第四話「赤」
一
城を出て三日が経った。
五人は街道を外れ、山の裏側を抜け、人通りのない道を歩き続けた。信長の軍の動きを須根 夫介が読み、危ない方向から遠ざかるように進んだ。どこへ向かうのかは、まだ決まっていなかった。止まれなかった。止まることが、一番危なかった。
食料が乏しかった。ニャえもんは食事をしなかった。これは初めからのことで、誰も気にしていなかった。
ただ野火 太一は、ニャえもんが時々、立ち止まって空を見ることに気づいていた。
「大丈夫か」野火 太一は毎回聞いた。
「大丈夫だ」ニャえもんは毎回答えた。
三日目の夕方、小さな村に辿り着いた。十軒ほどの家が固まった、川沿いの村だった。山の影に隠れるように、身を縮めているような村だった。
須根 夫介が先頭に立って話をつけた。村はずれの空き家に一夜の宿を得た。
野火 太一はニャえもんの隣に座った。
「眠れ」ニャえもんは言った。「三日、ほとんど眠っていないだろう。わたしが起きている」
野火 太一は横になって、眠った。
二
野火 太一が眠ってから、どのくらい経ったか。
村の方から、細い声が聞こえてきた。苦しそうな、熱のある子供の声だった。
ニャえもんの耳が、その声を捉えた。
小屋の中を見た。全員が眠っていた。皆、疲れていた。三日間、ほとんど眠れていなかった。
ニャえもんは立ち上がり、外に出た。
村の中ほどの家だった。戸の隙間から灯りが漏れていた。中から、大人の女の声がした。「もう少しで夜明けだから」「お水を飲もう」「大丈夫だから」——声は震えていた。
ニャえもんは戸を叩いた。
三
子供は八歳か九歳の男の子だった。顔が赤かった。額に布を当てられていたが、乾いていた。
「……誰」
「ニャえもん」
「猫っぽい……なに?」子供は繰り返した。「おもしろいな」
「名前は」
「弥助」
ニャえもんは弥助の額に手を当てた。熱かった。母親に湧き水を汲んでくるよう頼み、「この子がいる」と言うと、母親は桶を持って外に出て行った。
子供と二人になった。弥助は目を閉じたり開いたりしながら、ぽつぽつと話した。それからしばらくして、窓の外を見るように目を細めた。
「さっき……夢で見た」弥助は言った。熱に浮かされた、かすれた声だった。「ニャえもんが……空を飛んでた。頭に竹とんぼみたいなの、つけて……浮いてた。夢かと思ったけど、ほんとうにニャえもんがいる」
「……」
「あれ……つけたら、神様のところへ飛んでいける?」
ニャえもんの体が、止まった。
「お父さんがいるから」弥助は続けた。「去年、戦で死んだ。だから会いたくて」
ニャえもんは弥助を見た。
「飛べない」ニャえもんは言った。「人間には使えない道具だ」
「なんで」
「わからない。でも——使わせられない」
弥助は少し残念そうな顔をして、目を閉じた。炎の灯りが揺れた。胸の収納庫の中に、バンブーコプターがある。ニャえもんにはわかった。いつも感じていた。
(使わない)
それだけを思った。弥助に何かあってほしくない。それだけだった。
母親が戻ってきた。湧き水で布を冷やし、弥助の額に当てた。弥助がかすかにうめいて、それから眠った。呼吸が深くなった。
「いてくれただけで」母親は言った。「いてくれるだけで、違う」
ニャえもんはその言葉を聞いた。いてくれるだけで、違う。その言葉が、ニャえもんの何かに触れた。
四
夜明け前、ニャえもんは小屋に戻った。野火 太一の寝顔を見た。安心した顔だった。
「変わりない」ニャえもんは言った。先に。
目を覚ました野火 太一はニャえもんを見た。
「何かあったか」
「村の子が熱を出していた。看病した」
「道具は」
「使っていない」
「バンブーコプターも」
「一度、取り出した」ニャえもんは言った。正直に。
野火 太一の体が固まった。
「子供が、竹とんぼみたいなものが見えたと言った。外でわたしが飛んでいるのを窓の隙間から見ていたらしい。神様のところへ飛んでいけるかと聞いた。父親が死んでいて、会いたいと言っていた」
「……」
「使わなかった」ニャえもんは言った。「取り出して、見て、戻した。それだけだ」
「なぜ使わなかった」野火 太一はゆっくり聞いた。
「お前との約束だ」ニャえもんは言った。「それだけだ」
野火 太一の目が赤くなった。
「泣くな」
「泣いてない。ありがとう、ニャえもん」
「礼を言われることでもない」
「でも、ありがとう」
ニャえもんは野火 太一を見た。
「お前がここにいてくれて、よかった」ニャえもんは言った。「それだけだ」
五
その日の昼前、弥助の熱が下がった。母親が泣きながら知らせに来た。昼過ぎ、弥助が小屋に来た。顔がまだ少し赤かったが、立って歩けていた。
「ありがとう」
「俺は何も——」
「いた」弥助は言った。「ニャえもんがいたから、怖くなかった」
「もう一度聞いていいか」弥助は言った。
「なに」
「あの竹とんぼみたいなの。本当に人間には使えない?」
「使えない」ニャえもんは言った。「よくわからないが、使わせられない」
「そっか」弥助は少し残念そうな顔をした。「お父さんに会いたかったけど、まあいいか。よくわからないもので何かあったら、お父さんに会う前に余計なことになっちゃう。そんなとこ見せたら怒られる」
野火 太一が笑った。ニャえもんも、何かが緩んだ。
「賢いな」ニャえもんは言った。
「そうでもない」弥助は言った。「でも、もうちょっと生きてみる」
弥助が帰っていった。小さな背中が、村の中に消えた。
六
その夕方、五人は村を出た。母親が食料を持たせてくれた。
歩きながら、野火 太一はニャえもんの隣に来た。
「昨夜のこと、話してくれてよかった」
「隠したら、また一人で抱えることになる」
二人は並んで歩いた。夕闇の中で、ニャえもんのグレーの体が、少しずつ暗くなっていった。野火 太一は思った。大丈夫だ。ニャえもんはわかっている。俺がいる、と。
七
翌日の昼過ぎ、山道を歩いていた時、須根 夫介が立ち止まった。
「待て。人が来る。多い。街道側から」
野火 太一はニャえもんを木の陰に隠し、道に残った。
現れたのは信長の兵、十人ほどの一団だった。武が前に出て、歌った。山の中に、武の声が響いた。震えていたが、その震えが却って声に深みを加えていた。
「……行け」先頭の兵が言った。「邪魔した」
兵たちが去った。武がその場にしゃがみ込んだ。
「脚が、震える」
「よくやった」須根 夫介は言った。
木陰からニャえもんが出てきた。五人がまた揃った。
八
その夜、山の中で火を囲んだ。
武が「俺、本当に小心者なんだ。追い詰められるから歌うだけで」と言うと、ニャえもんが言った。
「追い詰められた時に歌える者は、少ない。普通は声が出なくなる」
武はしばらく火を見ていた。
「……ニャえもんって、時々すごいこと言うよな。ありがとな」
やがて一人また一人と眠りについた。野火 太一とニャえもんだけが、火の前に残った。
「弥助のお母さんが言ってたこと、俺も思う。いてくれるだけで、違う」
「そうか。ならいる。ずっと」
「ずっといてくれ」
「ああ」
野火 太一は目を閉じた。ニャえもんがそばにいる。それだけで眠れた。
九
翌朝、また歩き始めた。
「変わりない」ニャえもんは言った。
「よかった」野火 太一は言った。
「お前が毎朝、変わりないかと聞くだろう」
「うん」
「わたしも。毎朝、変わりないと答えられることが、嬉しい」
「嬉しい、って言えるようになったな」
「お前たちといると、わかってくる。感覚の名前が」
五人は山道を、北へ向かって歩き始めた。ニャえもんは約束を守っている。俺もそばにいる。それが続けば——野火 太一はそう思いながら歩いた。
十
それは、次の夜のことだった。
山の中で野宿した。光る石が五人を照らしていた。全員が眠った。ニャえもんだけが起きて、空を見ていた。
ニャえもんは野火 太一の寝顔を見た。
(この顔を、守りたい)
その時、ニャえもんは立ち上がった。誰も起こさないように、静かに、小屋の外へ出た。開けた場所に立った。
胸の収納庫を開いた。バンブーコプターを取り出した。手のひらの上に乗せて、少し見た。
それから、頭に乗せた。
カチッ、と音がした。プロペラが、回り始めた。ニャえもんの体が、浮いた。ゆっくりと。地面から一尺ほどの高さで、止まった。
星が出ていた。ニャえもんの丸い目に、星が映っていた。バンブーコプターの回転音だけが、低く、静かに、夜気に溶けていた。月明かりがニャえもんの体を照らした。グレーの体が、うっすらと光って見えた。
野火 太一が目を覚ました。外に出ると、ニャえもんが浮いていた。息を呑んだ。綺麗だった。おそろしく、綺麗だった。
ニャえもんが野火 太一に気づいた。ゆっくりと降りた。バンブーコプターが止まった。足が地面に触れた。
「起きていたのか」
「うん。……飛べたのか」
「試してみた。わたしには使えた」
野火 太一はバンブーコプターを見た。
「俺も、やってみたい」
ニャえもんの手が止まった。
「だめだ。人間が使えるかどうか、まだわからない」
「でも——ニャえもんが飛べるなら、空から信長の軍を——」
「だめだ。野火 太一には、絶対に渡さない」
野火 太一は黙った。ニャえもんはバンブーコプターを胸の収納庫にしまった。
二人は戻った。野火 太一は横になった。眠れなかった。頭の中に、ニャえもんが浮かぶ映像があった。綺麗だった。飛べるかもしれない、と思った。人間が使えるかどうか、まだわからない。でも——ニャえもんが飛べたなら、もしかしたら——。
十一
深夜。
ニャえもんは起きていた。全員が眠っていた。野火 太一が寝返りを打った。眠ったままで、腕を動かした。その腕が、ニャえもんの胸に当たった。
ニャえもんは体勢を崩した。よろめいた。胸の収納庫が、開いた。
収納庫から、何かが転がり出た。ニャえもんの手が伸びた。間に合わなかった。野火 太一の上に、それは落ちた。野火 太一の手が、眠ったまま動いた。眠りの中で何かに触れた手が、反射的に握った。
あるいは——目を覚ました野火 太一が、それを握ったのかもしれない。眠りの中で「あの綺麗さ」を夢に見て、手が動いたのかもしれない。どちらでも、結果は同じだった。
野火 太一が目を覚ました。手の中に、バンブーコプターがあった。目が大きくなった。
「ニャえもん、これ——」
「離せ」ニャえもんは言った。「今すぐ離せ——」
野火 太一が手を開こうとした。体を起こそうとして、手が動いた。バンブーコプターが、野火 太一の頭の方へ、動いた。
「——待て」ニャえもんが言った。
間に合わなかった。
カチッ、と小さな音がした。装着された。野火 太一の目が、ニャえもんを見た。ニャえもんの目に、野火 太一が映っていた。
一瞬だった。バンブーコプターが、回った。
欠陥というのは、知らない者に最も残酷に作用する。ニャえもんが使えた。綺麗だった。だから自分も使えると思った。その考えは、人間には適用されなかった。悪意はなかった。知識がなかっただけだ。しかし知識がないことは、悪意と同じ結果をもたらすことがある。
音は、なかった。音があるとすれば、バンブーコプターの回転音だけだった。
須根 夫介が目を覚ました。武が飛び起きた。静香が声を上げた。ニャえもんは、動かなかった。野火 太一の手を、握っていた。
野火 太一は、動かなかった。野火 太一の首が180度回って後ろを向いていたのであった。
十二
ニャえもんは、野火 太一を見ていた。見続けていた。声が、出なかった。
武が何かを言っていた。静香が泣いていた。須根 夫介が野火 太一に手を当てて、何かを確認して、首を横に振った。
それがどういう意味かは、わかった。でも、ニャえもんは動けなかった。
野火 太一が、眠ったままのような顔をしていた。苦しんだ顔ではなかった。さっきまで「変わりない」と言うために目を覚ます顔だった。「ニャえもん、大丈夫か」と聞く顔だった。「信じる」と言う顔だった。それが、動かなかった。
ニャえもんの胸の中で、何かが、割れた。割れる音がした。音ではないかもしれない。でもニャえもんには、確かに聞こえた。
武が泣いていた。静香が泣いていた。須根 夫介は泣いていなかった。でも顔が、石のようになっていた。
ニャえもんは、誰の声も聞こえなかった。野火 太一しか、見えなかった。
どのくらい時間が経ったか、わからない。
ニャえもんの体に、変化が起きた。指先から、それは始まった。グレーだった色が、変わり始めた。赤くなった。指先から、手のひらへ、腕へ、体へ、首へ、顔へ。じわじわと、赤くなった。
武が気づいた。「ニャえもん」と言った。ニャえもんは、野火 太一だけを見ていた。
赤が、全身に広がった。目が、変わった。赤みがかった丸い目が、深い、暗い赤になった。武が一歩後ずさった。静香が耳を塞いだ。須根 夫介が、一歩引いた。
ニャえもんが立ち上がった。赤い体が、夜の山の中に立った。目が、周囲を見た。武を見た。静香を見た。須根 夫介を見た。それから、野火 太一を見た。最後に、野火 太一を見た。
ニャえもんが、動いた。歩いた。山の奥へ、歩いた。
「待て」と武が言った。ニャえもんは止まらなかった。
「ニャえもん!」武が叫んだ。止まらなかった。赤い体が、暗い山の中に消えていった。
十三
夜が明けた。野火 太一は動かなかった。三人が残った。
武は泥の中に座っていた。須根 夫介は木に背中を当てて目を閉じていた。静香は野火 太一の隣で、ずっと手を握っていた。
誰も言葉を出さなかった。朝の光が、山の木々の間から差し込んできた。鳥が鳴いた。その声が、おそろしく、普通だった。
須根 夫介がついに口を開いた。
「ニャえもんを——」
その時だった。木々の向こうで、何かが動いた。重い、確かな足音だった。三人が同時に振り返った。
赤かった。全身が赤いニャえもんが、木の陰から出てきた。目が、暗い深紅だった。燃えているような、それでいて空洞のような、怖ろしい目だった。
武が立ち上がった。「ニャえもん。俺だ。武だ」
ニャえもんは止まらなかった。ゆっくりと、しかし確実に、近づいてきた。
須根 夫介が武の前に出た。「待て。ニャえもん、わかるか。須根だ」
ニャえもんの目が須根 夫介を見た。見て——通り過ぎた。その目に、須根 夫介は映っていなかった。
胸の収納庫が、音を立てて開いた。
「まずい」須根 夫介は言った。「逃げろ」
武が叫んだ。「静香!」
静香が立ち上がりかけた瞬間、ニャえもんの手から縄が放たれた。自縛の縄だった。縄が静香の足に絡みついた。静香が倒れた。
「静香!」武が駆けた。縄を掴もうとしたが、縄は武の腕にも巻きついた。
須根 夫介が素早く太い枝を拾い、縄と武の腕の間に割り込ませてこじった。縄が離れた。武が静香を引き起こした。
三人が距離を取った。ニャえもんがまた動いた。赤い体が、朝の光の中に浮かびあがった。
「走れ」須根 夫介は言った。「別々に。三方向に散れば、全員を同時には追えない」
三人は散った。武は南へ。静香は東へ。須根 夫介は北へ。
ニャえもんはしばらく、三人が消えた方向を順番に見た。それから——東へ向かった。静香の方へ。
十四
静香は走った。記憶のない足が、それでも走り方を覚えていた。木の根を避け、傾斜を読み、息を切らしながら走った。後ろから、重い足音が聞こえた。近づいてくる。
静香は転んだ。斜面の石に足を取られた。手をついた。立ち上がろうとした。振り返った。赤いニャえもんが、すぐそこにいた。
目が合った。静香は、ニャえもんの目を見た。暗かった。深かった。しかしその奥の、もっと奥に——何かが、まだあった。
「ニャえもんさん」静香は言った。ニャえもんの手が、止まった。
「わたしのことが、わかりますか」
ニャえもんは動かなかった。
「静香です」静香は言った。声が震えていた。「ニャえもんさんに、『道具が欠陥品でも、ニャえもんさんが欠陥品なわけじゃない』と言った者です。覚えていますか」
長い沈黙だった。ニャえもんの目が、かすかに変わった。暗さの中に、一瞬だけ、違う光が宿ったように見えた。
それから——ニャえもんは踵を返した。静香から離れ、山の奥へ、歩き始めた。木々の中に消えた。
静香はしばらく動けなかった。やがて立ち上がった。手のひらの傷から血が出ていた。泣かなかった。ただ——深く、息を吐いた。
第四話「赤」 了
色について。グレーは中立を意味する色である。赤は怒りを意味する色である。ニャえもんがグレーから赤に変わった経緯については、第四話を読めばわかる。ただし「なぜ色が変わったのか」という技術的な問いへの答えは、どこにも書かれていない。欠陥品は説明書を持っていない。人間も同様である。




