っていた。

 武の歌の余韻が、まだ耳の中にあった。

 ニャえもんは胸の収納庫を開いた。一ヶ月以上ぶりに、開いた。バンブーコプターを取り出した。手のひらの上に乗せた。暗い森の中で、それが薄く光った。

 野火 太一(のび たいち)が、これを握った。ニャえもんが止めようとして、間に合わなかった。

 ニャえもんはバンブーコプターを見た。長い時間、見た。捨てようとしたことがあった。消えてほしかった。でも、消えなかった。戻ってきた。

 ならば——使うしかない。ただし、誰かに使わせるためではない。ニャえもん自身が、使う。空から、信長の軍に対して。

 自縛の縄。空から放てば、地上の兵を縛れる。光る石。夜の闇の中で目眩ましになる。遠見の鏡。空から使えば、信長の軍の動きが見える。

 使えないと思っていたものが、使い方次第で、戦の道具になる。

 野火 太一(のび たいち)はいない。武と須根 夫介(すね おすけ)は城の中にいる。ニャえもんは一人だ。だとすれば——一人でできることを、やる。それだけだ。

 翌朝、ニャえもんは城壁の外の丘に立った。

 バンブーコプターを頭に装着した。カチッ、と音がした。プロペラが回り始めた。体が浮いた。ゆっくりと、高度が上がった。

 城下が見えた。森が見えた。街道が見えた。さらに上がった。山の稜線が見えた。

 信長の軍が動いている方角がわかった。ニャえもんは南西の方角を見た。信長の軍の先遣隊が、街道を進んでいた。三十人ほどの一団だった。

 ニャえもんは南西へ向かった。

 先遣隊の上空に来た。ニャえもんは胸の収納庫を開いた。自縛の縄を取り出した。真下に放った。

 縄が落ちた。先頭の三人に絡みついた。縄が動いた。締まった。絡んだ三人が転んだ。他の兵が止まった。混乱が起きた。

「妖だ」「天の妖が」「逃げろ」

 兵たちが散り散りに逃げていった。三人だけが、縄に縛られたまま残った。

 その日から、ニャえもんの行動が変わった。城壁の外の森に潜み、昼は信長の軍の動きを空から偵察した。バンブーコプターで飛びながら、遠見の鏡を使った。どこに兵がいるか、どこへ向かっているか、が上空からならよく見えた。

 夜は、少人数の先遣隊や斥候に対して道具を使った。縄で縛る。光る石を目眩ましに使う。

 完璧ではなかった。縄は一度放てばなくなる。それでも——信長の軍の先遣隊が、この城の周辺で動けなくなっていた。「赤い妖が出る」という噂が、信長の兵の間に広まった。

 ある夜、須根 夫介(すね おすけ)が城壁の上で見回りをしていた。城壁の外の森に、赤いものがいた。須根 夫介(すね おすけ)は立ち止まった。暗い赤の目と、須根 夫介(すね おすけ)の目が合った。

「ニャえもん」低い声で言った。

 赤いものは動かなかった。

「信長の先遣隊が、この城の周辺で混乱している。赤い妖の仕業だ、という情報が入っている。お前か」

 赤い目が、わずかに動いた。

「わかった」須根 夫介(すね おすけ)は言った。「城に入らなくていい。武も、俺も、強要しない。ただ——情報を渡してくれるなら、助かる。信長の軍の動きを」

 森の中で、何かが動いた。

 次の瞬間、小さな光る石が、城壁の上に向かって投げられてきた。須根 夫介(すね おすけ)が受け取った。手のひらの上で、それが淡く光った。

 須根 夫介(すね おすけ)は光る石を見た。それから森を見た。赤いものは、もういなかった。

「……承知した」須根 夫介(すね おすけ)は、誰もいない森に向かって言った。

 翌朝、須根 夫介(すね おすけ)は武に話した。

「昨夜、ニャえもんを見た」

 武が顔を上げた。「本当か」

「城壁の外の森にいた。目が合った」

「会いに行く」武が立ち上がった。

「待て。ニャえもんは城に入らない。まだ、入れない。無理に呼べば、遠ざかる」

 武は立ったまま、須根 夫介(すね おすけ)を見た。

「それでいいのか」

「良くない。でも、今はそれしかない。ニャえもんは信長の先遣隊を城の周辺から追い払っている。空から道具を使って。城に入らなくても、ニャえもんは今、われわれのために動いている」

 武はしばらく黙った。

「……わかった。待つ。でも——いつかは会える。俺は、そう思ってる。お前はどう思う」

「見通しだ」須根 夫介(すね おすけ)は言った。「ただ、今回は確信に近い」

 武が、少し笑った。

第八話「美声の噂」 了


美声の噂について。雷岸武の歌声が各地に知れ渡ったのはこの時期からである。「怖くて歌った」声が「天下を揺るがした」と記録された。同時期、別の噂もあった。「山に赤い妖がいる」「兵が逃げた」「城壁が崩れた」という類の噂だ。この二つの噂の出所が同じ集団から生まれたことは、後世まで誰も気づかなかった。


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