最終話「誰も知らない歴史」
一
武の旅の途中で、港に寄った。
小さな港だった。市が立っていた。南の国へ向かう商船が一艘、碇を下ろしていた。大きな船だった。
静香はその船の甲板に、白髪の老人が立っているのを見た。体が大きく、でも目が穏やかな老人だった。老人が静香を見た。静香も老人を見た。老人が、ゆっくりと船から降りてきた。
「お嬢さん」老人は言った。「覚えているかな。随分と前のことだが」
静香は老人の顔を見た。見て、わかった。あの夜の船だった。手足を縛られて荷台に乗せられ、南の港まで連れていかれた夜——船主に金を払って、自分を荷の中から出してくれた人間だった。
「覚えています」静香は言った。「あの夜、助けてくださった」
「助けた、というより——放っておけなかった。あの目が」老人は言った。「俺には、わかる人間とわからない人間がいる。あんたは、わかる人間だった。何がわかるかは、うまく言えないが」
静香はしばらく老人を見た。
「あなたも、そういう人間ですね」静香は言った。「わかる人間かどうかが、わかる人間」
老人が笑った。久しぶりに笑ったような顔だった。
二
老人は静香を船に招いた。武と源七郎も来た。船の中で、老人と話した。長い話だった。老人は諸国を渡り歩いてきた商人だった。多くのものを見た。多くのものを持っていた。でも——。
「寂しいのです。多くのものがある。でも、俺が見てきたものを、本当にわかってくれる人間がいない。言葉にしても、伝わらない人間ばかりで」
「あなたと話していると——わかってもらえている気がします」静香は言った。
「あんたは——どこから来たのですか。どこへ向かうのですか」
静香はしばらく考えた。「遠いところから、来ました」静香は言った。「どこへ向かうかは——まだわかりません」
「俺に聞かせてもらえませんか。遠いところ、というのを」
静香は老人を見た。この人なら、話せる、と思った。理由はなかった。ただそう感じた。
「信じてもらえるかどうかわかりませんが——別の時代から、ここへ来ました。突然、連れてこられたのです。仲間たちと一緒に」
老人が動かなかった。静香を見た。長い時間、見た。それから、「そうですか」と言った。否定しなかった。驚いた様子もなかった。ただ、「そうですか」と言って、静香の話を待った。
静香は話した。野火太一のことを。ニャえもんのことを。失ったものと、それでも残ったものを。老人は黙って聞いていた。
「あなたは——」老人は言った。「俺が今まで会った人間の中で、最も遠いところから来た人だ。それでも、話がわかる」
三
話が終わった頃、老人が言った。
「突然で失礼ですが——俺と一緒に来てもらえませんか。南の国へ。俺の家に。妻として、ではなく——ただ、そばにいてほしいと思った」
静香は老人を見た。
ひとつは、断る言葉だった。武と須根 夫介のいる城を離れて、見知らぬ国へ。記憶も不完全なまま、言葉も文化も違う場所へ、老いた商人のそばにいるために行く。それは静香が選ぶべき道なのか。
でも——もうひとつの気持ちが、それより強く来た。
この老人は、本当のことを言っている。悪意がない。ただ、孤独で、静香を必要としている。そしてこの人には——伝わる。他の誰にも伝わらなかったことが、この人には伝わった。それがどれほどのことか、静香は知っていた。記憶を失って、言葉がなくて、一人でいた時間を、知っていた。
誰かのそばにいるために——。ニャえもんが言っていた言葉が、頭の中に来た。「誰かのそばにいるために、作られた」と野火太一が言っていたと。ニャえもんはロボットだった。でも静香も——人のそばにいることが、できる人間だった。記憶がなくても、それだけは体が覚えていた。
「わかりました。一緒に行きます」
四
甲板に戻って、武に言った。
「わたし、この人についていく。南の国へ。この方の家に」
「突然すぎる」
「そうだね」静香は笑いながら言った。
「なぜ行こうと思ったんだ」
「この人が孤独だから。わたしが行けば、少し変わると思う」
老人は武の視線を受けて、頭を下げた。「大切にします」
「歌っていいですか」武は老人に言った。「あなたに歌いたい」
武が歌った。港の船の上で、老人に向かって歌った。老人の目が、わずかに潤んだ。「……素晴らしい」老人は言った。「この人の歌も、また聞きたいものだ」
「静香を——よろしくお願いします」武は言った。
「必ず」
五
出発まで、一日あった。武が須根 夫介に伝令を送った。翌朝、須根 夫介が城から港まで来た。
須根 夫介が港に来た時、静香は船の近くにいた。二人で、海を見た。
「来たんだね」
「来た。伝令を受けて、すぐに来た」
「急がなくても良かったのに」
「急いだ。会いたかった」
静香は須根 夫介を見た。
「わたしが行くこと、どう思う」
「正しいと思う。計算と、感じることが混ざった。計算では——静香がここを離れることで、城の情報収集の力が落ちる。でも感じることは、別のことを言う。静香が行く方が、正しい。それが感じることの答えだ」
「須根 夫介くん、変わったね」
「変わった」
「わたしから感染した、と言ってくれたね」
「そうだ。お前が感じることを言葉にする時、俺は毎回、何かを受け取っていた。計算では届かない場所に、お前の言葉が届いた。それが——今の俺を作っている部分がある」
「ありがとう。どんな時も、来てくれた。ここにいてくれた。手が震えていても、動いてくれた」
「計算が止まることがあった。止まっても、動けることを——学んだ」
「それが須根 夫介くんだよ。計算と、感じることが混ざった須根 夫介くんが」
須根 夫介は海を見た。海は広かった。戦国の空より、もっと広かった。
「静香」須根 夫介は言った。「一つ、頼みがある」
「なに」
「向こうで、幸せになってくれ」
「幸せになれると思う?」
「思う。感じる。計算じゃなく」
「わたしもそう感じる」静香は笑いながら言った。
六
須根 夫介は懐から、紙を取り出した。白い紙だった。別れの日に二枚用意して、一枚を静香に渡した、あの時の残りだった。手元に持ち続けていた一枚を、今、静香に渡した。「何かを覚えていたくなった時に、書いてくれ。野火 太一のことでも、ニャえもんのことでも」
「書かなくても、覚えていられるよ。体が覚えているから」
「それでも。持っておいてくれ」
静香は紙を受け取った。折りたたんだ。懐にしまった。「大切にする」
「頼む。それと——須根 夫介くん自身のことも、大切にして」
「自分のことか。俺は大丈夫だ」
「大丈夫かどうか、自分では見えない。たまには誰かに見てもらって。武くんに見てもらって。それくらいはできるでしょ」
「する。約束だ」
「うん。約束」
七
出発の朝が来た。武と須根 夫介と源七郎が来た。
武が静香の前に来た。「行くか」「行く」「……元気でいろ」「武くんも」「歌い続けるよ」「知ってる。歌わないよりいい、でしょ」「そうだな」
源七郎が静香の前に来た。「お前のことを、俺は覚えている。向こうで何かあれば——太兵衛殿の商いの網を頼れ」「頼みます」
須根 夫介が静香の前に来た。何も言わなかった。静香も何も言わなかった。須根 夫介が、静香の頭に手を乗せた。一瞬だけ、乗せた。それだけだった。言葉がなかった。でも、それだけで十分だった。
八
船が動いた。港から離れた。静香が船の端に立って、こちらを見た。手を振った。
武が手を振った。源七郎が頷いた。須根 夫介は——手を振った。いつもは手を振らない須根 夫介が、手を振った。
船が遠くなった。静香の姿が小さくなった。やがて見えなくなった。船が、海の向こうへ消えた。
三人は港に立っていた。海を見た。風が来た。海の、塩の風だった。しばらく、誰も何も言わなかった。言葉がなかった。でも、立っていた。それだけが、確かだった。
「行ったな」武は言った。
「行った」須根 夫介は言った。
「……寂しいな」
「寂しい。ニャえもんがよく言っていた言葉だ」
「そうだ」
九
城に戻った。武と須根 夫介が城の廊下を歩いた。ニャえもんがいた場所を通った。須根 夫介は少し、足を止めた。武も止まった。二人で、その場所を見た。何もなかった。ただの廊下だった。でも——ニャえもんがいたことは、ここに残っていた。残っているのが見えるわけではなかった。でも、残っていた。それだけは確かだった。
二人は歩き始めた。信長はまだいなかった。でも、次の戦は来るかもしれなかった。来たら、また動く。今日も動く。それだけだった。
十
それから、時が経った。
武は歌い続けた。諸国を旅しながら、歌い続けた。英雄と呼ばれた。天下人と言われた。武は知っていた。自分は天下を取っていない。歌っただけだ。怖くて、追い詰められて、歌っただけだ。でも——歌ったことで、何かが変わった。それは確かだった。それで十分だった。
夜になると、武は一人で歌った。誰にも聞かせない歌を、一人で歌った。野火 太一に向けて。ニャえもんに向けて。静香に向けて。全員に向けて。会えない人たちに向かって、声の限り歌った。
須根 夫介は玄斎の城で動き続けた。計算し続けた。感じることも続けた。信長の後継が動いた時も、動じずに対処した。武の名声が、盾になった。須根 夫介の計算が、道を作った。その組み合わせは、最後まで変わらなかった。
源七郎は副将として城を支えた。何度も信長の後継の軍と対峙した。そのたびに、須根 夫介の計算と、武の名声と、源七郎の剣が合わさって、乗り越えた。
源七郎が逝ったのは、ある年の冬だった。武が遠くを旅している時で、間に合わなかった。須根 夫介が枕元にいた。源七郎はもう目を開けられなかった。ただ、口だけが動いた。「墓場まで、持っていく」須根 夫介は頷いた。頷いたまま、源七郎の手を握った。それだけだった。源七郎は、そのまま逝った。武が戻ってきた時、須根 夫介は何も言わなかった。ただ、城壁に二人で上がって、しばらく空を見た。それで十分だった。
静香は南の国にいた。老いた商人の傍らで、穏やかな日々を送った。夫には、静香のことがわかった。他の誰にも伝わらなかった言葉が、夫には伝わった。それだけで、十分だった。
十一
武が老いた時、弟子に言った。
「俺が最初に歌ったのは——怖かったからだ。追い詰められて、他に何もできなかったから歌った」
「それが天下を——」
「天下は取っていない」武は言った。
「でも、信長が」
「俺は歌っただけだ。それ以上でも以下でもない」
「謙遜なさらずとも」
「謙遜ではない。事実だ」
「師匠は、誰かに歌いたかったのですか。最初に歌った時」
「いなくなった仲間に。届けたかった。言葉が届かない場所にいる仲間に——声が届けばと思って、歌った」
「届きましたか」
「わからない。でも——届いたと思う。そう信じている」
「師匠はいつも、根拠なく信じると言いますね」
「そうか。誰かに感染したんだ。昔、そういう人間たちがいた。証明できないことを言葉にできる人間たちが。その中に、俺もいた」
十二
須根 夫介が老いた時、一人で崖に来た。ニャえもんが落ちた崖だった。毎年、この時期に来ていた。
崖の下を見た。溶鉱炉は、もうなかった。城の鍛冶場が移転して、溶鉱炉も消えていた。今は、ただの崖の下だった。川が流れていた。
「ニャえもん」須根 夫介は言った。声が、老いていた。「今年も来た。いつまで来られるかはわからない。でも——来られる間は来る」
「俺は——今も扉を閉めたままだ。真実を、誰にも言っていない。武も言っていない。静香も言っていない。源七郎殿は、先に逝った」
「ニャえもんがそこにいたから、起きた。武がそう言った。俺も今は、そう思っている。計算より先に、感じることが来るようになった。お前から感染したから」
須根 夫介は崖の端から離れた。「また来る。来られる間は、来る」
歩きながら須根 夫介は思った。誰も知らない。信長が倒れた真実を、誰も知らない。英雄の物語だけが残った。歌で天下を取った男の物語だけが残った。でも——物語より先に、人がいた。野火 太一がいた。ニャえもんがいた。武がいた。静香がいた。俺がいた。その人たちが動いたから、物語になった。
物語は嘘ではない。ただ——全部ではない。全部は、誰も知らない。誰も知らないままで、いい。
十三
静香が年老いた時、夫からもらった部屋で、一人で座っていた。夫はすでに先に逝っていた。穏やかな死だった。静香の手を握り、「あなたのそばにいられてよかった」と言って、逝った。静香はその言葉を、しばらく胸の中に持っていた。ニャえもんが言っていた言葉に似ていた。いてくれるだけで、違う。その言葉に。
静香は懐から、紙を取り出した。須根 夫介が渡した紙だった。一行だけ書いてあった。「野火 野火 太一がいた」
静香はその一行を読んだ。目が悪くなっていたが、この一行だけは読めた。何度も読んでいたから、読めた。
「野火 太一くん」静香は言った。「わたし、覚えていたよ。ずっと覚えていた。体が覚えていた」
もう一行、書いた。「ニャえもんがいた」
また書いた。「武がいた。須根 夫介がいた。みんなが、いた」
書き終えた。紙をしまった。目を閉じた。
静香は眠った。長く、穏やかに眠った。夢の中に、野火 太一が来た。笑っていた。いつも通りの、困ったような嬉しそうな顔だった。
「静香」
「うん」
「覚えていてくれてありがとう」
「当たり前だよ。忘れるわけないでしょ」
「……大丈夫だよ。みんな、大丈夫だよ」
「知ってる」静香は笑いながら言った。「あなたがいたから、知ってる」
静香は夢の中で笑った。笑いながら——そのまま、静かに、眠り続けた。戦国の空の下で、長く生きた人間の、穏やかな終わりだった。
十四
誰も知らない。信長が倒れた真実を、誰も知らない。ニャえもんという存在を、知る者は誰もいなくなった。野火 野火 太一という名前を、知る者は誰もいなくなった。静香が書いた紙は、彼女とともに土に還った。
残ったのは、物語だった。歌で天下を取った男の物語だった。雷岸 武という英雄の物語だった。
でも——その物語が生まれる前に、人がいた。怖くて、記憶がなくて、道具が欠陥だらけで、それでも動いた人たちが、いた。
野火 太一がいた。ニャえもんがいた。武がいた。須根 夫介がいた。静香がいた。
彼らは物語の中にいない。でも——物語は、彼らがいたから生まれた。
その事実を、誰も知らない。
知らなくていい。
彼らは知っていたから。
それで、十分だった。
野火は死んだ 完
最終話である。これまで多くのことが起きた。英雄は作られ、道具は壊れ、仲間は散り、真実は埋まった。最終話では、残った人間たちが老いていく。老いることは、長く生きたということである。長く生きた人間は、多くを知っている。多くを知っている人間ほど、多くを語らない。これは逆説のように見えて、実は単純な話だ。語ることの意味を、よく知っているから、語らない。




