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『AIでいい』と言われたので、本当に何もしなくなったら職場が壊れた  作者: そらのことのは


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9/12

第9話 視線が、集まっていた

木曜の朝十時。


内線電話が鳴り響いた。


朝倉陽菜が受話器を取る。


「はい、営業部の朝倉です」


「……え?」


陽菜の顔から、血の気が引いた。


「申し訳ありません。すぐに確認いたします」


受話器を置いた陽菜の手が、小刻みに震えている。


「どうした」


田中部長が立ち上がった。


「D社の大型案件で、システムの致命的なエラーが発覚しました」


「なんだと」


「今日の十五時までに修正版を出せないと、先方の役員説明に間に合いません」


フロア全体の空気が、一瞬で凍りついた。


D社案件。


今期最大の売上を見込んでいる案件だ。


佐伯由奈は、その緊迫した空気の中で、水瀬湊だけが淡々と画面を見続けているのに気づいた。



十一時。


緊急会議が招集された。


田中部長、陽菜、中島ひかり、高梨恒一、由奈、そして湊。


「システム部からの報告です」


部長がホワイトボードに状況を書き出す。


「データベースの構造変更に伴い、出力フォーマットにズレが生じている。手作業での修正が必要」


「どのくらいの作業量ですか」


陽菜が青い顔で聞く。


「データ確認だけで三時間。修正作業で二時間。並行して進めても、ギリギリの時間です」


「人手は?」


「システム部は他案件で手一杯。営業部でデータ確認を手伝ってもらわないと間に合いません」


由奈は会議室の重い空気を感じていた。


全員が疲れ切っている。


陽菜は昨日の残業で既に限界に近い。


ひかりは明らかにキャパオーバーの顔をしている。


「誰が取りまとめをやる?」


部長が会議室を見回した。


その瞬間。


由奈は自分でも気づかないうちに、湊の方を見ていた。


陽菜も、無意識に湊に視線を向けた。


ひかりも、助けを求めるような目で湊を見た。


高梨も、一瞬だけ湊の方を向いた。


会議室にいる全員の視線が、ほぼ同時に、一つの点に集まった。



湊はその視線を、静かに受け止めた。


五人の目が、自分を見ている。


期待と、依存と、「やってくれるはず」という確信を込めて。


いつもなら。


いつもなら、湊はここで静かに手を挙げていた。


「私の方で全体調整を引き受けます。システム部との連携も含めて」


それが、この職場での自分の「役割」だった。


でも今日は違う。


湊はゆっくりと視線を上げた。


「申し訳ありません」


静かな声が、会議室に響いた。


「現在、月次処理を進めています」


部長の眉が、ピクリと動いた。


「水瀬、緊急事態だぞ」


「承知しております。ですが、私は事務担当です」


湊は淡々と続けた。


「システム調整や営業データの全体管理は、私の業務範囲外です」


「そんなこと言ってる場合か」


「緊急事態であればこそ、適切な権限を持つ方が担当すべきです」


完璧な正論だった。


反論の余地がない。


陽菜が、信じられないという顔で湊を見ている。


「水瀬くん……」


「それに」


湊は陽菜を見た。


「私のような事務員が間に入れば、かえって混乱を招く恐れもあります」


「でも、前は」


「前は、出過ぎた真似をしていました」


湊の声は、変わらず平坦だった。


「以後は、担当業務に従います」


会議室に、重い沈黙が落ちた。



「……わかった」


最初に口を開いたのは部長だった。


「朝倉、お前が取りまとめをやれ」


「はい」


陽菜の返事は小さかった。


「佐伯と中島は全力でサポートしろ」


「承知しました」


由奈が頷く。


会議は散会となった。


湊は議事録をまとめながら、その後の展開を静かに見ていた。



午後。


フロアは戦場のような忙しさだった。


陽菜が電話をかけながらデータをチェックし、ひかりが泣きそうな顔で画面を睨み、由奈が黙々と作業を進めている。


湊だけが、いつも通りのペースで事務処理をこなしていた。


誰の手伝いもしない。


誰にも声をかけない。


ただ、自分の仕事だけを。


十四時三十分。


「修正完了しました」


陽菜が疲れ切った声で報告した。


「先方に送信します」


十五分後。


「確認取れました。問題ありません」


フロア全体に、安堵のため息が漏れた。


でも誰の顔にも、達成感はなかった。


ただ、重い疲労だけがあった。



夕方。


由奈は片付けをしながら、今日の出来事を振り返っていた。


会議室で全員の視線が湊に向かった瞬間。


あれは偶然じゃない。


みんなが無意識に、湊を「何でも屋」として頼りにしていた。


でも彼は、それを拒絶した。


明確に、冷静に、線を引いた。


由奈は手元のメモ帳を開いた。


先週から続けている記録。


「誰かが、調整していた」


「その人が、やめた」


「だから、回らなくなった」


由奈はペンを取り、最後の一行を書いた。


「その人は、水瀬湊」


ついに、答えが言葉になった。



同じ時間。


湊は定時で席を立った。


「お疲れ様でした」


誰にともなく声をかけて、フロアを出る。


エレベーターの中で、湊はスマートフォンを取り出した。


転職サイトのアプリ。


先日ブックマークした求人を開く。


「チームの調整業務全般をお任せします」


「部門間調整・進行管理の経験を評価します」


湊は画面を見つめた。


そして、「応募する」ボタンに指を置いた。


少しの迷い。


でも、もう後戻りはできない。


湊は静かに、そのボタンを押した。


画面に「応募完了」の文字が表示される。


エレベーターが一階に着いた。


湊はスマートフォンをポケットにしまい、出口に向かった。


今日、会議室で全員の視線が自分に向かった瞬間のことを思い出しながら。


あの視線を、湊はもう「期待」とは呼べなかった。


そのことに、ようやく気づけた。


冷たい夜風が頬に当たる。


湊は歩き出した。


新しい場所へ向かって。

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