第十九話「須根の沈黙」
一
戦が終わって、三ヶ月が過ぎた。
玄斎の城は、静かだった。戦が終わった後の、新しい静けさだった。人が増えていた。武の名声を聞いて、各地から人が来た。城下が大きくなった。市が立った。
須根 夫介は毎朝、城下を歩いた。信長の後継を名乗る者が、南の方で動き始めているという話があった。
「武の名声が、防波堤になっています。歌で天下を取った男の傘下にある城、という認識が広まっている。それがある間は、軽率に動けない勢力がいます」
「武の名声を、まだ使えるか」
「使えます。ただし——使いすぎると、消耗する。名声は、使い方が大事です」
「お前に任せる」
二
武は毎日、広間で歌った。来る人間が多かった。武はそれが好きではなかった。大勢の前で歌うと、歌うべき歌と、自分が歌いたい歌が、ずれる気がした。でも歌った。やめる理由がなかったから、続けた。
ある昼過ぎ、武は城の北の野原に一人で出た。鉄の鳥があった場所だった。Davidたちが去ってから三ヶ月、野原には何も残っていなかった。草が生えていた。風が吹いていた。
「帰れたかな」武は言った。誰も答えなかった。当然だった。でも——風が吹いた。それで十分だった。
武は野原で一人、歌った。Davidに向けた歌だった。言葉は届かなかった。でも——歌った。言葉より先に届くものがあることを、武は知っていた。
三
源七郎は城にいた。玄斎の軍の副将という立場になっていた。かつての落ち武者が、三ヶ月で城の中核にいた。「やるべきことをやった結果だ。それだけだ」と源七郎は言っていた。
源七郎はある夕方、須根 夫介のところに来た。「信長の真実のことだ。墓場まで持っていく、と言った。今も変わっていない。ただ——俺が死んだ後のことを、考えておきたい」
「俺が死んだ後、この真実はお前と武の二人だけが知っている。その二人も死んだ後は、誰も知らなくなる」
「それでいいと、俺は思っています」
「俺も、そう思う。ただ——三人が全員死ぬ前に、一人でも誰かに言いたくなる可能性がある」
「俺は言わない。武も言わない、と思います」
「信じるか」
「武という人間を、俺は知っている。それが根拠だ」
「俺も信じる。三人全員が、墓場まで持っていく」
四
その夜、武が須根 夫介のところに来た。部屋に座った。
「須根 夫介」
「なに」
「信長は——本当に、誰が倒したんだ」
須根 夫介は少し間を置いた。「なぜ今、聞く」
「俺は天下を取った男と言われる。その重さを持って生きていくなら——何が本当に起きたのかを、知っておきたい。知らないまま名前を持つのは、俺には無理だ」
「俺の推測を話す。ただし——推測だ。確かではない。そのことを、お前が忘れないでいられるか」
「忘れない。約束だ」
須根 夫介は話した。ニャえもんのカプセルのことを。溶鉱炉の熱の中で何かが起きた可能性を。航空機が誰も乗らずに動いたことを。全部、推測として話した。
武は黙って聞いていた。話し終えた。沈黙があった。ずっと長い、沈黙だった。
「……ニャえもんの道具が」武はようやく言った。
「かもしれない。確認できない」
「ニャえもんが意図したことじゃない」
「そうだ。確かではないが——意図した可能性は、俺には低いと思う」
「誰も意図していない」
「そうだ。ただの——」
「誤爆」武は言った。先に言った。
「推測として、そうかもしれない」
武はしばらく黙った。窓の外を見た。夜の空だった。
「俺は、その推測が正しいとは思わない」
須根 夫介は武を見た。「正しくないと思う根拠は」
「根拠はない。ただ——ニャえもんがそこにいたから、起きた。ニャえもんがいなければ、起きなかった。それだけは確かだ。だから——ニャえもんが倒した、と俺は思う。意図していなくても、ニャえもんが倒した」
須根 夫介は武の言葉を聞いた。聞いて、しばらく動かなかった。
「……その見方は、俺には思いつかなかった」
「お前は計算する人間だから。俺は感じる人間だから」
「感じる人間の見方か」
「そうだ。お前の推測と、俺の感じ方。どちらが正しいかは、わからない。でも——俺はそう思って、この重さを持っていく。ニャえもんが倒した、と思って」
「墓場まで持っていくか」
「ああ。お前も、そうしてくれるか」
「する」須根 夫介は言った。「源七郎殿にも、話した方がいい。三人全員で、持っていく」
「そうする」武は立ち上がった。「……須根 夫介」
「なに」
「話してくれて、ありがとう。知らないよりずっとよかった」
武が部屋を出た。須根 夫介は一人になった。
五
しばらく、動かなかった。武の言葉を、頭の中で繰り返した。
ニャえもんがそこにいたから、起きた。
計算の言葉ではなかった。だが——正しかった。証明できない正しさが、世の中にはある。武はそれを知っていた。だから言えた。俺は計算する人間だから、思いつかなかった。それだけのことだった。
須根 夫介は扉を閉めた。静かに閉めた。鍵をかけた。鍵は、須根 夫介の中にあった。誰にも渡さない。死ぬまで渡さない。武が自分の言葉で意味を与えた。それで十分だった。これ以上、誰かに言ってはならなかった。
六
翌朝、城の門に見慣れない人影が来た。南の街道から、一人の女が歩いてきた。須根 夫介は廊下から、その姿を見た。動かなかった。長い時間、動かなかった。
計算より先に、体が動いた。走った。城の門まで来た。女が振り返った。
静香だった。少し痩せていた。日に焼けていた。着物が違った。でも——静香だった。
「……いつ」須根 夫介は言った。
「昨日、街道に出た」静香は言った。「戦が終わったことは、聞いていた。それで、来た」
「どこにいた」
「遠いところ」静香は言った。「でも、生きていた」
「武は」
「いる。旅に出る前だ」
「会える?」
「すぐに」
武を呼んだ。武が来た。静香を見た。動かなかった。それから、目が赤くなった。
「泣くな」静香は言った。
「泣いてない」武は言った。声が震えていた。
「泣いてるよ」
「……泣いてる。ごめん」
「謝らなくていい。わたしは生きてたから」
三人は城の廊下で、しばらく立っていた。何も言わなかった。それで十分だった。
七
その日の午後、須根 夫介は玄斎に呼ばれた。信長の後継の動きについて報告した。
「武に、歌い歩くことを頼めるか」
「武に確認します」
武に話した。「各地を歌い歩いてほしい。一人ではない。護衛をつける。源七郎殿もついてくれる」
「玄斎殿の頼みか」
「俺の提案だ。武が広間で大勢に向かって歌っている時の顔と、野原で一人で歌っている時の顔が違う、と感じた。それが先にあった。武が村々を歩いて、必要な人間に向かって歌う方が、武には合っていると思った」
「感じることが先だったか」武は言った。
「そうだ。今回は」
「須根 夫介、お前、本当に変わったな」
「変わったかもしれない」
「行く。歌う。それならできる」
「ありがとう」
「礼はいい。俺がしたいことをさせてもらうんだから」
八
旅の準備が始まった。静香が須根 夫介に言った。
「わたしも少しの間だけ、旅についていっていい?戻ってきたばかりで、外の空気を吸いたいんだけど」
「構わない。ただ、長くなれば城に戻ってくれ」須根 夫介は言った。「お梅さんとの繋がりも使える。太兵衛殿の情報網は、まだ生きている。静香が城に戻ってきたら、お願いしたいことがある」
「わかった。行ってきたら、また手伝う」
出発の前夜、四人が集まった。武と、須根 夫介と、源七郎と、静香。戻ってきて最初の夜だった。食事をした。源七郎が酒を持ってきた。
「野火 太一に」源七郎は言った。「ニャえもんに。この旅が、良い旅になるように」
杯を合わせた。音がした。飲んだ。
「ニャえもんは——最初の夜に言っていた。いてくれるだけで、違うと。弥助の母親に言われた言葉が、ニャえもんにとって大事な言葉だった」須根 夫介は言った。
「俺たちも——ニャえもんがいてくれて、違った」武は言った。
「いなくなって——やっぱり、違う。でも——いたことは、変わらない」
「消えていない。いなくなっても、消えていない」
「ニャえもんがいたことは——永遠に変わらない」静香は言った。
九
翌朝、武と源七郎と静香が出発した。城の門に、須根 夫介が見送りに来た。玄斎も来ていた。
「行ってくる」武は言った。
「行ってこい」須根 夫介は言った。
「旅から戻ったら——また夜、城壁に上がろう。三人で、野火 太一と、ニャえもんの話をしよう」
「する」
武が馬を進めた。源七郎が続いた。静香も続いた。城下を抜けていった。やがて、街道に出た。遠くなった。見えなくなった。
十
その日の夕方、須根 夫介は玄斎に呼ばれた。
「武が行った。うまくいくと思うか」
「うまくいくと思います。武が歌えば、届く。届けば、何かが変わる。その連鎖を、俺は信じています」
「信じる、か。お前が信じると言うのは、珍しい」
「最近、言えるようになりました。計算より先に信じることが、できるようになりました」
「何が変わった」
「武から、野火 太一から——感染しました。それと今日、静香が旅に出ました。また戻ってくれば、また感染するかもしれません」
玄斎が初めて、声を出して笑った。
十一
夜、須根 夫介は一人で城壁に上がった。
「野火 太一」須根 夫介は言った。声に出した。「武が旅に出た。村々を歌い歩く。お前が見ていたら——見えるかもしれない」
風が来た。
「ニャえもん。お前の道具が——最後に動いた。俺は推測として話した。武は自分の言葉で意味を与えた。静香は信じた。俺も——今は信じる。ニャえもんがそこにいたから、起きた。それだけは確かだ」
「俺は扉を閉めた。この真実を、これ以上誰かに言わない。死ぬまで言わない。それが、俺にできる最後のことだ」
川の音がした。
「覚えていてくれるか、ニャえもん。俺が——お前のことを覚えているように、お前も、俺のことを覚えていてくれるか。根拠はない。でも——そう思う。最近、根拠がなくても思えるようになった」
須根 夫介は城壁を降りた。部屋に戻った。横になった。目を閉じた。眠った。
十二
旅から帰ってきた武が、最初に言ったのはこれだった。
「野火 太一の話を、村の子供たちに少しだけした。記憶がなくても、名前は確かだって言ってくれた話を」
「子供たちは聞いていたか」
「聞いていた。ちゃんと聞いていた」
静香が言った。「それは——野火 太一くんの言葉が、村まで届いた、ということだね」
「そうだな」
「野火 太一くんが喜ぶと思う」静香は言った。「根拠はないけど」
「根拠はなくていい」武は言った。
須根 夫介は二人の話を聞いていた。計算しなかった。ただ、聞いた。野火 太一の言葉が、ここにある。武の口から村の子供たちに届いた。静香がそれを聞いていた。どこまで届くのかは、わからなかった。でも——届いていた。それだけは、確かだった。
十三
夕方、三人は城壁に上がった。約束通りに。
「広い空だな」武は言った。
「そうだな」須根 夫介は言った。
「戦国の空は広すぎる」静香は言った。野火 太一の言い方で。
三人は笑った。それから、空を見た。
しばらく、何も言わなかった。それで良かった。何も言わなくても、ここにいた。三人が並んで、戦国の空の下にいた。野火 太一がいたことを知っていた。ニャえもんがいたことを知っていた。その二人を知っていた三人が、ここにいた。それだけが、確かだった。
第十九話「須根の沈黙」 了
須根夫介が生涯を通じて言わなかったことがある。信長が倒れた真実である。彼はそれを誰にも言わなかった。なぜ言わなかったのか。死ぬ間際まで、彼は考えていた。そして死んだ。答えは、彼と共に土に還った。これが須根夫介の最後の計算だった。計算の結果は、沈黙だった。




