第十五話「ネズミの波」
一
二日目の夜明けは、一日目より速く来た。信長の軍は夜のうちに態勢を整え直し、夜明けとともに動き始めた。
今度は違った。現代兵器を持つ者たちが、前に出ていた。
ニャえもんはすでに城の外にいた。現代兵器を持つ者たちが前に出たことを、空から確認していた。昨日より近づく必要がある。磁石を使う機会が来る。ニャえもんはそれだけを、一人で判断していた。
「俺は山の麓から歌う。昨日より近い」武は言った。
「護衛を二人にする。俺と、もう一人」源七郎は言った。
二
戦が始まった。信長の軍が動いた。今日は早かった。最初の銃声が聞こえた。昨日とは違う音だった。鋭く、連続した音だった。
玄斎の軍の前線が、一瞬、動揺した。須根 夫介は計算した。現代兵器を持つ者の数は、昨日より多かった。前に出ていた。射程が長かった。玄斎の軍が、正面から押し続けるのは難しくなった。
「東の山の方向に、玄斎殿の軍を誘導します。山を使って、現代兵器の射程を殺す。ニャえもんが磁石を使う機会を作る必要があります。それまでの時間を稼ぐ」
「わかった。動かす」
三
ニャえもんは戦場の端を移動していた。磁石を持っていた。現代兵器を持つ者たちに近づく必要があった。十歩から二十歩。それが磁石の効果が届く距離だと、ニャえもんは判断していた。かなり近い。でも、今日は使う。それだけだった。
ニャえもんは戦場の端を歩いた。人が倒れていた。ニャえもんは見なかった。見ると、また何かが壊れる感覚がした。だから見なかった。前だけを見た。
現代兵器を持つ者たちの方向に、近づいた。
その時だった。ニャえもんの足元に、何かが触れた。小さかった。ニャえもんは足元を見た。ネズミだった。一匹のネズミが、ニャえもんの足元を走り抜けた。
ニャえもんの体が、反応した。怒りが走った。ほんの一瞬、怒りが走った。でも、ニャえもんは止めた。止められた。
(一匹だ)
(ただの一匹だ。気にするな)
前に進んだ。
四
十歩近づいた。また、ネズミがいた。今度は二匹だった。ニャえもんの体が反応した。怒りが来た。来たが、止めた。
(二匹だ。前に進め)
さらに近づいた。現代兵器を持つ者たちが、見えてきた。M16を構えた人間が、玄斎の軍に向けて撃っていた。
ニャえもんは磁石を出した。力を込めた。M16が、わずかに揺れた。構えていた兵士が、「おっ」と声を上げた。横に引かれるような力を感じた。狙いがずれた。
須根 夫介が城の高所から見ていた。「動いた。玄斎殿の精鋭を動かす。東の方向に」
五
精鋭が動いた。昨日より速かった。信長の軍の前線に、楔が打ち込まれた。現代兵器の射線が、乱れた。
ニャえもんの磁石が、さらに引き寄せた。M16が、兵士の手から引き抜かれそうになった。兵士が慌てた。別の兵士が気づいて、助けに来た。その隙に、精鋭がさらに切り込んだ。
武は山の麓で歌い続けていた。昨日より近かった。声が、より直接的に戦場に届いた。
信長の兵士の何人かが、また顔を上げた。昨日も聞いた声だった。また来た、と思った兵士がいた。
ニャえもんはさらに近づこうとした。その時だった。
六
足元に、ネズミがいた。一匹ではなかった。三匹。いや、五匹。草の中から、次々と出てきた。ニャえもんの足元を、走り回った。
ニャえもんの体が、反応した。今度は——止まらなかった。怒りが来た。大きな怒りが来た。赤い体が、さらに赤くなった。
(止まれ)
ニャえもんは思った。
(止まれ、俺。これはただのネズミだ。気にするな)
でも体は反応していた。本能だった。記憶を失っても残っている、ネコ型ロボットの本能だった。
ニャえもんは足を止めた。ネズミを見た。ネズミが、ニャえもんを見た。ニャえもんの赤い目と、ネズミの小さな目が合った。
(行け)
ニャえもんは思った。
(俺には関係ない。行け)
ネズミが走り去った。ニャえもんは息を吐くような動作をした。また、前に向いた。また、近づいた。また、ネズミがいた。今度は十匹ほどだった。ニャえもんの体が反応した。でも止めた。前に進んだ。
現代兵器を持つ者たちに、十五歩まで近づいた。磁石を強く押した。今日一番の力を込めた。
M16が、一丁、兵士の手から飛んだ。兵士が叫んだ。周囲の兵士が混乱した。武器が飛んだことで、一帯に動揺が走った。
玄斎の精鋭が、その混乱に乗じた。信長の現代兵器の部隊が、崩れ始めた。
七
須根 夫介はそれを見ていた。「崩れた。本隊を動かす。今だ」
玄斎の本隊が動いた。信長の軍の前線が、大きく後退した。
武は歌い続けていた。のどが痛かった。昨日より痛かった。でも歌い続けた。源七郎が隣にいた。
「届いている。信長の兵が、また立ち止まっている者がいる。昨日より多い」
「昨日より多いか」
「昨日立ち止まった兵士が、今夜の陣で話したかもしれない。あの歌を聞いたと。だから今日は、立ち止まることを知っている人間が多い」
ニャえもんは磁石を使い終えて、後退しようとした。その時だった。
八
ネズミが、来た。一匹ではなかった。十匹ではなかった。波だった。
草の中から、草むらから、戦場の端の土の中から、無数のネズミが出てきた。波のように、ニャえもんの方に向かって来た。
ニャえもんの体が、止まった。怒りが来た。今までとは違う怒りだった。大きかった。深かった。赤が、濃くなった。
(止まれ)
ニャえもんは思った。
(止まれ、俺。これはネズミだ。ただのネズミだ。本能だ。反応するな)
でも——体が動いた。後ずさった。一歩、後ずさった。ネズミが来た。また一歩、後ずさった。
後ずさりながら、ニャえもんは自分の体を見た。赤い手が、震えていた。ネズミへの怒りと、その怒りに支配されていることへの恐怖が、混じっていた。
(駄目だ)
(これは本能だ。でも、俺はこれに負けてはいけない。野火 太一との約束がある。武たちがいる。帰らなければならない)
ニャえもんは踏ん張った。足を止めた。ネズミの波を見た。来ていた。止まらなかった。
ニャえもんは一歩、前に出た。ネズミに向かって、一歩出た。ネズミが散った。一部が散った。でも、まだいた。まだ来ていた。
ニャえもんはまた一歩、前に出た。ネズミが散った。また来た。また前に出た。散った。来た。出た。散った。
繰り返しながら、少しずつ、後退していた。気づいたら、崖の端に近い場所にいた。崖があった。前方に。戦場の端、川沿いの崖だった。須根 夫介が「退路がない」と言っていた方向だった。
(崖だ)
(これ以上後退できない)
ニャえもんは止まった。背後に崖。前からネズミの波。でも——後ずさりは、もうしなかった。
(ここで止まる。足を踏ん張る。体がどう動いても、ここで止まる)
それだけを思った。武の歌が届いていた。野火 太一の笑顔が来ていた。その場所に、ここで立っていると決めた。
九
ネズミが来た。無数だった。波が、ニャえもんに向かって来た。ニャえもんの赤が、最大になった。全身が燃えるような、怒りだった。本能だった。抑えようとした。抑えられなかった。
ニャえもんの中で、何かが叫んだ。声ではなかった。言葉でもなかった。ただ、何かが叫んだ。
野火 太一の顔が出てきた。眠っているような顔だった。
でも今日は——武の歌が、一緒に来た。声がここまで届いていた。山の麓から、武の声が。
ニャえもんは——初めて、あの顔を笑顔として見た。眠っているような顔ではなく。笑っている顔として、見た。
ネズミが来た。ニャえもんは崖の端にいた。後退しないと決めていた。ネズミの波が、足元を覆い始めた。
(大丈夫だよ)
野火 太一の声が聞こえた気がした。
(大丈夫だよ)
ニャえもんの足が、滑った。崖の端で、足が滑った。ネズミに押されたわけではなかった。足元の土が、崩れた。ニャえもんの踏ん張りが、土ごと、崩れた。それだけだった。
ニャえもんは——落ちた。
十
崖の下に、溶鉱炉があった。城の鍛冶場から流れ出た溶けた鉄が、崖の下の川の近くに溜まっていた。ニャえもんは——それが見えた。落ちながら、見えた。熱かった。近づくにつれて、熱が来た。
武が山の麓で、崖の方向を見た。何かが落ちた。赤い何かが落ちた。
「ニャえもん!」
武の声が、戦場に響いた。歌ではなかった。叫び声だった。
須根 夫介が城の高所から見た。崖の方向を見た。見えなかった。角度が悪かった。「何があった」「崖の方向で——赤い何かが」「ニャえもんか」「わかりません」
十一
ニャえもんは、落ちた。溶鉱炉に、落ちた。熱が来た。全身に来た。
落ちながら——ニャえもんは、野火 太一の笑顔を見ていた。困ったような、嬉しそうな顔だった。武の歌が届いていた時に、見えた顔だった。
(武)(須根 夫介)(野火 太一)
それだけだった。言葉はなかった。名前だけだった。名前だけを、思った。
赤が、溶けた。
十二
戦場が変わった。ニャえもんが落ちた瞬間、信長の軍の一部が、動きを止めた。何が起きたかを見ようとした。崖の方向を見た。その隙に、玄斎の軍が押した。信長の軍の前線が、崩れた。崩れが広がった。後退が始まった。
武は走っていた。山の麓から、崖の方向に走った。源七郎が後を追った。
「武、危ない、戻れ」源七郎が叫んだ。武は止まらなかった。
崖の端に来た。下を見た。熱かった。溶鉱炉が、下にあった。赤い何かが、そこにあった。もうそれが何かは、わからなかった。わからないほど、溶けていた。
武は崖の端に立ったまま、動かなかった。源七郎が追いついた。
十三
須根 夫介が崖に来た。走ってきた。武の隣に来た。下を見た。溶鉱炉があった。何かが沈んでいた。
「ニャえもん」須根 夫介は言った。声が、かすれていた。
誰も何も言わなかった。
十四
戦場では、信長の軍が後退を続けていた。玄斎の軍が追った。武次郎の軍が追った。信長の旗が、南の方向に遠ざかっていった。
崖の端に、二人が立っていた。武と、須根 夫介。源七郎が少し離れたところにいた。
武がようやく口を開いた。「……足が滑ったのか」
「そうだと思う」須根 夫介は言った。
「ネズミが来て」
「そうだと思う」
「ニャえもんは——ネズミが嫌いだったから。本能で。記憶がなくても」
「そうだ」
「その本能が、最後に」
「そうだ。俺が見ていた。崖に来るまで、止まろうとしていた。だから磁石も使えた。前進もできた」
「止まれたんだ」武は言った。
「止まれていた。ただ——足元の土が」
「わかった」武は言った。「もういい」
熱い風が吹き上がってきた。武が泣いた。声を出さなかった。涙だけが出た。
須根 夫介は泣かなかった。目が赤くなっただけだった。計算が、止まっていた。止まったまま、戻ってこなかった。今は——計算しなくていいと思った。今は、ただ、ここにいればいいと思った。
十五
戦場から、信長の軍が消えた。後退が完全になった。三人は崖の端から離れた。武が最後まで崖の端にいた。須根 夫介が武の肩に手を置いた。武は動いた。三人で、城に向かって歩いた。
源七郎が歩きながら言った。「ニャえもんは——最後まで、人を殺さなかった」
「そうだ」須根 夫介は言った。
「磁石を使って、信長の軍の前線を崩した。でも、死者は出していない」
「そうだ」
「それが——ニャえもんという者だった」
「そうだ」
城に戻った。Davidたちが待っていた。崖の方向を見ていた。須根 夫介が近づいた。Davidが須根 夫介を見た。須根 夫介は白い紙を取り出した。何も描いていない紙だった。それを持ったまま、崖の方向を指した。それだけだった。Davidは黙って、その方向を見た。長い時間、見た。
武が広間に来た。集まっていた人間が、武を見た。武の目が赤かった。誰も何も言わなかった。
武は広間の中央に立った。歌い始めた。のどが限界だった。声がかすれていた。それでも歌った。ニャえもんのために歌った。野火 太一のために歌った。ここにいる全員のために歌った。
Davidたちも聞いていた。言葉はわからなかった。でも聞いていた。Davidの目が、また揺れた。
歌が終わった。広間が静かになった。
源七郎が武の隣に来た。「ニャえもんは、最後まで人を殺さなかった。それだけは確かだ」
「そうだな」武は言った。「根拠はないけど——野火 太一も、そう言うと思う」
「根拠はなくていい。俺が見ていた。それで十分だ」
第十五話「ネズミの波」 了
ネズミについて。猫型ロボットの天敵がネズミというのは、設計の段階で見落とされていたのか、それとも意図的だったのか。欠陥品には欠陥があり、欠陥品の天敵は思わぬところに潜んでいる。ニャえもんが戦国時代を生き延びながら、最後はネズミに敗れたという事実は、皮肉と呼ぶには重すぎる。そう呼ぶしかないが。




