第七話「須根 夫介の算盤」
一
津田 玄斎の城に入って、十日が経った。
須根 夫介の日課は決まっていた。朝、城下を一人で歩く。昼、玄斎のもとへ行き、集めた情報を報告する。午後、城の中を観察する。夕、一人で情報を整理する。夜、一人で考える。
以前は「夕、仲間と話す」という時間があった。今はない。消えたのは時間だけではない。そのことを、須根 夫介は朝、昼、夕、夜、繰り返し確認した。人間の記憶というのは、意地悪なほど正確に、欠けた部分の形を覚えている。
須根 夫介は情報を集めるほど、この城の構造が透けて見えてきた。
玄斎という人間は、須根 夫介が思った通り、智略を好んだ。そのために情報を必要としていた。須根 夫介が提供する情報の質は、今まで玄斎が持っていたものより高かった。それが須根 夫介の価値だった。
ただ、須根 夫介には玄斎に話していないことがあった。複数の勢力に顔を売っていることだ。一つの陣営にだけ属すれば、その陣営が潰れた時に全てを失う。複数の陣営に顔を持てば、どこが勝っても生き延びられる。
津田の城に出入りする商人の中に、別の勢力と繋がりを持つ者がいた。須根 夫介はその商人と個人的に話した。情報を渡した。代わりに別の情報をもらった。
十日で、須根 夫介は三つの勢力に顔を持っていた。津田 玄斎。東の小大名。そして——信長の側近の一人。最後の一つだけは、誰にも言っていなかった。
二
信長の側近と接触したのは、計画していたことだった。
見知らぬ武士が城下の茶屋で須根 夫介の隣に座り、静かに言った。「須根 須根 夫介殿とお見受けした」と。
「われわれとも話をしてみませんか」
「我々とは」
「お察しください」
須根 夫介は茶を一口飲んだ。信長の側近だ、と思った。「承知しました」と言った。
それから三度、その男と会った。信長が欲しがっている情報を渡した。代わりに信長の動きに関する情報をもらった。その情報を、出所を言わずに津田に渡した。
三
城での夜、須根 夫介は一人で考えた。
複数の陣営に情報を流している。それが発覚すれば、全ての陣営から敵とみなされる。危険な均衡だった。でも須根 夫介には、それしかなかった。
一つの陣営に完全に属せば、縛られる。縛られれば、武を探すことも、ニャえもんを探すことも、できなくなる。どこにも完全に属さない。だからこそ、どこにでも動ける。それが須根 夫介の戦略だった。
四
翌日、須根 夫介は玄斎に呼ばれた。
「須根。お前を試していた。複数の勢力と繋がっているかを、確かめていた」玄斎は言った。「お前が来た翌日から、いくつかの筋に探りを入れた」
「それで、わかりましたか」
「ある程度は。お前が東の小大名とも繋がりを持ち、おそらく信長の側とも接触していることが、わかった」
「否定しません」須根 夫介は言った。「ただ、私がここに提供した情報の質に、偽りはありましたか」
「なかった」
「それが答えです。私はどの陣営の味方でもありません。ただ、価値ある情報を提供し、対価を受け取る。それだけです」
「裏切るかもしれない」
「裏切ることも選択肢の一つです。ただ、私が津田殿を裏切る理由がない。今のところ」
「正直な男だな」
「嘘をつく必要がないので」
「お前の仲間とは、誰だ」
「雷岸 武という男です。歌が上手い。戦国で生き延びる武器は、剣だけではないと、私は考えています。武の歌は、人を動かします。玄斎殿にも、必要なものかもしれません」
五
玄斎は三日後に返事をする、と言った。
三日後、「武という男を、連れてこい」と言った。
須根 夫介は街道に出た。松の木を探した。武が残した目印は、更新されていた。「北東の城に拠点あり。三十人が集まった」という意味の印が、増えていた。
須根 夫介は新しい印を残した。「北の大きな城で待っている。来られるか」という意味の印だった。
四日目に、返事があった。「向かっている。七日後に着く」という意味の印だった。
玄斎に告げた。「七日後に来ます」
六
七日が過ぎた。
須根 夫介は城の門で一人で待った。昼を過ぎた頃、遠くに大きな人影が見えた。武だった。後ろに数人が続いていた。
武も須根 夫介を見つけた。武の顔が、一瞬崩れた。泣きそうな顔だった。でも泣かなかった。大股で歩いてきた。
「久しぶりだな」
「久しぶりだ」
「静香は」
須根 夫介は答えなかった。一拍の間があった。武がその間を読んだ。
「……どういうことだ」
「後で話す」須根 夫介は言った。「今は、中に入ろう」
武が持ってきた仲間は、源七郎と、その他の数人だった。須根 夫介は源七郎を一目見て、元武将だと判断した。
「須根 須根 夫介です」
「木島 源七郎。武から、あなたのことは聞いています。頭が良くて、計算が速くて、何を考えているかわからないが、信頼できると」
須根 夫介は武を見た。「信頼できると言ったのか」
「言ったぞ。何が悪い」
「悪くない。……ありがとう」武が少し驚いた顔をした。
七
その夜、武が玄斎の前で歌った。
武は緊張していた。でも歌い始めると、変わった。追い詰められた時の声だった。緊張が、逆に声に深みを与えていた。
「使える」玄斎が言った。それだけだった。
その夜遅く、二人は久しぶりに同じ部屋で話した。
「野火 太一のことを話せるか、須根 夫介」
「話せる」
須根 夫介は話した。あの夜のことを。ニャえもんの体勢が崩れ、収納庫が開き、バンブーコプターが転がり出て、野火 太一の手が握ったことを。それから——静香のことも、話した。宿場の夜のことを。走ったが、間に合わなかったことを。
武は黙って聞いていた。話し終えた。沈黙があった。
「誰のせいでもない」武は言った。
「そうだ」
「ニャえもんは」武は言った。「今もそれがわかっていないんだろうな」
「わかっていても、赦せないでいると思う」
「会いに行きたい」武は言った。
「いつか、行ける」須根 夫介は言った。「見通しだ。ただ、確信に近い」
武はしばらく須根 夫介を見た。「須根 夫介、お前、ここで何をしてる。本当のところを」
「複数の陣営に顔を売っている。玄斎にも話した。嘘はない。武と合流するために。ニャえもんを探すために。それ以上でも以下でもない」
「信じる」
「根拠は」
「お前が言ったから。お前は損な嘘をつかない。俺に言っても得にならない嘘を言う理由がない。だから信じる」
「……ありがとう」
「また礼を言う」
「必要な時には言う」
「それでいい」武は言った。「俺も、ありがとうな。呼んでくれて」
「呼んで正解だったか」
「正解だった。また会えた」
「また会えた」
八
深夜になった。武は眠っていた。須根 夫介は一人で起きていた。
また二人になった。四人ではない。野火 太一がいない。ニャえもんがどこにいるかわからない。静香は——どこにいるかも、わからない。
でも二人だった。一人より二人の方が、できることが増える。それだけは確かだった。
信長の側近との接触について考えた。続けるべきだと判断した。武に話す必要があるかもしれない。もう少し時間をかけて、状況が固まってから、話す。今ではない。でも、いつかは必ず。それが須根 夫介なりの、誠実さだった。
夜が深くなった。武のいびきが聞こえた。
須根 夫介は窓を閉めた。自分も横になった。武の呼吸を聞いていたら、少しだけ、体の力が抜けた。気づかないうちに、目を閉じていた。一人ではなかったから。それだけで、須根 夫介は眠れた。
第七話「須根 夫介の算盤」 了
須根夫介について。彼は生涯を通じて「計算」という言葉を使い続けた。人の動きを計算し、情報の価値を計算し、裏切りのリスクを計算した。ただし、仲間が消えた時だけ、計算が止まった。計算が止まる人間は、実は計算だけで動いていなかった、ということになる。これは本人にとって、意外だったかもしれない。




