第十一話「差し出せ」
一
信長からの返答が来たのは、その日の午後だった。
「玄斎の城への攻撃は、当面見送る。ただし——条件がある。赤い化け物を差し出せ」
「ニャえもんを差し出せ、ということか」源七郎が言った。
「そう読める」
「差し出さなければ」武は言った。
「攻めてくる。少なくともその可能性は高い」
「差し出さない」武は言った。「そこだけ、はっきりさせておく」
「当然だ」源七郎が言った。
「交渉を続ける」須根 夫介は言った。「別の条件を提示する。時間を稼ぐ」
「別の道は?」
「一つ、ある」須根 夫介は言った。「信長の軍の中にいる異人たちと、直接話す。彼らは別の時代から来た人間だ。信長に使われている。しかし、ここにいたくて来たわけではないはずだ。ならば——帰りたいと思っているかもしれない」
「帰る方法は、あるのか」
「わからない。ただ、わたしたちが転移してきた。それは事実だ。方法が存在するという根拠には、なる」
「交渉は、可能性の提示だ。確実なことだけ言っていては、交渉にならない」
武はしばらく黙った。それから言った。「須根 夫介、お前——本当に信長に勝つ気があるか」
「ある」即座に。
「どんな根拠で」
「根拠はない」少し間を置いて。「でも、そう思う」
武が笑った。「野火 太一から感染したな」
「そうかもしれない」
二
その夜、武は一人で城壁の上に立った。
「野火 太一」小声で言った。「俺は今も怖い。お前がいた時も怖かった。お前がいなくなってから、もっと怖い。でも——歌う。お前がいなくても、歌う。それしかできないから」
空は暗かった。星があった。
「ニャえもんは、どこかにいる。お前が死んでから、ニャえもんが何をしていたか、俺は知っている。人を殺さなかった。子供を見たら、光る石を出した。それはお前に教わったことだと思う。お前がニャえもんに、そういうものを残した。だから——向こうで、安心していてくれ」
それだけ言って、また歌い始めた。夜の城壁の上で、小さく、誰に聞かせるわけでもなく、歌った。
三
翌朝、須根 夫介が源七郎と信長への返答を書いていた時、武が部屋に来た。
「野火 太一のことを聞いていいか」
「聞いていい」
「お前から見た野火 太一は、どんな人間だった」
「合理的な人間ではなかった」須根 夫介は言った。「感情で動いた。でも野火 太一の判断が間違っていたことは、ほとんどなかった。感情で動いているのに、結果として正しかった。それがわたしには不思議で、一方で羨ましかった」
「羨ましかったか」
「わたしは計算しなければ動けない。でも野火 太一は、計算なしに正しく動けた。その違いは何に由来するのか、わたしはずっと考えていた」
「答えはわかったか」
「わからない」須根 夫介は言った。「ただ——野火 太一は、周りを信じていた。自分の感覚より先に、周りを信じていた。それがわたしとの違いかもしれない」
「須根 夫介は今、周りを信じてるか?」
「……少しずつ。野火 太一がいなくなってから、少しずつ、そういうことを学んでいる気がする」
「いなくなってから、教わってる」
「そうかもしれない」源七郎が筆を持ったまま、黙って二人の話を聞いていた。
四
玄斎からまた呼び出しがあった。
「差し出しません」武が言った。「差し出す理由がない」
「代案は」
「交渉の継続を求める返答を送ります」須根 夫介は言った。「時間を稼ぎながら、信長の軍の異人たちに直接接触を試みます。彼らは別の時代から来た人間です。帰りたいと思っている可能性がある。帰る方法を示せるなら——信長の手から離れるかもしれない」
「やれ。ただし、失敗した場合の覚悟はしておけ」
「しています」
五
野火 太一が生きていたら、今夜の会議をどう聞いたか。武は思いながら、城壁を降りた。「でも大丈夫だよ」と言ったかもしれない。根拠はなく、でも確信があるように。野火 太一の「大丈夫だよ」は、そういう力があった。
第十一話「差し出せ」 了
信長の条件について。「赤い化け物を差し出せ」という要求は、合理的だった。信長の視点から見れば、脅威を除去する最も効率的な方法だ。ただし、差し出す側の論理は違った。武は「差し出す理由がない」と言った。論理ではなく、それだけだった。戦というのは、たいてい合理と非合理がぶつかる場所で起きる。




