第二話「ニャえもん道具」
一
それは、転移から二日目の朝のことだった。
五人は廃屋を出て、森の入り口まで歩いていた。信長の兵が近づいているという話が集落に流れており、須根 夫介が「念のため、使える道具があるなら把握しておくべきだ」と言ったのだ。
ニャえもんの道具確認、その最初の日だった。
ニャえもんが胸の収納庫に手を入れた。
最初に出てきたのは、ドアだった。
ドアだった。
本当に、ドアだった。
縦七十センチ、横四十センチほどの、ピンク色のドアが、ニャえもんの手のひらの上に乗っていた。小さかった。でも確かに、ドアの形をしていた。ドアノブがあり、蝶番があり、どう見てもドアだった。
「……なんだこれ」武が言った。
「ドアだ」ニャえもんは言った。
「なんで道具の中にドアが入ってるんだ」
「わからない」
野火 太一はそのドアを見た。
知っていた。
漫画の記憶から、知っていた。でも正確な数値までは覚えていなかった。記憶というのは不親切なもので、「ヤバいやつ」という情報だけを残して、詳細を抜き落とすことがある。
「野火 太一」須根 夫介が言った。「お前の顔が、少し青い」
「……そうかもしれない」
「知ってるのか、それを」
「知ってる」野火 太一は言った。「どこでもドア、という道具だ。本来は、開いた先に行き先を指定して、どこにでもつながるドアになる」
「どこにでも?」武が目を丸くした。「今すぐ江戸に行けるのか」
「本来は、そういう道具だ」野火 太一は言った。「ただ……」
「ただ?」
「欠陥があるかもしれない。だから、まず確認しよう。ニャえもん、どこにつながるか、わかるか」
「わからない」ニャえもんはドアを見た。「ただ……手のひらに乗っているが、大きくなる気がする。置けば、扉として使えるようになる気がする」
「置かないでくれ」野火 太一は即座に言った。
「なんで」武が言った。「便利じゃないか。どこかへの出口があれば——」
「待ってくれ」野火 太一は言った。「考える時間をくれ」
野火 太一が考えている間、ニャえもんはドアをじっと見ていた。
須根 夫介が野火 太一の横に来た。
「気圧の問題か」須根 夫介は小声で言った。
野火 太一は驚いて須根 夫介を見た。
「なんでわかった」
「お前の顔と、『どこにでもつながる』という情報を合わせれば、おのずと」須根 夫介は言った。「もし行き先の気圧が異なる場所につながった場合、ドアを開けた瞬間に気圧差が開放される」
「そうだ」
「どのくらいの差が出うる」
野火 太一は思い出そうとした。思い出せなかった。
「正確には覚えてない。でも、ものすごく危ないとは知ってる」
「定量的に教えてくれ」須根 夫介は言った。「危ない、では判断できない」
須根 夫介は少し間を置いた後、自分で考え始めた。理屈が頭の中で自然に動くことを、須根 夫介は知っていた。記憶はない。でも体の奥底に染み付いた何かが、勝手に動き始めた。
「高い山の上は、地上より気圧が低い。山頂では平地の三分の一程度になる、という感覚がある。そこにつながれば、ドアを開けた瞬間に気圧差が解放される」須根 夫介は続けた。「正確には計算できないが——風速は間違いなく、人間が吹き飛ぶ水準になる」
その時、ニャえもんがドアを地面に置いた。
全員が止まった。
「ニャえもん!」野火 太一が叫んだ。
ドアが、立った。
一瞬だった。手のひら大だったドアが、人が通れる大きさに変わった。縦百八十センチ、横九十センチほどの、本物のドアが、森の入り口に突然立っていた。
ドアノブが、勝手に回った。
「まずい」須根 夫介が言った。
ドアが、開いた。
音が来た。音ではなかった。それは風だった。ドアの向こうから、信じられない速さで空気が押し寄せてきた。
武が吹き飛んだ。五歩、いや十歩。そのまま茂みに突っ込んだ。
野火 太一は本能的に木の幹に掴まった。腕が引きちぎられそうだった。
静香は須根 夫介の腕を掴んでいた。須根 夫介は地面に這いつくばっていた。
ニャえもんは——動かなかった。ロボットの体重が、辛うじてその場に踏みとどまらせていた。
三秒か四秒か。
風が止まった。
全員が、呆然と立っていた。
ドアは、また閉じていた。
二
武が茂みから這い出してきた。全身に枯れ葉がついていた。
「……今、何が起きた」武は言った。
「気圧差だ」須根 夫介は言った。立ち上がりながら、淡々と言った。「ドアを開けた瞬間に、差が解放された。正確な数値はわからないが——人間が吹き飛ぶ水準の風速だった。俺の体がそれを知っていた」
「そんな計算、どこで」
「頭が覚えていた」須根 夫介は言った。「記憶はないが、体の中に染み付いたものがある。それだけだ」
沈黙があった。
「……お前、今その計算、全部頭でやったのか」武が言った。
「おおよそ」須根 夫介は言った。「ただし間に合わなかった。計算が終わったのと、ドアが開いたのが同時だった」
野火 太一は木の幹を離れた。腕が震えていた。
ニャえもんがドアに近づいた。
「ニャえもん」野火 太一は言った。「それに触るな」
「しまう」ニャえもんは言った。「置いてしまった。わたしのミスだ」
ニャえもんはドアに手を触れた。ドアは、また手のひら大に戻った。胸の収納庫に、静かに戻っていった。
全員が、それを見ていた。
三
しばらく、誰も何も言わなかった。
「ごめん」ニャえもんは言った。「確認せずに置いた。行き先がどこかを確かめる方法があるかもしれないと思った。でも——間に合わなかった」
「怪我はないか、皆」野火 太一は言った。
武が手足を確認した。「ない。あるのは驚きだけだ」
静香が顔色を確認した。青かった。でも怪我はなかった。
「須根 夫介くん」静香は言った。「大丈夫?」
「大丈夫だ」須根 夫介は言った。それから少し間を置いた。「ただ……あのドア、行き先をコントロールできれば、使い道がある。気圧差という欠陥は致命的だ。しかし——もし相手の城の中につないで、外から開ければ、城の内側から爆風を吹き込める」
「それ」武はゆっくり言った。「武器じゃないか」
「欠陥品の正しい使い方かもしれない」須根 夫介は言った。「ただし、行き先をコントロールできることが前提だ。今は、できない」
「できないなら、意味がない」野火 太一は言った。「できるようになるまで、しまっておく。絶対に使わない」
須根 夫介は野火 太一を見た。
「同意する」須根 夫介は言った。「今は。ただし——可能性として、覚えておく」
ニャえもんは自分の胸を押さえた。
「わかった」ニャえもんは言った。「このドアは、使わない。野火 太一と約束する」
「うん」野火 太一は言った。「二人で守ろう」
どこでもドアは、その後も胸部収納庫の中で静かに眠り続けた。行き先をコントロールする方法が最後まで見つからなかったからだ。道具というのは、使えない状況では役に立たない。これは欠陥品に限らず、全ての道具に共通する事実である。
四
三日が経った。
丘の上の廃屋は、四人と一体の仮の住処になっていた。集落から持ち帰った食料が尽きかけていた。武が毎日歌いに行き、その都度何かをもらってきた。粟、干し魚、芋。それで辛うじて生きていた。静香は集落の女たちに混じって機織りを手伝い始めた。記憶はなくても手が動く、と彼女は言った。手が覚えているものは記憶より深いところにある、と須根 夫介が言った。
須根 夫介は毎朝、集落の長老と話した。帰りには必ず何らかの情報を持ち帰った。近隣の勢力図。街道の位置。水の手。次に戦が起きそうな場所。それらを須根 夫介は頭の中で組み立て、次の朝また集落へ下りていった。
野火 太一はニャえもんのそばにいた。
これは意識的な選択だった。ニャえもんが胸の収納庫に手を入れるたびに、野火 太一は傍らにいた。どんな道具が出てきても、まず自分が見て、考えて、それから判断する。そう決めていた。
ニャえもん自身は、自分の道具に深い関心を持ちながら、同時に深い不安を持っていた。あのどこでもドアの一件以来、新しい道具を取り出すことに、ためらいが生まれていた。
「また確認しよう」野火 太一は毎日言った。
「今日は出さなくていい」ニャえもんは毎日答えた。
そのやり取りが三日続いた。
四日目の朝、武が戻ってきた顔が違った。
「軍勢が来る」武は言った。その声が、わずかに震えていた。「信長の兵だ。集落の近くまで来てるって、長老が」
「どのくらいで来る」
「わからない。でも、もう遠くないらしい」
須根 夫介が物陰から静かに出てきた。
「移動する必要があるかもしれない」須根 夫介は言った。「北に山がある。森が深い」
「森に入るのか」武は渋い顔をした。「熊とか出ないか」
「この時代の熊より信長の兵の方が、われわれには危険だろう」
武はそれ以上何も言わなかった。
五
北の森の入り口で、五人は立ち止まった。
木々が密生し、昼でも薄暗い。鳥の声がした。風の音がした。それ以外は、静かだった。
「ここでやろう」野火 太一は言った。
全員が円になった。ニャえもんが中心に立ち、胸の収納庫を開いた。
「何が入っているか、順番に出す」ニャえもんは言った。「ただし、すぐには使わない。見るだけ」
最初に出てきたのは、光る石だった。小さな石で、手のひらに乗る大きさ。それ自体が淡く白く光っていた。暖かくなる気がするとニャえもんは言った。欠陥は明かりとして使うには暗すぎること、それだけだった。
次に出てきたのは、小さな笛だった。吹くと聞いた人の怒りが消える気がするとニャえもんは言ったが、吹き続けると吹いた本人の気持ちも変わるかもしれないという。使用は最終手段にすることにした。
次が丸い鏡だった。遠くの場所を映すが、見たい場所を指定できないかもしれない。情報収集に使える可能性はあるが、保留とした。
次に細い縄が出てきた。自分で動き、縛ると双方から離れなくなるという。一方が死ぬまで離れない可能性もある。使用禁止とした。
なんでもない石ころが出た。用途不明のため要観察とした。
また別の笛が出た。吹くと双方が眠くなるという。却下とした。
六
七つ目が出てきた時、場の空気が変わった。
バンブーコプターだった。小さな竹とんぼのような形。プロペラが二枚。手のひらに乗る大きさ。頭につけると飛べる、らしかった。
「欠陥は?」須根 夫介が聞いた。
「わからない」ニャえもんは言った。「試したことはない」
「人間が使うとどうなる」
「わからない」
「武も飛んでみたいな」武は言った。「でも……」
「わかっている」武は言った。「欠陥がわかるまで待つ」
須根 夫介が言った。「まず使わない。道具の性質がわかるまでは、慎重にするのが原則だ」
「わかった」
ニャえもんはバンブーコプターを見た。
「しまっておく」ニャえもんは言った。「性質がわかるまでは」
「うん」野火 太一は言った。「それがいい」
七
バンブーコプターを胸の収納庫にしまい直し、ニャえもんは蓋を閉じた。
「整理しよう」須根 夫介が言った。「使える可能性があるもの:光る石、遠見の鏡、バンブーコプター(人間への適用は未確認)。使用慎重:笛(感情を鎮める、ただし使い手も影響を受ける)。使用禁止:自縛の縄、眠り笛。要観察:謎の石ころ」
「不良品ばかりだな」武は言った。
「欠陥があるとわかっている分、まだいい」須根 夫介は言った。「わかっていれば、対処できる」
野火 太一はニャえもんを見た。ニャえもんは自分の胸の収納庫を、両手で静かに押さえていた。その目が、伏せられていた。
「ニャえもん」
「……大丈夫」ニャえもんは言った。しかしその声は、少し違った。「ただ、考えていた。わたしの中にあるものは、全部、誰かを傷つけるかもしれない。光る石だって、暖かくなりすぎたら火事になるかもしれない。鏡も、縄も、笛も——バンブーコプターだって、人間が使ったらどうなるかまだわからない」
「ニャえもん」
「わたしは、危ないものを胸の中に抱えて生きている」
野火 太一は何も言えなかった。
静香が立ち上がり、ニャえもんの前に座り直した。
「ニャえもんさん」静香は言った。「危ないものを持っているのは、ニャえもんさんだけじゃないと思う」
「どういうことか」
「わたしたちだって」静香は言った。「何が得意で何が危ないか、まだよくわからない。須根 夫介くんの頭の良さは、使い方次第で怖いものになるかもしれない。武くんの歌は……今は良い方向に使われてるけど、絶対そうとは限らない。道具だって、人だって、使い方次第だと思う。だからニャえもんさんの道具が欠陥品でも、ニャえもんさんが欠陥品なわけじゃない」
ニャえもんは静香を見た。長い時間、見た。
「静香」ニャえもんは言った。
「はい」
「ありがとう」
八
その日の午後、五人は北の城へ向けて動くことを決めた。
森を抜け、街道を避け、山の尾根に沿って北へ歩いた。
武が先頭を歩いた。小心者の巨体が、でも一番前を歩いた。その後ろに須根 夫介、静香、野火 太一の順で続き、最後尾にニャえもんが歩いた。
歩きながら、野火 太一はニャえもんと並んだ。
「ニャえもん、昨夜、飛んでいた時……どんな気分だった」
ニャえもんは少し考えた。
「飛んだことは、まだない」ニャえもんは言った。「でも——飛べるとしたら、どんな感じだろうと、考えていた。広いかもしれない。地面から離れると、全部が遠くなるかもしれない」
「いつか試したいか」
「……試したい」ニャえもんは言った。「でも今は歩く」
「今は歩く、か」
「お前たちと歩いている方が、今は好きだ」
野火 太一は少し笑った。
「そうか」
山の稜線の向こうに、夕日が沈み始めていた。空が赤く染まった。ニャえもんがその空を見た。赤い空を見るニャえもんの目が、何かを映していた。野火 太一には、それが何かはわからなかった。ただ、今はここにいる。今は一緒に歩いている。それだけが、確かなことだった。
九
夜、尾根の上で野宿した。
火は起こせなかった。光る石を使った。ニャえもんが胸から取り出し、五人の真ん中に置くと、淡い白い光と、かすかな暖かさが広がった。
「本当に暖かくなるんだ」武が驚いた声を出した。
「欠陥のない道具もある」須根 夫介は言った。
静香が笑った。小さな、静かな笑いだった。
「笑えるようになったね」野火 太一は言った。
「……そうかな」静香は言った。少し驚いたように。
「うん」
静香はまた少し笑った。今度は自分でも気づいていた。
「ここに来てから、ずっと怖かった」静香は言った。「でも今日、ニャえもんさんに話したら、少し楽になった。記憶がなくて、自分が何者かわからなくて、何ができるかもわからない。でも……それでも、ここにいられる。皆と話せる。それって、十分なことかなって」
須根 夫介が珍しく、じっと静香を見ていた。
「静香」須根 夫介は言った。
「はい」
「お前の言葉は、時々、刺さる」
「……刺さる?」
「的を射ている、という意味だ」
静香はまた笑った。
十
野火 太一は眠る前に、空を見た。おそろしく多くの星だった。隣でニャえもんが静かに座っていた。
「ニャえもん」野火 太一は小声で言った。
「なに」
「バンブーコプター……人間が使ったらどうなるんだろうな」
「わからない」ニャえもんは言った。「急がなくていいと思う。今は他にやることがある」
「そうだな」野火 太一は言った。「急がなくていいか」
ニャえもんは頷いた。
光る石が、淡く五人を照らし続けた。夜は深く、静かで、星だけが動いていた。
翌朝、尾根から北の城が見えた。小さな山城だった。信長の大軍と比べれば、か弱いほどの城。でも、今の五人には、その小さな城が、途方もなく大きく見えた。
「行くか」須根 夫介が言った。
「行く」野火 太一は言った。
武が大きく息を吸った。
「行くぞ」武は言った。その声に、いつもの怯えは薄かった。
五人は——四人と一体は——尾根を下り始めた。
ニャえもんの胸の収納庫の中で、バンブーコプターが静かに眠っていた。誰も、その本当の危険を知らなかった。知らないまま、歩いた。知らないまま、城へ向かった。そして——知らないまま、あの夜を迎えることになる。
第二話「ニャえもん道具」 了
胸部収納庫の中身について。設計書によれば全ての道具は「子供の夢を叶えるため」のものだったとされている。設計書は存在しないが、仮に存在したとすれば、そう書いてあったはずだ。現実の道具は「使えば縛られて死ぬもの」「吹けば両者が眠るもの」「人間が装着すれば首が回転するもの(ロボットは問題ない)」であった。夢と現実の距離は、時に首一本分ある。ただしロボットの首は太い。




