第十六話「溶鉱炉」
一
夜が明けた。前日の戦が終わり、信長の軍が後退し、静寂が戻ってから最初の朝だった。
須根 夫介は眠らなかった。夜の間ずっと、城の廊下の端に座っていた。計算をしようとした。できなかった。ただ、座っていた。
夜明けの光が、廊下の窓から差してきた。須根 夫介は立ち上がった。城の外に出た。崖の方向に歩いた。
崖に来た。昨日、三人で立った場所だった。下を見た。溶鉱炉は、昨日より熱が落ちていた。でもまだ、熱があった。鉄が冷えかけていた。その中に——何も見えなかった。形のあるものは、何も残っていなかった。
須根 夫介はしばらく、下を見ていた。
ニャえもんは——最後の瞬間、何を見ていたのか。根拠はなかった。でも須根 夫介には、確信があった。野火 太一の笑顔を見ていた。武が言っていた。「笑っていた、困ったような嬉しそうな顔で」と。最後の瞬間に、それが来た。来たと思う。根拠はない。でも、そう思う。
二
誰かの足音が来た。須根 夫介は振り返らなかった。武だった。武が崖の端に来て、須根 夫介の隣に立った。
「来てたか」
「来ていた」
「眠れなかったか」
「眠らなかった」
「俺もだ」武は言った。
二人で崖の下を見た。しばらく、何も言わなかった。
「須根 夫介」武は言った。
「なに」
「ニャえもんは、痛かったと思うか」
「わからない。ただ——一瞬だったと思う。落ちてから、溶けるまで、一瞬だったと思う」
「ニャえもんは何を思っていたと思う」
「野火 太一の笑顔を見ていたと思う」須根 夫介は言った。
「確信か」
「確認できない。でも——ニャえもんが最後に見ていたのは、あの顔だったと思う。そうであってほしいと思うだけかもしれない。でも、そうだった気がする」
「俺も、そうだったと思う」武は言った。
三
風が来た。川沿いの、冷たい朝の風だった。
「ニャえもん」武は崖の下に向かって言った。小さな声で。
「ちゃんとやり遂げたぞ。最後まで人を殺さなかった。俺が見てた」
風が吹いた。静かな風だった。須根 夫介は何も言わなかった。ただ、崖の下を見ていた。熱が、だいぶ落ちていた。溶けた鉄が、固まり始めていた。もう、熱い風は来なかった。
四
城に戻った。玄斎が待っていた。
「信長の軍は、さらに後退した。来ないと思う。ただ——信長はまだいる。後退しただけだ」
「わかっています」
「ニャえもんのことは——聞いた」玄斎は言った。声が、いつもと少し違った。「よく戦った。この城の者として、よく戦った」
「ありがとうございます」
Davidが来た。須根 夫介の前に来た。何かを言った。英語だった。崖の方向を指した。須根 夫介は頷いた。Davidが胸の前で手を組んだ。
悼む気持ちだと、須根 夫介は思った。根拠はなかった。でも、そう思った。
「ありがとう」須根 夫介は言った。Davidが頷いた。
五
午前の間、城は静かだった。戦の後の静けさだった。
武は広間の端に座っていた。誰かが声をかけた。「歌ってくれませんか。死んだ仲間のために。歌ってもらえれば——少し、楽になれる気がして」
「わかった」武は言った。立った。広間に出た。誰も集めなかった。ただ、歌い始めた。
人が集まってきた。玄斎の家臣たちが来た。武次郎の兵士たちが来た。Davidたちも来た。
武は歌いながら、広間を見た。全員がいた。ニャえもんはいなかった。野火 太一もいなかった。でも——この場所に、確かにいたことは、変わらなかった。
武は歌い続けた。
六
歌が終わった後、Davidが武の前に来た。手を差し出した。握手の形だった。武は手を出した。Davidが握った。強く、でも乱暴ではなく。武も握り返した。何も言わなかった。言葉は通じなかった。でも、握った。それだけだった。
須根 夫介はその様子を見ていた。計算が、少しずつ戻ってきた。信長はまだいる。後退しただけだ。次に来る前に、何かを変えなければならない。でも——今は、少し待つ。今日は、計算しなくていい日だ。今日は、ただここにいればいい。それだけで、十分だ。
七
昼過ぎに、須根 夫介は一人で城の外に出た。崖の方向には行かなかった。城の北の野原に出た。昨日、鉄の鳥が着陸した野原だった。五機が並んでいた。
須根 夫介はF-22の前に立った。でかかった。金属の体が、朝の光を受けていた。
「これが来た時」須根 夫介はつぶやいた。「計算が止まった。でも——止まっても、動けた。野火 太一から感染した。計算が止まっても、動けるということを」
Davidが野原にいた。F-22を見ていた。須根 夫介に気づいて、頷いた。須根 夫介も頷いた。
Davidが、F-22の側面を見た。小さな文字が書いてあった。英語だった。読めなかった。でも、Davidがその文字を指で撫でた。大切なものを触るように、撫でた。
「家族の名前か」須根 夫介は言った。
Davidは頷いた。
「帰れるといいな」須根 夫介は言った。Davidはまた頷いた。
八
その日の夕方、全員が集まった。食事をした。言葉は通じなかった。でも、食事は通じた。
武が言った。「ニャえもんのいた場所が、空いている」
「そうだな」須根 夫介は言った。
「ニャえもんがいたことは——俺たちが覚えている間は」
「覚えている」須根 夫介は言った。
「源七郎殿は」
「覚えている。短い間だったが」源七郎は言った。
Davidが何かを言った。目を指した。次に、胸を指した。
「見ていた、ということか。ニャえもんを見ていたと」
Davidが頷いた。
「覚えてくれているか」
Davidは頷いた。
「ありがとう」
九
夜になった。Davidたちが部屋に入った。武が城壁に上がった。須根 夫介も上がった。
「星が出ている」武は言った。
「出ている」
「戦国の空は広すぎる、って野火 太一が言っていたな」
「最初の夜に」
二人で、しばらく空を見た。城の中から、Davidの声が聞こえてきた。歌っていた。英語の歌だった。武の歌とは全然違った。別の文化の、別の言語の、別のリズムの歌だった。でも——歌だった。
「仲間のために歌っているのかもしれない」武は言った。「亡くなった仲間のために」
「そうかもしれない」
「俺と同じだ。Davidも、誰かのために歌う」
Davidの歌が終わった。武は城壁から声をかけた。「俺も歌う。一人で歌うのは、寂しいだろうから、俺も歌う」
武が歌い始めた。武の歌が夜の城に広がった。Davidが廊下の窓から、武を見た。それから、また歌い始めた。自分の歌を。
二つの歌が、夜の城に流れた。別々の歌だった。言葉も、リズムも、違った。でも同時に流れた。須根 夫介は城壁の上でそれを聞いていた。計算が来なかった。ただ聞いた。二つの歌が同時に夜の城に流れていることは、昨日まではなかったことだった。それだけは確かだった。
十
夜が更けた。武の歌が止まった。Davidの歌も止まった。
「武」須根 夫介は言った。
「なに」
「お前も眠れ」
「わかった。須根 夫介は?」
「もう少しここにいる」
「また眠れないのか」
「……眠れるかもしれない。今日は」
「そうか。それは良かった」
武が城壁を降りた。須根 夫介は一人になった。
城壁の上に立って、空を見た。
「ニャえもん」須根 夫介は言った。「お前と話した夜が、何度もあった。その夜に、俺の中で何かが変わった部分がある。計算では届かない場所に、お前の言葉が届いた。覚えていてくれるか。俺が——お前のことを覚えているように」
風が吹いた。
「ありがとう」須根 夫介は言った。城壁を降りた。部屋に戻った。横になった。目を閉じた。眠れると思った。眠れた。
第十六話「溶鉱炉」 了
溶鉱炉について。鉄を溶かす炉。温度は千数百度。あらゆる金属を溶かす。グレーのロボットも、赤いロボットも、区別なく溶かす。溶鉱炉は公平である。人間は不公平だが、溶鉱炉は公平だ。この話に登場する道具の中で、唯一の公平な道具かもしれない。




