第十話「極悪の足跡」
一
報告が届き始めた。
「北東の山中で、赤い化け物を見た。こちらに気づいた瞬間、消えました。木の陰に」
「南の村から使いが来ました。赤い怪物が現れて、信長の兵が一夜にして全員倒されたと」
「死んだのか」
「倒されたとだけ言っています。村人への被害はなかったようです」
武は黙った。信長の兵が全員倒された。村人には被害がなかった。それは——選んでいる、ということだ。
二
さらに二日後、報告が重なった。信長の徴税に来た役人が一人残らず逃げ帰った。赤い怪物が現れて、役人の刀を全て奪い取り、集落の外に投げ捨てた。怪我はさせなかった。
農民から直接、城に訴えが来た。「赤い怪物に助けてもらった。信長の兵に土地を奪われそうになっていたところに赤い影が現れ、兵士たちを追い払った。わたしたちには何もしませんでした。また山の中に消えた」
武は全ての報告を聞いた後、一人で城の廊下を歩いた。
ニャえもんの一ヶ月。信長の兵を倒した。砦を廃墟にした。農民を助けた。でも死者は出していない。
武はそれが——なぜか、泣きそうになるほど、大切なことだと思った。赤くなって、目が変わって、山に消えた。何をするかわからないと思っていた。でもニャえもんは、人を殺さなかった。
「野火 太一」武は小声で言った。廊下の窓から空を見た。誰も聞いていなかった。「ニャえもんは、お前を失っても——ちゃんとしてたぞ。俺たちが思ってたより、ずっとちゃんとしてた」
空は何も答えなかった。当然だった。
三
さらに一日が経った。新しい報告が来た。
信長の支隊——百人ほどの兵が、山道で何かに遭遇し、壊走した。
「赤い化け物でした。突然、山道の前から来た。最初は一つの影が見えて、止まって、俺たちを見て——言いました。化け物が、言葉を言いました。行け、とだけ。低い声で。それで皆が逃げました。追いかけては来なかった。行け、と言って、俺たちが逃げたら、また山の中に消えた」
「行け」とだけ言った。追いかけなかった。武はその話を聞いて何かを確信した。ニャえもんはまだニャえもんだ、ということだった。
四
その日の夜遅く、源七郎が武のところに来た。
「外から見た場合、そう見えない可能性がある。信長の兵が壊走した、砦が廃墟になった——それだけ見れば、制御できない化け物が暴れているということになる。玄斎殿が、それをどう判断するか」
「玄斎が、ニャえもんを危険視するかもしれない」
「可能性がある。玄斎殿は智略の人だ。感情で動かない。この城に害をもたらすと判断すれば——切るかもしれない」
「俺が話します」
「一人で行くな。俺も一緒に行く」
翌朝、武と源七郎は玄斎のもとへ行った。玄斎はすでに待っていた。全部知っていた。
武は論理ではなく、正直に話した。ニャえもんのことを話した。最初に会った時のことを。廃屋で並んで星を見たことを。野火 太一が死んだ夜のことを。そして——人を殺していないことを。行け、とだけ言って追い払うだけだったことを。
「ニャえもんに、直接話したい」玄斎は言った。
「話していただけますか」
「話す。その上で、判断する」
五
玄斎に話した日の夕方、また報告が来た。
赤い影が、ある村で子供と遊んでいたという。
「一番度胸のある子が近づいたんです。そうしたら化け物が——胸から光る石を出して、見せたりして。子供たちが集まってきて、化け物の周りに。化け物は逃げなかった。ただ子供たちと座って。日が暮れるまで、そこにいたそうです」
「何か言ったか」
「子供たちが聞いたら、名前を言ったそうです。ニャえもん、と」
武は報告を聞き終えて、しばらく動けなかった。
光る石を出した。子供たちと並んで座った。日が暮れるまで、そこにいた。それは——「極悪ニャえもん」の行動ではなかった。それは、武が知っているニャえもんの行動だった。子供が好きなニャえもん。小四郎のことを「覚えている」と言ったニャえもん。
「泣きそうだ」武は言った。源七郎に。
「泣けばいい」
「男が——」
「泣けばいい」源七郎は繰り返した。
武は泣かなかった。でも、目が赤くなった。
「ニャえもんは、大丈夫だった。俺が思っていたより、ずっと大丈夫だった」
六
その夜、武は城壁の上に立った。
夜風が吹いていた。森の方を見た。
武は大きく息を吸った。それから、歌った。小さな声だった。城下に聞かせるためではなく、ただ、森の方へ向けて。
歌いながら、思った。聞こえているか。どこにいても、聞こえているか。
お前は、人を殺さなかった。子供を見たら、光る石を出した。それだけは変わらなかった。
歌が終わった。森は暗かった。何も聞こえなかった。
第十話「極悪の足跡」 了
「極悪」という言葉について。後世の語り部たちはニャえもんを「極悪ニャもん」と呼んだが、本人は極悪になろうとしたわけではない。設計書がなく、欠陥だらけで、大切なものを失った結果として、そうなった。これを「極悪」と呼ぶのが正確かどうかは、読む人次第だ。ただし被害を受けた側にとっては、動機は関係ない。




