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のび太一死す  作者: 伝説の男前
第二幕:それぞれの戦国

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第六話「静香、売られる」

 北の道は、静かだった。

 須根 夫介(すね おすけ)と静香は、人通りの少ない山沿いの道を選んで歩いた。

 須根 夫介(すね おすけ)は歩きながら、常に何かを考えていた。周囲の地形を読んだ。人の動きを観察した。すれ違う旅人の荷の種類から、この地域で何が不足しているかを推測した。

須根 夫介(すね おすけ)くん」静香は歩きながら言った。「いつも何を考えてるの」

「今は」須根 夫介(すね おすけ)は言った。「この道の北に、どんな勢力があるかを考えている。集落の人間が信長の話をする時の声の温度が、南より低い。恐怖ではなく、嫌悪に近い。ということは、この地域では信長の支配がまだ完全ではなく、抵抗する意志のある集団がいる可能性が高い」

「声の温度まで読めるんだね」静香は言った。

「お前にはお前の観察がある」須根 夫介(すね おすけ)は言った。「お前は人の中に入ることが上手い。昨日の集落でも、一時間で女たちの輪に入っていた。それはわたしにはできない」

「記憶がないのに、人と話すのは怖くないのか、って聞かれることがある」静香は言った。

「怖くないのか」

「怖い。でも……人と話すと、自分がどういう人間かが見えてくる気がして。話し方とか、笑うタイミングとか、何に反応するかとか。記憶がなくても、体の反応はある。それを見ていると、少しずつ、わたしってこういう人間なんだって、わかってくる」

 須根 夫介(すね おすけ)はしばらく黙った。「合理的だ」

 五日が経った。二人は街道に近い小さな宿場に辿り着いた。

 一番手前の旅籠に入った。宿の主人は、四十がらみの、目がどこか据わった男だった。須根 夫介(すね おすけ)はその目を見て、何かを感じた。何かが引っかかった。でもそれが何かは、その時はわからなかった。

「一泊、二人で」須根 夫介(すね おすけ)は言った。

 部屋に案内された。須根 夫介(すね おすけ)は窓から外を確認した。出入り口を確認した。

「情報を集める。少し席を外す」須根 夫介(すね おすけ)は静香に言った。「誰かが来ても、戸を開けるな」

「わかった」

 飯屋に入った。須根 夫介(すね おすけ)は隅の席に座り、酒を一杯だけ頼んだ。飲まなかった。ただ、場に溶け込むために頼んだ。

 飯屋には旅人が数人いた。須根 夫介(すね おすけ)は順番に観察した。

 宿の主人を観察した。主人の目が、武装した男に向く時だけ、違った。愛想の仮面の下に、何かがあった。打ち合わせた目だった。確認する目だった。

(何かある)

 須根 夫介(すね おすけ)は酒の杯を置いた。席を立った。部屋に戻ろうとした。廊下を歩いた。部屋の前に来た。戸に手をかけた。

 開いた。部屋の中に、静香がいなかった。

 須根 夫介(すね おすけ)は一瞬、動かなかった。

 部屋の中を見た。荷物はあった。静香が持っていた小さな布包みだけが、なかった。

「連れの者が見当たらない。見なかったか」

「はあ」主人は言った。「お連れさんですか。さっき、一人で出て行かれましたよ」

「一人で?」

「ええ、用事があるとかで」

 須根 夫介(すね おすけ)は主人の目を見た。動揺していた。隠していたが、動揺していた。

 表に出た。街道を見た。暗くなり始めていた。

 須根 夫介(すね おすけ)は考えた。静香が自分で出て行く理由はない。「部屋にいろ」と言った。静香はそれに従うと言った。静香が自分から約束を破る理由がない。ならば——。

 宿の裏に回った。暗かった。荷物置き場のような場所だった。人の声がした。低い声だった。複数の声だった。

 角を曲がった。荷車があった。荷車の荷台に、人が乗せられていた。静香だった。手を縛られていた。口を塞がれていた。荷台に横にされていた。

 武装した男が二人、荷車の傍らに立っていた。主人が男たちと何かを話していた。金が動いた。

 須根 夫介(すね おすけ)の頭の中で、計算が走った。武装した男が二人。自分は武器を持っていない。正面からでは勝てない。

 須根 夫介(すね おすけ)の手が震えた。それに気づいた。自分の手が、震えていた。計算ではなかった。怒りだった。須根 夫介(すね おすけ)は生まれて初めて——少なくとも、記憶の中で初めて——怒りで手が震えるということを経験した。計算が、止まった。

 静香が荷台の上で、目を開けた。須根 夫介(すね おすけ)と、目が合った。静香の目が動いた。「来るな」と言っているようだった。

 須根 夫介(すね おすけ)は動いた。角を曲がった。しかし——荷車の荷台は、空だった。男たちもいなかった。主人もいなかった。縄の切れ端が一本、荷台の板の上に残っていた。裏口が、開いていた。

 外に出た。暗い路地があった。その先に、街道があった。街道は、空だった。

 須根 夫介(すね おすけ)は街道に出た。右を見た。左を見た。遠くに、蹄の音が聞こえた。遠ざかる音だった。

 須根 夫介(すね おすけ)は走った。音の方へ走った。走りながら、計算した。馬の速度と、自分の速度と、すでに離れた距離と。計算の答えは、出た。

 須根 夫介(すね おすけ)は走るのをやめた。道の真ん中に立った。蹄の音が、消えた。静寂だけが残った。

 どのくらい、そこに立っていたのかわからない。須根 夫介(すね おすけ)は道に座り込んだ。計算をしようとした。できなかった。珍しいことだった。いつも計算は動いていた。今は、動かなかった。ただ、夜の道が、目の前にあった。

 静香を連れ去った男たちの顔が、頭の中で繰り返された。金が動いた瞬間が。荷台の中の静香の目が。「来るな」と言っていた目が。あの目の意味を、須根 夫介(すね おすけ)は今になってわかった気がした。静香は、須根 夫介(すね おすけ)が捕まることを恐れていた。だから来るなと言った。それで、こちらが立ち止まった隙に、消えた。

 わかった。でも——結果は変わらなかった。静香はいない。

 須根 夫介(すね おすけ)は地面に手をついた。草が湿っていた。冷たかった。その冷たさが、少しだけ、頭の中を静かにした。

 野火 太一(のび たいち)がいれば、と思った。一度だけ、思った。それから打ち消した。野火 太一(のび たいち)はいない。武は遠い。静香も、今はいない。自分だけがここにいる。それだけが、今夜の事実だった。

 夜が明けた。須根 夫介(すね おすけ)は道を歩いていた。北へ向かっていた。

 歩きながら、ようやく計算が少し動き始めた。静香を連れ去った男たちは、南の方角へ向かっていた。南の方角に船が出る港がある。そこから先は——わからない。海の向こうだ。

 追えるか。答えは出た。追えない。情報がない。金がない。船がない。

 須根 夫介(すね おすけ)はその結論を、頭の中に置いた。置いて、歩き続けた。

「静香」須根 夫介(すね おすけ)は誰もいない道で、小さく言った。言葉は、消えた。返事はなかった。当然だった。

 その後に関して、須根夫介が残した覚書には静香についての記述が一切ない。かわりに、何も書かれていない白紙が一枚挟まっていた。

 一方、その南蛮船には、老いた外国の商人が乗っていた。日本語を少し話せる商人だった。荷の中に、手足を縛られた若い女がいるのを見て、商人は船主に金を払った。相場より高い金を払った。なぜそうしたかは、商人にも後からはわからなかった。ただ、その目が放っておけなかった、と後に商人は静香に話した。

第六話「静香、売られる」 了


タイトルが既に結末を示している珍しい話である。「売られる」という動詞は受動態であり、静香が能動的にそれを選んだわけではない。ただし後の経緯を見ると、これが静香にとって最善の展開だったと言えなくもない。歴史の皮肉というのは、当事者が最もひどい目に遭っている瞬間に準備されることが多い。

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