表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
のび太一は死んだ  作者: 伝説の男前
第二幕:それぞれの戦国

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/20

第五話「わらしべ武将」

 野火 太一(のび たいち)を弔ったのは、山の中の小さな平地だった。大きな岩の下に、須根 夫介(すね おすけ)と武が交互に土を掘った。道具はなかった。手で掘った。石を使って掘った。二人の手が傷だらけになった。

 静香は野火 太一(のび たいち)の顔に布をかけた。城でもらった着物の端を破いて、顔だけを覆った。それから三人で、黙った。何も言えなかった。言葉を知らない悲しみがあることを、武はその時初めて知った。

 須根 夫介(すね おすけ)が、短く言った。

野火 太一(のび たいち)。世話になった」

 それだけだった。でもその声が、かすかに震えていた。須根 夫介(すね おすけ)の声が震えるのを、武は初めて聞いた。

 静香は何も言わなかった。ただ、布をかけた顔に、もう一度だけ手を当てた。それから、ゆっくりと、立ち上がった。

 ニャえもんの足跡を追った。赤い足跡は山道を外れ、斜面を上り、岩場を越えて、森の深いところへ続いていた。三人は黙って追った。一時間ほど歩いたところで、足跡が消えた。

「……行ってしまった」武は言った。

「行った」須根 夫介(すね おすけ)は言った。

「どこへ」

「わからない」

 武は岩の上にしゃがんだ。空を見た。曇っていた。灰色の空だった。

「ニャえもんは」武は言った。「どうなる」

「わからない」須根 夫介(すね おすけ)はまた言った。それが答えだった。

 その日の夜、三人は無言で眠った。

 武は眠れなかった。目を閉じると、野火 太一(のび たいち)の顔が出てきた。眠っているような顔だった。最後に見た顔だった。

 野火 太一(のび たいち)の呼吸が、聞こえなかった。当然だった。野火 太一(のび たいち)はもういない。でもその当然が、武には受け入れられなかった。隣に人が一人いないだけで、山の夜がこれほど静かになるのかと、武は思った。

 夜明け近くに、武はようやく眠った。夢の中でも、野火 太一(のび たいち)がいた。笑っていた。何を笑っているのかわからなかったが、笑っていた。武は夢の中で泣いた。

 翌朝、須根 夫介(すね おすけ)が言った。

「これからのことを、決めなければならない。三人でいると、目立つ。別れた方が、それぞれの動ける範囲が広くなる」

「別れるのか」武は言った。

「そうだ。ただし、連絡の方法を決めておく。街道の要所に目印を残す」

 武は地面を見た。

「静香は」武は言った。

「わたしは」静香は言った。静かな声だった。「須根 夫介(すね おすけ)くんと一緒に動く」

「そうか」

「武くんは、一人で大丈夫か」静香は武を見た。

 武は答えようとした。大丈夫だ、と言おうとした。でも、口から出てきたのは違う言葉だった。

「大丈夫じゃない」武は言った。「大丈夫じゃないけど——行く。一人でも、行く」

 その日の昼前、三人は別れた。

 分かれる前に、須根 夫介(すね おすけ)が武に言った。

「食料は三日分ある。それ以上は自分で調達しろ」「信長の兵に会ったら、歌え。それ以外に方法がない」

「わかってる」

「武」須根 夫介(すね おすけ)は言った。普段は名前を呼ばない須根 夫介(すね おすけ)が、名前を呼んだ。「生きろ」

 武は須根 夫介(すね おすけ)を見た。須根 夫介(すね おすけ)の目が、真剣だった。計算でも分析でもない、ただまっすぐな目だった。

「生きる」武は言った。

 静香が武の前に来た。

「また会おう」静香は言った。

「ああ」

野火 太一(のび たいち)くんのこと」静香は言った。「わたし、名前も思い出せないけど……野火 太一(のび たいち)くんのことは、覚えてる」

「覚えておく」武は言った。「俺も」

 須根 夫介(すね おすけ)は懐から、紙を二枚取り出した。白い紙だった。何も書いていない。一枚を静香に、もう一枚を手元に残した。

「何かを書き留めたいことがあれば、使え」

「何も書かないかもしれない」静香は言った。

「それでも構わない。ただ、持っておいてくれ」

 須根 夫介(すね おすけ)と静香が北の道へ歩いた。武は東の道に向かって立った。振り返らなかった。振り返ったら、動けなくなる気がしたから。歩き始めた。

 一人だった。それが、これほど重いとは思わなかった。

 武は歩いた。山道を下り、川に沿った道に出た。どこへ行くのかは決まっていなかった。ただ東へ向かうと決めた。

 夕方になった。また歩いた。日が暮れかけた頃、武は立ち止まった。誰もいない山道の真ん中で。それから、泣いた。

 声を上げて泣いた。みっともなかった。大男が山道の真ん中でうずくまって泣いていた。でも誰も見ていなかった。誰も見ていないから、泣いた。

 野火 太一(のび たいち)のことを泣いた。ニャえもんのことを泣いた。自分がここに来てしまったことを泣いた。帰れないことを泣いた。怖いことを泣いた。一人なことを泣いた。

 やがて、涙が出なくなった。武は顔を上げた。空に、星が出ていた。

 野火 太一(のび たいち)が言っていたことを思い出した。最初の夜だ。廃屋で「戦国の空は広すぎる」と言っていた。確かに広かった。

 武は立ち上がった。膝の土を払った。歩き始めた。

 三日が経った。食料が尽きた。川の水だけで、歩き続けた。

 四日目の朝、小さな集落に辿り着いた。

「旅の者です。食料を分けてもらえませんか。お礼は……歌います」

「歌?」老人は言った。

「はい。歌しか持っていないので」

 武は歌った。かすれていた。力強くはなかった。でも、その分だけ、深かった。老人の目から、涙が落ちた。

「飯を食え」老人が言った。

 集落で一泊した後、翌朝、老人が武を呼んだ。

「東に、もう少し大きな集落がある。そこの長老が、良い人間を探している」

「声に、そういうものが入っている」老人は言った。「悲しみをそのまま声にして歌う人間は、滅多にいない」

「……失いました」武は言った。「大切な人を」

「そうか」老人は言った。「それで、歌えるか」

「歌うしか、できないので」

 老人が頷いた。「東へ行け。その歌は、必要とされる」

 東の集落は、三十軒ほどの家と、小さな市が立つ広場があった。

 武が広場に立って歌い始めた。最初、誰も足を止めなかった。でも一人が足を止めた。それが広がった。やがて、広場に人が集まっていた。

 歌い終わった時、広場が静かになった。沈黙だった。次の瞬間、拍手が来た。老婆が涙を拭いた。

 長老が来た。「名前は」

「雷岸 武です」

「武か。良い名だ。力がある」

「名前だけです。中身は小心者なので」

 長老が笑った。「小心者が、あれだけの声で歌うか」

「追い詰められた時しか歌えないんです」

「それでいい。度胸があって歌う人間の歌は、勇ましい。追い詰められて歌う人間の歌は、真実がある。どちらが人の心に届くかは、決まっている」

 翌日、長老に連れられて会ったのは、落ち武者だった。

 木島 源七郎。三十代くらいの男だった。かつては武将だったのか、体の動き、目の鋭さがそれを示していた。

「お前が昨夜歌った男か」

「そうです」

「声を聞いた。戸の外から。眠れなかったので。歌を聞いて……眠れた」

「礼を言う。わたしは三ヶ月、まともに眠れていなかった。昨夜、初めて眠れた」

 武は源七郎を見た。

「わたしは」源七郎は言った。「力を持て余している。お前は、どこへ向かう」

「決まっていません」

「目的はあるか」

「……ない、かもしれません。今は」

「ならば」源七郎は言った。「しばらく、一緒に歩いてもいいか。お前の歌が必要だ」

「俺の歌で、あなたが動けるんですか」

「試してみないとわからない。だがわたしの勘では、そうなる」

「……一緒に来てください」武は言った。「俺には目的がない。あなたには動きたい場所がある。それを合わせれば、少しはましになるかもしれない」

 源七郎は、かすかに笑った。「お前、面白い男だな」

「そうでもないです」

「いや、面白い」源七郎は立ち上がった。「行こう」

 武と源七郎が歩き始めた。源七郎には目的地があった。北東に、まだ信長に落とされていない小さな勢力があった。そこに、源七郎の旧知の将がいた。

 三日後、街道に出た。松の木を探した。須根 夫介(すね おすけ)が別れる時に言っていた。「二つの三角が重なっていたら、こちらは無事で北にいる」という意味の印だった。

 武はそれを見つけた。目印が、あった。

「あった」武は言った。

「仲間の印か」

「そうです。無事で、北にいるそうです」

 武も松の木に目印を残した。自分は無事で、東から北東へ向かっていること。仲間と合流したこと。それだけを、傷の形で刻んだ。

「お前たちは、うまく工夫しているな」

須根 夫介(すね おすけ)くんが考えました。頭が良いので」

 武の肩から、何かが抜けた。二人が無事だとわかった。それだけで、肩の力が抜けた。

 武次郎という将の城に着いた。

「この男は」武次郎は言った。

「俺の仲間だ」源七郎は言った。「旅の者で、歌が上手い」

「歌が?」武次郎の目が訝しんだ。「戦力にならないではないか」

「歌ってもらえ。それから判断しろ」

 武は怖かった。この男は、さっきから一度も笑っていなかった。でも源七郎がここにいた。源七郎が「一緒に来い」と言ってくれた。その源七郎の前で逃げることは——できなかった。武は歌った。

 歌い終わった後、しばらく沈黙があった。

「兵を集めたい」武次郎が言った。「お前が村々を回って歌えば、人が集まるかもしれない」

「俺の歌で、兵が集まるんですか」

「人が集まる、と言った。ただ、人を動かすには何かが必要だ。お前の歌のような何かが」

「歌います」武は言った。「村々を回って、歌います。ただし——俺を連れてきた源七郎さんを、ここで受け入れてください。それが条件です」

「元々、そのつもりだ」

「なら、やります」

 それから十日間、武は村々を回った。源七郎が護衛として同行した。

 最初の村では、誰も見向きもしなかった。二番目の村では、子供だけが集まった。三番目の村では、老婆が泣いた。四番目の村では、若い男が「お前の歌をまた聞きたい」と言った。五番目の村では、その若い男が別の若い男を連れてきていた。

 気がつくと、後ろに人がいた。

 十日目の夕、武次郎の城に戻ると、後ろに三十人がついてきていた。武次郎が城の門で待っていた。

「三十人か」

「俺は何もしていないです。歌っただけです」

「歌っただけで、三十人が来た」

 武次郎は頭を下げた。「ありがとう」

「礼は要りません。でも——一つ聞いていいですか。信長を倒せますか」

「可能性は増える」

「増えるだけですか」

「戦というのは、すべて可能性だ。確実などない」

 武は頷いた。「わかりました。もう少し、歌います」

十一

 その夜、武は一人で城の壁に座っていた。

 ニャえもんがこの空の下のどこかにいるのか、武にはわからなかった。赤くなったニャえもんが、山の奥に消えていった。それから何も聞かなかった。

 ただ——野火 太一(のび たいち)のことを思った。バンブーコプターを止めようとしていたことを。それでも、止められなかったことを。

(お前のせいじゃない)

 武は思った。野火 太一(のび たいち)に向かって、思った。

(誰のせいでもない。事故だった)

 でもニャえもんには、そう思えていないだろう。ニャえもんはどこかで今も、自分を赦せないでいるだろう。

(俺が会いに行けたら)

 武は思った。

(ニャえもんに会えたら、言える。お前のせいじゃないと。野火 太一(のび たいち)はお前のことを信じていたと)

 でも今は、会えない。だから歌う。歌うことしかできないから、歌う。

 武は星を見た。広い空だった。おそろしく広い空だった。でも今夜は、その広さが少しだけ、違って見えた。怖いだけの広さではなかった。何かを受け入れる、広さだった。

 武は歌い始めた。城壁の上で、一人で、夜の空に向かって。誰も聞いていなかった。でも歌った。野火 太一(のび たいち)に向かって。ニャえもんに向かって。須根 夫介(すね おすけ)に向かって。静香に向かって。会えない人たちに向かって、声の限り歌った。

 城の中で、源七郎が目を覚ました。武次郎が目を覚ました。集まった三十人のうちの何人かが目を覚ました。全員が、声のする方を向いた。城壁の上に、影があった。大きな影が、夜空に向かって歌っていた。誰も何も言わなかった。ただ、聞いた。

 武は歌い続けた。涙が出た。泣きながら歌った。恥ずかしくなかった。誰かに見せるための涙ではなかったから。

 歌い終わった。静かになった。武は顔を拭った。星が動いていた。

 武は立ち上がった。城壁を下りた。眠ろうと思った。明日もまた、歩くから。明日もまた、歌うから。それだけが、今の武にできることだったから。

第五話「わらしべ武将」 了

「わらしべ長者」という昔話がある。藁一本から始めて、最終的に豪邸を手に入れる話だ。雷岸武の場合は、恐怖から始めて、歌い、最終的に「歌で天下を取った男」という伝説を手に入れた。ただし武本人は「怖くて歌っただけだ」と生涯言い続けた。伝説とは、本人の言い訳が採用されなかったものである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ