第一話「異邦人たち」
一
目が覚めた時、空が見えた。
知らない空だった。
雲の形が違う、というわけではなかった。空は空だった。ただ——広すぎた。ビルがなかった。電線がなかった。飛行機雲もなかった。ただ青い空が、どこまでも続いていた。
野火 太一は起き上がった。
頭が痛かった。体のあちこちが痛かった。何かにぶつかったような、全身を絞られたような、説明のつかない痛みだった。
立ち上がって、周囲を見た。
草原だった。
背の高い草が風に揺れていた。その向こうに、森があった。山があった。遠くに、何かの建物の屋根が見えた。瓦葺きだった。形が——現代のものではなかった。
(ここは)
野火 太一は思った。
(どこだ)
草の中に、人が倒れていた。
一人ではなかった。
三人と、一体が、散らばって倒れていた。
野火 太一は頭を振った。痛かった。それでも、倒れている者たちのそばに歩いていった。
歩きながら、野火 太一は気づいた。
記憶がある。
全部ある。
現代日本の記憶が、丸ごと残っている。学校のこと、家のこと、街のこと。転移した直前の記憶も。突然空間が歪んだこと。光が来たこと。引っ張られるような感覚があったこと。
なぜ自分だけ記憶が残っているのかは、わからなかった。
ただ、残っている。それだけは確かだった。
一番近くにいたのは、武だった。
雷岸 武。
野火 太一は武の顔を見て、少し足が止まった。
同じ学校の二年生だった。体が大きく、肩幅が広く、顔つきが鋭かった。廊下ですれ違うだけで、野火 太一はいつも少し緊張した。武は野火 太一に直接何かをしたわけではなかったが、武の取り巻きが野火 太一をからかうのを、武は笑って見ていた。それで十分だった。野火 太一が武を好きではない理由として。
でも今は、そういう話ではなかった。
「武」野火 太一は声をかけた。
武が目を開けた。ぼんやりとした目が、野火 太一を見た。
「……誰だ」武は言った。
「野火 太一。同じ学校だ」
「野火……」武は繰り返した。顔に、何も浮かばなかった。「ここ、どこだ」
「わからない」
「俺は、誰だ」
野火 太一は止まった。
「雷岸 武。それが、お前の名前だ」
「雷岸 武」武は自分の名前を繰り返した。口の中で確かめるように。「……そうか。雷岸 武か」
武が起き上がろうとして、よろめいた。野火 太一が腕を支えた。武は自分の両手を見た。それから野火 太一を見た。
「記憶がない」武は言った。「名前しかわからない」
「そうか」野火 太一は言った。
「お前は?記憶があるのか」
「ある」
「なんで」
「わからない」
武はしばらく野火 太一を見ていた。転移前であれば、この状況でも野火 太一を馬鹿にするような何かを言ったかもしれなかった。でも今の武の目には、そういうものが何もなかった。ただ、混乱と、静かな怯えだけがあった。
「……そうか」武は言った。それだけだった。
次に起き上がったのは、須根 夫介だった。
目を開けた瞬間から、周囲を確認する動作が素早かった。感情が顔に出なかった。野火 太一が「名前を知っているか」と聞くと、「須根 夫介」と即座に答えた。
「記憶は」
「ない」須根 夫介は言った。「名前だけだ」
「そうか」
「お前は?」須根 夫介は野火 太一を見た。「記憶があるような顔をしている」
「ある」
「全部か」
「全部だと思う」
須根 夫介は少し目を細めた。
「それは、大きな違いだ」須根 夫介は言った。感情なく、事実として言った。「俺たちより、お前の方が情報を持っている」
「そうなるな」
「なら、頼む」
あっさりしていた。見栄も意地もなかった。記憶がないせいで、転移前の須根 夫介が持っていたであろう——金持ちの家の子らしい、どこか鼻につく態度も、この瞬間は消えていた。
野火 太一は少し不思議な気がした。
記憶がなくなると、人間はこんなに素直になるのか、と。
静香は、三人の中で一番遅く目を覚ました。
長い黒髪が草の上に広がっていた。目を開けて、しばらく空を見ていた。それから、ゆっくりと起き上がった。
野火 太一は静香の顔を知っていた。
静香。名前もよく知っていた。
同じクラスではなかったが、学校の中では目立つ存在だった。顔立ちが整っていて、誰に対しても穏やかで、でも芯の強さがある、そういう女子だった。野火 太一のような怠け者の男子が、遠くから一方的に知っているだけの存在だった。
「静香」野火 太一は声をかけた。
静香が野火 太一を見た。
「……わたし、誰ですか」静香は言った。
野火 太一は少し驚いた。静香も記憶がなかった。
「静香だ。静香という名前だ」
「静香」静香は繰り返した。口の中で転がすように。「……うん。そんな気がします。静香、っていう感じがする」
「よかった」
「あなたは」静香は野火 太一を見た。「記憶がある人ですか」
「そうだ。野火 太一という」
「野火 太一さん」静香は言った。「よろしくお願いします」
状況がわかっていないはずなのに、静香の声は落ち着いていた。野火 太一はそれが少し不思議だった。
静香はもともと、こういう人間なのかもしれなかった。
二
一体は、最後に目を覚ました。
グレーの体だった。
猫の形をしていた。頭が丸く、耳はなく、丸い目が青かった。胸のあたりが、少し光っていた。
それが立ち上がった時、三人が静まった。
武が一歩後ずさった。
「……なんだ、これ」武は言った。声が低くなっていた。
「仲間だ」野火 太一は即座に言った。
「仲間?」
「たぶん」
「たぶん、って」
一体は周囲を見た。ゆっくりと、確かめるように。三人の顔を順番に見て、最後に野火 太一を見た。
「……わたしは、何者だ」一体は言った。
「ニャえもん、という気がしないか」野火 太一は言った。
一体はしばらく考えた。
「……ニャえもん」一体は繰り返した。「そう言われると、そんな気もする」
「じゃあ、ニャえもんだ」
「そうかもしれない。ぼくニャえもん」
野火 太一はニャえもんを見た。
見覚えがあった。
小さい頃、よく読んでいた漫画のキャラクターに、よく似ていた。青くはなくグレーで、完全に同じではないけれど——耳のない丸い頭、胸の収納庫、その形が、頭の中の記憶と重なった。だとすれば、この体の中に何が入っているかも、大体わかる。
知っているが、今は言えなかった。
ニャえもんが自分の体を見下ろした。丸い手を開いて、閉じた。胸の光を確かめるように手で触れた。
「ぼくは」ニャえもんは言った。「どうも、みんなと違う形をしているようだ」
「そうだな」野火 太一は言った。
「迷惑か」
「迷惑じゃない」野火 太一は言った。
武がまだ少し警戒した目でニャえもんを見ていた。須根 夫介は無表情のまま観察していた。静香は——ニャえもんをまっすぐ見て、少し微笑んだ。
「ニャえもんさん」静香は言った。「よろしくお願いします」
ニャえもんは静香を見た。
「よろしく」ニャえもんは言った。どこかぎこちない言い方だったが、確かにそう言った。
三
四人と一体で、草原の端に移動した。
森の入り口に近い、風が当たりにくい場所に腰を下ろした。
須根 夫介が最初に言った。
「状況を整理したい」
「そうだな」野火 太一は言った。
「俺たちは転移した。どこかから、ここへ」須根 夫介は言った。「それは全員の共通認識でいいか」
「転移って何だ」武は言った。
「別の場所から、瞬間的に移動した」須根 夫介は言った。「原因はわからない。でも、ここが現代日本でないことは、あの屋根を見ればわかる。建築様式が違う。電線も舗装道路も見えない。俺の判断では、戦国時代かそれに近い時代だと思う」
「戦国時代」武は繰り返した。声が、低かった。
「野火 太一」須根 夫介は言った。「お前は何を知っている」
「大体のことは知っている」野火 太一は言った。「ただ——全部じゃない」
「大体でいい。教えてくれ」
野火 太一は話した。
ここが戦国時代であること。信長の勢力がこの地域にも及んでいる可能性があること。危険があること。今夜の寝床を確保しなければならないこと。
話しながら、野火 太一は自分でも少し不思議だった。
普段の野火 太一は、こういう場面で人前に立たない。言い出しっぺになんてならない。何かを決める役回りを、いつも誰かに押しつけてきた。怠け者で、ボンクラで、目立つことが嫌いだった。
でも今は、誰かが言わなければならなかった。
それだけだった。
「ニャえもんは目立つ」須根 夫介は言った。「集落に近づく時は、ここで待ってもらう必要があるかもしれない」
「わかった」ニャえもんは言った。あっさりと。
「嫌じゃないか」静香が言った。「一人で」
「嫌かどうかが、まだわからない」ニャえもんは言った。「ただ——皆が戻ってくるなら、待てる」
「戻ってくる」野火 太一は言った。「必ず」
四
集落は、歩いて半刻ほどの場所だった。
街道に出た。土の道だった。轍があった。
農民らしき人間が通りかかった。野火 太一たちを見て、一瞬固まった。現代の衣服は、この時代の目には異様に映るはずだった。
「すみません」野火 太一は言った。「旅の者です」
「……どちらから」
「南の方から」野火 太一は言った。適当に。
農民は何かを言いたそうな顔をしたが、去った。
須根 夫介が野火 太一に小声で言った。「今、何年だ。確かめろ」
集落で、長老らしき老人を見つけた。野火 太一が話しかけ、地名を聞き、それとなく年号を確かめた。
「信長の時代だ」野火 太一は小声で言った。
武が野火 太一を見た。
「信長って、あの信長か」
「そうだ」
「マジか」
「マジだ」
武はしばらく黙った。転移前の武であれば、こういう場面でもどこか余裕ぶった態度を見せたかもしれなかった。でも今の武には記憶がない。虚勢を張る材料が、何もなかった。
「……どうすればいい」武は言った。素直に、野火 太一に聞いた。
野火 太一は少し面食らった。
武に頼られる日が来るとは、思っていなかった。
「今夜の寝床を探す」野火 太一は言った。「それだけ考えよう」
集落で廃屋を紹介してもらった。
丘の上の、壁が三方しかない小屋だった。長らく使われておらず、中に枯れ葉が積もっていた。でも屋根はあった。
「ここにしよう」野火 太一は言った。
「ここか」須根 夫介は言った。眉をわずかに動かした。記憶はなくても、どこかに染み付いたものがあるのか——贅沢に慣れた体の感覚が、この場所を拒否しようとしているように見えた。「……まあ、仕方ないな」須根 夫介は言った。一秒後に言った。「今夜は」
武は何も言わなかった。黙って中に入り、枯れ葉を足で払い、座った。
静香は中を見て、「ここで十分です」と言った。
五
ニャえもんを連れてきた。
全員が廃屋に集まった。
夜が来た。
虫の声がした。星が出た。
野火 太一は空を見た。
広すぎた。ビルも電線も何もない空が、上から押しつぶしてくるような気がした。
「変な空だ」武は言った。隣に座って、同じ空を見ていた。
「そうだな」野火 太一は言った。
「怖いのか、俺」武は言った。自分に確認するように。「怖い、という感覚がある。これが怖いということなのか」
「たぶんそうだ」
「記憶がないと、自分の感情の名前もわからない」武は言った。「変な感じだ」
「怖くて当然だと思う」野火 太一は言った。
「お前は怖くないのか」
「怖い」野火 太一は言った。
「記憶があっても怖いのか」
「ある方が、もっと怖いこともある」野火 太一は言った。「何がこれから起きるかを、少し知っているから」
武はしばらく野火 太一を見た。
「……お前、俺のこと知ってるか。転移前の」
野火 太一は少し間を置いた。
「知ってる」
「どんなやつだった」
「……まあ」野火 太一は言った。「色々と」
「俺、お前に何かしたか」
「俺にじゃないけど」野火 太一は言った。「まあ、色々と」
武は黙った。
長い沈黙だった。
「そうか」武はようやく言った。「覚えてないけど——すまない」
野火 太一は驚いた。
謝られるとは思っていなかった。記憶がないから謝れる、という面もあるかもしれなかった。でも武は、確かに言った。
「いい」野火 太一は言った。「今は、そういう話じゃないし」
「そうだな」武は言った。「でも、覚えといてくれ。俺が謝ったことを」
「覚えとく」
須根 夫介は枯れ葉の上に座り、地面に何かを書いていた。
集落で見聞きしたことを整理していた。地名、地形、人の動き、聞こえた会話の断片。
「須根 夫介」野火 太一は言った。
「なに」
「眠れるか」
「眠る必要があれば眠る」須根 夫介は言った。それから少し間を置いた。「……この小屋は、さすがに、もう少しどうにかなると良かったが」
「ならないから仕方ない」
「そうだな」須根 夫介は言った。「わかってる。ただ言いたかっただけだ」
「それは言っていい」
「……ありがとう」須根 夫介は言った。妙にしみじみと言った。「言っていい、と言ってもらえるのは、助かる」
記憶がなくても、言いたいことを言えないと感じる癖は残っているのかもしれなかった。野火 太一はそう思った。
静香は小屋の端で、膝を抱えていた。
野火 太一が近づくと、静香は顔を上げた。
「野火 太一さん」静香は言った。
「眠れそうか」
「眠れるかどうかわからないです」静香は言った。「でも——怖い、という感覚はあります。ちゃんとある。それがわかっただけで、少し、安心した気がして」
「怖いとわかったのが安心?」
「自分が何かを感じているって、わかったから」静香は言った。「記憶がなくても、怖いとは感じる。だから——わたしはちゃんとここにいるんだな、って」
野火 太一は静香を見た。
「静香は」野火 太一は言った。「強いな」
「そうかな」静香は言った。首を傾けた。「わからないですけど」
「そうだと思う」
「……ありがとうございます」静香は言った。少しだけ、表情が緩んだ。
六
全員が眠りかけた頃、ニャえもんだけが起きていた。
野火 太一はそれに気づいていた。
ニャえもんは星を見ていた。
「ニャえもん」野火 太一は小声で言った。
「野火 太一」ニャえもんは答えた。「眠れないのか」
「お前こそ」
「わたしは——眠るという概念があるかどうかが、わからない」ニャえもんは言った。「ただ、黙って空を見ていた」
「どんな気持ちで」
「気持ちがあるかどうかも、わからない」ニャえもんは言った。「でも……広いな、と思った」
「そうだな」野火 太一は言った。「戦国の空は広すぎる」
「広すぎる、か」ニャえもんはその言葉を受け取った。「名前のつかない何かが、する。これが何かはわからない」
「寂しい、とか?」
「寂しい」ニャえもんは繰り返した。しばらく、その言葉を口の中で転がした。「……そうかもしれない。その言葉が、合っている気がする」
「寂しいなら、俺が隣にいる」野火 太一は言った。
ニャえもんは野火 太一を見た。
「なぜ」
「そういうものだから」
答えになっていなかった。でもニャえもんは、それ以上聞かなかった。
「……そうか」ニャえもんは言った。「ありがとう」
夜は深く、静かだった。
星だけが動いていた。
四人と一体は、廃屋の中で眠った。
明日が何をもたらすか、誰もわからなかった。
わからないまま、眠った。
今夜は、それだけで十分だった。
第一話「異邦人たち」 了




