第十八話「天下、拾い申す」
一
使いが来たのは、翌朝だった。信長の残存勢力からの使いだった。
「我が方の大将が、降伏を申し出ております」
「信長は」玄斎は言った。
「……信長様は、お亡くなりになりました」使いは言った。声が、かすれていた。
広間が静まった。「確かか」
「確かです。昨夜、確認いたしました」
「わかった。返答は、午後に出す」
使いが下がった後、玄斎が須根 夫介を見た。
「本物だと思います。あの使いの震えは、演技ではない」
「信長が死んだ。……戦が終わった」
「今日のところは。信長の後継を巡って、また別の動きが出てくるかもしれません」
「それは、後で考える。今日は——今日だけは、この事実を受け取る」
二
その日の午後、玄斎は降伏を受け入れた。信長の残存勢力が、玄斎の傘下に入ることを条件として。
夕方、武次郎が来た。「雷岸 武の名が、もう広まっている。歌で天下を取った男、と」
「早い」須根 夫介は言った。
「戦場には、多くの目がある。武が山の麓で歌っていた。信長の兵士が立ち止まった。その後、信長が倒れた。見ていた者たちが、繋げた」
「繋げた、か」
「人間は、点と点を線で繋ぐ。見えなくても、繋ぐ」
三
廊下で、武が待っていた。
「聞こえていた。信長が死んだ」
「そうだ」
「戦が終わった」
「今日のところは」
「俺は、何かをしたのか」武は言った。
「した。信長の軍の士気を削いだ。人を集めた。前線を揺るがした。それはした。でも——信長を倒したのは、誰でもない。誰でもないが——ニャえもんがそこにいたから、起きた。武が知っている通りだ」
「でも、俺の名前が残る」
「残るかもしれない。歌で天下を取った男、として」
武はしばらく黙った。
「俺、天下を取ったのか」
「取っていない。ただ、そういう話になるかもしれない」
「英雄になるのが、嫌だ」武は言った。「俺がしていないことを、したことにされるのが」
「わかっている。物語は、真実より強い。でも——英雄にされた人間が、自分は英雄じゃないと知っていることは、珍しい。普通は、英雄にされると、自分が英雄だと思い始める。武はそうならない。野火 太一とニャえもんのことを知っているからだ。あの二人が何をしたかを知っていれば、俺が英雄だなんて思えない。だから——武が一番ふさわしい」
「何が」
「この名前を持つことが。英雄にされた者の中で、最もその名前を重く感じている者が、その名前を持つ。それが最善だ」
四
その夜、武は城壁に上がった。一人で。
「天下を取ったらしい、野火 太一」空に向かって言った。「俺がしたのは——歌っただけだ。怖くて、追い詰められて、歌っただけだ。でも、そういうことになった。歌で天下を取った、と。どこかで誰かが言い始めた」
星が動いていた。
「ニャえもんも、野火 太一も、いない。それだけが、はっきりしている」
武は歌い始めた。誰にも聞かせるためではなかった。野火 太一のために歌った。ニャえもんのために歌った。それだけのために、歌った。
須根 夫介は城壁の下から、その声を聞いた。計算が来なかった。ただ聞いた。これが何かを変えるかどうかは、わからなかった。でも——今、ここで武が歌っている。それだけが、確かだった。
五
翌朝、Davidたちが城に来た。全員で来た。
Davidが何かを言った。英語だった。でも——声の質で、須根 夫介にわかった気がした。「帰る」と言っているのだと思った。
須根 夫介は絵を描いた。家の絵に、矢印が向いている絵。Davidが見て、頷いた。
「帰るのか」Davidが頷いた。
「俺たちも帰れるか」Davidはしばらく考えた。首を横に振った。でも——申し訳なさそうな顔で、横に振った。「わからない、ということか」Davidが頷いた。
須根 夫介は一枚、新しい絵を描いた。人間が二人、並んで立っている絵だった。片方が手を上げていた。もう片方も手を上げていた。二人の間に、線があった。それだけの絵だった。
Davidはその絵を見た。須根 夫介を見た。何かを言った。声が、穏やかだった。
「わかった。行ってくれ」
六
Davidたちが野原に出た。五機が順番に動き始めた。野原を走った。離陸した。空に上がった。旋回した。
Davidの機体が、城の上を通過した。低く、ゆっくりと通過した。翼を、わずかに傾けた。左に。右に。それだけだった。それから——上昇した。急速に上昇した。雲の中に入った。見えなくなった。
他の四機も続いた。雲の中に入った。見えなくなった。轟音が遠くなった。消えた。静寂が来た。
武が空を見ていた。「帰れたかな」
「わからない。でも——行った」
「……行ったな」
しばらく、二人とも黙った。空を見た。轟音の余韻が、どこかにまだあるような気がした。やがてそれも消えた。戦国の空が、また戻ってきた。広い、静かな、戦国の空が。
「俺たちは、どうする」
「ここにいる。今は、ここにいる。帰る方法がわかった時に、考える。今はここで、やることがある」
七
その日の夕方、玄斎が全員を集めた。玄斎が話した。
「信長が倒れた。戦が終わった。この時を、誰が作ったか。多くの者が動いた。その中で——雷岸 武の名を、俺は一番に挙げたい」
武は固まっていた。
「武が歌った」玄斎は言った。「怖くて、追い詰められて、それでも歌い続けた。その声が、人を動かした。この城に人が集まったのも、信長の軍の士気が落ちたのも、武の声がなければなかった」
「玄斎殿」武は言った。「俺は——信長を倒していません」
「そうだな。お前が直接倒したとは、俺も言っていない」
「でも、人はそう思う」
「思うかもしれない。ただ——武よ、一つ聞く。お前が歌わなければ、今日があったと思うか」
「……」
「お前が歌ったから、人が集まった。人が集まったから、動けた。動いたから、今日がある。それは事実だ」
「……わかりました」
「お前が歌ったことは事実だから」
「それで十分だ」玄斎は言った。
八
広間が終わった後、武は須根 夫介に言った。
「重い。名前が。天下を取った男、という名前が付いてくる。でも俺は——そんな男じゃない」
「そんな男じゃないが、その名前を持つ男になった。武はその違いを知っている。それが、武が普通の英雄と違うところだ」
「ニャえもんと野火 太一のことを知っているから、英雄だなんて思えない」
「そうだ。だから、武が一番ふさわしい」
「俺は歌いたい」武は言った。「英雄でも、天下人でも、そういうことじゃなくて——人が悲しんでいる時に、怖がっている時に、そばで歌いたい」
「わかった。武は歌うだけでいい。それ以外のことは——俺がやる」
「俺の歌を使って、お前が計算する。昨日今日の話じゃないな」
「そうだな。最初からそうだったかもしれない」
「……野火 太一がいたら、何と言うかな」
「大丈夫だよ、と言うと思う。あいつは、いつもそう言った」
九
その夜、武は城壁に上がった。須根 夫介もついてきた。
「一緒に上がっていいか」
武は少し驚いた顔をした。「須根 夫介が城壁に来るのか」「たまには来る」「来なかっただろ、今まで」「今日は来たい」
武は少し笑った。「来い」
二人で城壁に上がった。夜の城下が見えた。
「ニャえもんがいたら」武は言った。「今夜ここで、何と言うかな」
「……寂しいな、と言うかもしれない。でも——今夜、ニャえもんがここにいたとしたら、寂しくはないかもしれない。俺たちがいるから。ニャえもんがそばにいるために作られた存在なら——そばにいる者がいれば、寂しくない」
「俺たちが、ニャえもんのそばにいた」
「そうだ。だから——大丈夫だったと思う。最後は」
十
二人はしばらく、何も言わなかった。星が動いていた。風が吹いていた。戦が終わった夜だった。
武が言った。
「野火 太一。天下、拾い申した」
静かな声だった。「拾ったつもりはなかったけど——拾ったらしい。お前がいたら、どう言うかな」
「野火 太一は笑っていたと思う」須根 夫介は言った。「困ったような、嬉しそうな顔で」
「根拠は」
「ない。でも、そう思う」
「そうだな。根拠はなくていい」
二人はしばらく空を見た。計算しなかった。ただ、見た。ただ、ここにいた。
十一
夜が深くなった。武が「眠る」と言って降りた。須根 夫介だけが、城壁に残った。
「野火 太一」須根 夫介は言った。声に出した。「お前が言っていたことを、俺は覚えている。全部覚えている。お前から感染した。根拠のないことを言えるようになった。計算が止まっても動けるようになった。信じることが、計算の前に来るようになった」
星が動いていた。
「武が言っていた。お前から感染した、と。俺も感染した。武から、ニャえもんから——そして一番は、お前から」
須根 夫介は城壁を降りた。部屋に戻った。横になった。目を閉じた。眠った。
第十八話「天下、拾い申す」 了
「天下を取る」と「天下を拾う」は違う。取るのは意志であり、拾うのは偶然である。雷岸武は天下を取ったと言われているが、本人は「拾っただけだ」と言った。拾い物というのは、拾った本人より、それを捨てた者の話の方が、たいてい面白い。捨てた者は、もういない。




