第五話「わらしべ武将」
一
野火 太一を弔ったのは、山の中の小さな平地だった。大きな岩の下に、須根 夫介と武が交互に土を掘った。道具はなかった。手で掘った。石を使って掘った。二人の手が傷だらけになった。
静香は野火 太一の顔に布をかけた。城でもらった着物の端を破いて、顔だけを覆った。それから三人で、黙った。何も言えなかった。言葉を知らない悲しみがあることを、武はその時初めて知った。
須根 夫介が、短く言った。
「野火 太一。世話になった」
それだけだった。でもその声が、かすかに震えていた。須根 夫介の声が震えるのを、武は初めて聞いた。
静香は何も言わなかった。ただ、布をかけた顔に、もう一度だけ手を当てた。それから、ゆっくりと、立ち上がった。
ニャえもんの足跡を追った。赤い足跡は山道を外れ、斜面を上り、岩場を越えて、森の深いところへ続いていた。三人は黙って追った。一時間ほど歩いたところで、足跡が消えた。
「……行ってしまった」武は言った。
「行った」須根 夫介は言った。
「どこへ」
「わからない」
武は岩の上にしゃがんだ。空を見た。曇っていた。灰色の空だった。
「ニャえもんは」武は言った。「どうなる」
「わからない」須根 夫介はまた言った。それが答えだった。
二
その日の夜、三人は無言で眠った。
武は眠れなかった。目を閉じると、野火 太一の顔が出てきた。眠っているような顔だった。最後に見た顔だった。
野火 太一の呼吸が、聞こえなかった。当然だった。野火 太一はもういない。でもその当然が、武には受け入れられなかった。隣に人が一人いないだけで、山の夜がこれほど静かになるのかと、武は思った。
夜明け近くに、武はようやく眠った。夢の中でも、野火 太一がいた。笑っていた。何を笑っているのかわからなかったが、笑っていた。武は夢の中で泣いた。
翌朝、須根 夫介が言った。
「これからのことを、決めなければならない。三人でいると、目立つ。別れた方が、それぞれの動ける範囲が広くなる」
「別れるのか」武は言った。
「そうだ。ただし、連絡の方法を決めておく。街道の要所に目印を残す」
武は地面を見た。
「静香は」武は言った。
「わたしは」静香は言った。静かな声だった。「須根 夫介くんと一緒に動く」
「そうか」
「武くんは、一人で大丈夫か」静香は武を見た。
武は答えようとした。大丈夫だ、と言おうとした。でも、口から出てきたのは違う言葉だった。
「大丈夫じゃない」武は言った。「大丈夫じゃないけど——行く。一人でも、行く」
三
その日の昼前、三人は別れた。
分かれる前に、須根 夫介が武に言った。
「食料は三日分ある。それ以上は自分で調達しろ」「信長の兵に会ったら、歌え。それ以外に方法がない」
「わかってる」
「武」須根 夫介は言った。普段は名前を呼ばない須根 夫介が、名前を呼んだ。「生きろ」
武は須根 夫介を見た。須根 夫介の目が、真剣だった。計算でも分析でもない、ただまっすぐな目だった。
「生きる」武は言った。
静香が武の前に来た。
「また会おう」静香は言った。
「ああ」
「野火 太一くんのこと」静香は言った。「わたし、名前も思い出せないけど……野火 太一くんのことは、覚えてる」
「覚えておく」武は言った。「俺も」
須根 夫介は懐から、紙を二枚取り出した。白い紙だった。何も書いていない。一枚を静香に、もう一枚を手元に残した。
「何かを書き留めたいことがあれば、使え」
「何も書かないかもしれない」静香は言った。
「それでも構わない。ただ、持っておいてくれ」
須根 夫介と静香が北の道へ歩いた。武は東の道に向かって立った。振り返らなかった。振り返ったら、動けなくなる気がしたから。歩き始めた。
四
一人だった。それが、これほど重いとは思わなかった。
武は歩いた。山道を下り、川に沿った道に出た。どこへ行くのかは決まっていなかった。ただ東へ向かうと決めた。
夕方になった。また歩いた。日が暮れかけた頃、武は立ち止まった。誰もいない山道の真ん中で。それから、泣いた。
声を上げて泣いた。みっともなかった。大男が山道の真ん中でうずくまって泣いていた。でも誰も見ていなかった。誰も見ていないから、泣いた。
野火 太一のことを泣いた。ニャえもんのことを泣いた。自分がここに来てしまったことを泣いた。帰れないことを泣いた。怖いことを泣いた。一人なことを泣いた。
やがて、涙が出なくなった。武は顔を上げた。空に、星が出ていた。
野火 太一が言っていたことを思い出した。最初の夜だ。廃屋で「戦国の空は広すぎる」と言っていた。確かに広かった。
武は立ち上がった。膝の土を払った。歩き始めた。
五
三日が経った。食料が尽きた。川の水だけで、歩き続けた。
四日目の朝、小さな集落に辿り着いた。
「旅の者です。食料を分けてもらえませんか。お礼は……歌います」
「歌?」老人は言った。
「はい。歌しか持っていないので」
武は歌った。かすれていた。力強くはなかった。でも、その分だけ、深かった。老人の目から、涙が落ちた。
「飯を食え」老人が言った。
集落で一泊した後、翌朝、老人が武を呼んだ。
「東に、もう少し大きな集落がある。そこの長老が、良い人間を探している」
「声に、そういうものが入っている」老人は言った。「悲しみをそのまま声にして歌う人間は、滅多にいない」
「……失いました」武は言った。「大切な人を」
「そうか」老人は言った。「それで、歌えるか」
「歌うしか、できないので」
老人が頷いた。「東へ行け。その歌は、必要とされる」
六
東の集落は、三十軒ほどの家と、小さな市が立つ広場があった。
武が広場に立って歌い始めた。最初、誰も足を止めなかった。でも一人が足を止めた。それが広がった。やがて、広場に人が集まっていた。
歌い終わった時、広場が静かになった。沈黙だった。次の瞬間、拍手が来た。老婆が涙を拭いた。
長老が来た。「名前は」
「雷岸 武です」
「武か。良い名だ。力がある」
「名前だけです。中身は小心者なので」
長老が笑った。「小心者が、あれだけの声で歌うか」
「追い詰められた時しか歌えないんです」
「それでいい。度胸があって歌う人間の歌は、勇ましい。追い詰められて歌う人間の歌は、真実がある。どちらが人の心に届くかは、決まっている」
七
翌日、長老に連れられて会ったのは、落ち武者だった。
木島 源七郎。三十代くらいの男だった。かつては武将だったのか、体の動き、目の鋭さがそれを示していた。
「お前が昨夜歌った男か」
「そうです」
「声を聞いた。戸の外から。眠れなかったので。歌を聞いて……眠れた」
「礼を言う。わたしは三ヶ月、まともに眠れていなかった。昨夜、初めて眠れた」
武は源七郎を見た。
「わたしは」源七郎は言った。「力を持て余している。お前は、どこへ向かう」
「決まっていません」
「目的はあるか」
「……ない、かもしれません。今は」
「ならば」源七郎は言った。「しばらく、一緒に歩いてもいいか。お前の歌が必要だ」
「俺の歌で、あなたが動けるんですか」
「試してみないとわからない。だがわたしの勘では、そうなる」
「……一緒に来てください」武は言った。「俺には目的がない。あなたには動きたい場所がある。それを合わせれば、少しはましになるかもしれない」
源七郎は、かすかに笑った。「お前、面白い男だな」
「そうでもないです」
「いや、面白い」源七郎は立ち上がった。「行こう」
八
武と源七郎が歩き始めた。源七郎には目的地があった。北東に、まだ信長に落とされていない小さな勢力があった。そこに、源七郎の旧知の将がいた。
三日後、街道に出た。松の木を探した。須根 夫介が別れる時に言っていた。「二つの三角が重なっていたら、こちらは無事で北にいる」という意味の印だった。
武はそれを見つけた。目印が、あった。
「あった」武は言った。
「仲間の印か」
「そうです。無事で、北にいるそうです」
武も松の木に目印を残した。自分は無事で、東から北東へ向かっていること。仲間と合流したこと。それだけを、傷の形で刻んだ。
「お前たちは、うまく工夫しているな」
「須根 夫介くんが考えました。頭が良いので」
武の肩から、何かが抜けた。二人が無事だとわかった。それだけで、肩の力が抜けた。
九
武次郎という将の城に着いた。
「この男は」武次郎は言った。
「俺の仲間だ」源七郎は言った。「旅の者で、歌が上手い」
「歌が?」武次郎の目が訝しんだ。「戦力にならないではないか」
「歌ってもらえ。それから判断しろ」
武は怖かった。この男は、さっきから一度も笑っていなかった。でも源七郎がここにいた。源七郎が「一緒に来い」と言ってくれた。その源七郎の前で逃げることは——できなかった。武は歌った。
歌い終わった後、しばらく沈黙があった。
「兵を集めたい」武次郎が言った。「お前が村々を回って歌えば、人が集まるかもしれない」
「俺の歌で、兵が集まるんですか」
「人が集まる、と言った。ただ、人を動かすには何かが必要だ。お前の歌のような何かが」
「歌います」武は言った。「村々を回って、歌います。ただし——俺を連れてきた源七郎さんを、ここで受け入れてください。それが条件です」
「元々、そのつもりだ」
「なら、やります」
十
それから十日間、武は村々を回った。源七郎が護衛として同行した。
最初の村では、誰も見向きもしなかった。二番目の村では、子供だけが集まった。三番目の村では、老婆が泣いた。四番目の村では、若い男が「お前の歌をまた聞きたい」と言った。五番目の村では、その若い男が別の若い男を連れてきていた。
気がつくと、後ろに人がいた。
十日目の夕、武次郎の城に戻ると、後ろに三十人がついてきていた。武次郎が城の門で待っていた。
「三十人か」
「俺は何もしていないです。歌っただけです」
「歌っただけで、三十人が来た」
武次郎は頭を下げた。「ありがとう」
「礼は要りません。でも——一つ聞いていいですか。信長を倒せますか」
「可能性は増える」
「増えるだけですか」
「戦というのは、すべて可能性だ。確実などない」
武は頷いた。「わかりました。もう少し、歌います」
十一
その夜、武は一人で城の壁に座っていた。
ニャえもんがこの空の下のどこかにいるのか、武にはわからなかった。赤くなったニャえもんが、山の奥に消えていった。それから何も聞かなかった。
ただ——野火 太一のことを思った。バンブーコプターを止めようとしていたことを。それでも、止められなかったことを。
(お前のせいじゃない)
武は思った。野火 太一に向かって、思った。
(誰のせいでもない。事故だった)
でもニャえもんには、そう思えていないだろう。ニャえもんはどこかで今も、自分を赦せないでいるだろう。
(俺が会いに行けたら)
武は思った。
(ニャえもんに会えたら、言える。お前のせいじゃないと。野火 太一はお前のことを信じていたと)
でも今は、会えない。だから歌う。歌うことしかできないから、歌う。
武は星を見た。広い空だった。おそろしく広い空だった。でも今夜は、その広さが少しだけ、違って見えた。怖いだけの広さではなかった。何かを受け入れる、広さだった。
武は歌い始めた。城壁の上で、一人で、夜の空に向かって。誰も聞いていなかった。でも歌った。野火 太一に向かって。ニャえもんに向かって。須根 夫介に向かって。静香に向かって。会えない人たちに向かって、声の限り歌った。
城の中で、源七郎が目を覚ました。武次郎が目を覚ました。集まった三十人のうちの何人かが目を覚ました。全員が、声のする方を向いた。城壁の上に、影があった。大きな影が、夜空に向かって歌っていた。誰も何も言わなかった。ただ、聞いた。
武は歌い続けた。涙が出た。泣きながら歌った。恥ずかしくなかった。誰かに見せるための涙ではなかったから。
歌い終わった。静かになった。武は顔を拭った。星が動いていた。
武は立ち上がった。城壁を下りた。眠ろうと思った。明日もまた、歩くから。明日もまた、歌うから。それだけが、今の武にできることだったから。
第五話「わらしべ武将」 了
「わらしべ長者」という昔話がある。藁一本から始めて、最終的に豪邸を手に入れる話だ。雷岸武の場合は、恐怖から始めて、歌い、最終的に「歌で天下を取った男」という伝説を手に入れた。ただし武本人は「怖くて歌っただけだ」と生涯言い続けた。伝説とは、本人の言い訳が採用されなかったものである。




