第8話 誰かが、調整してたんだろうな
水曜の朝。
高梨恒一は、コーヒーを飲みながら数年前のことを思い返していた。
水瀬湊がこの部署に配属されてきた頃。
あの時の職場は、今よりもずっとギスギスしていた。
営業と事務の間に見えない溝があり、会議では誰かが必ず声を荒らげ、ちょっとしたミスが部署間の対立に発展することも珍しくなかった。
それが、いつの間にか丸くなっていた。
会議は時間通りに終わり、雑談には笑い声があり、小さなトラブルも大事にならずに収まるようになった。
高梨は、それを時間が解決したのだと思っていた。
メンバーが慣れ、自然と良い空気が醸成されたのだと。
でも最近の職場を見て、その認識が間違いだったことに気づき始めていた。
空気は、自然に良くなったわけではない。
誰かが、見えないところで調整し続けていたんだ。
◇
午前中。
小さな事故が起きた。
総務部からの電話で、中島ひかりが青ざめていた。
「備品の発注数、間違ってました」
受話器を置いて、ひかりが小さく呟く。
「十個のところを百個で入力してしまって」
朝倉陽菜が振り返った。
「また?」
声に、少しだけ疲れがにじんだ。
「前にも似たようなことがあったよね」
「すみません」
「総務の人、なんて言ってた?」
「今後は入力時のダブルチェックを、って」
「そりゃそうでしょうね」
陽菜がため息をつく。
フロアに、微妙な沈黙が落ちた。
高梨は書類から顔を上げた。
こういう時、以前なら誰かが場を和ませていた。
「俺も昔、ゼロ一個多く発注したことありますよ」とか。
「最初の頃は誰でも通る道ですから」とか。
その一言で、ミスは「よくある話」に変わり、空気も緩んだ。
今日は、その一言が出てこない。
高梨は湊の方を見た。
彼は画面に向かって、淡々とキーボードを叩いている。
何も言わない。
何もしない。
ひかりの肩が、小さく落ちたまま上がらなかった。
◇
昼休み。
高梨は給湯室で佐伯由奈と鉢合わせた。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
由奈がコーヒーを入れながら、ふと口にした。
「さっきの中島さんの件、なんか空気が重くて」
「よくあるミスだけどな」
「そうなんですけど」
由奈は言葉を探すような顔をした。
「前は、こういう時、もう少し空気が柔らかかった気がして」
高梨はお茶のパックを取り出しながら、静かに言った。
「誰かが空気読んでたんだろうな」
由奈の手が、一瞬止まった。
「みんなが読んでたんじゃなくて?」
「違う」
高梨は首を振った。
「みんなが空気読んでたんじゃない。誰か一人が、全員分読んでたんだろ」
由奈は黙って聞いている。
「職場の空気ってのは、放っておいて勝手に良くなるもんじゃない。誰かが見えないところで、ずっと手を入れてる」
高梨はお湯を注いだ。
「そういう人間が手を引けば、こうなる」
「その人って」
「佐伯さんも、薄々気づいてるんじゃないか?」
高梨はそれだけ言って、給湯室を出た。
由奈は一人残され、コーヒーカップを両手で包んだ。
◇
午後。
由奈はフロアに戻りながら、高梨の言葉を反芻していた。
誰か一人が、全員分の空気を読んでいた。
その人が、やめた。
由奈は自分の席に座り、そっとフロア全体を見渡した。
陽菜が疲れた顔で画面に向かっている。
ひかりが萎縮したように書類を整理している。
高梨が黙々と作業をしている。
そして湊が、誰とも目を合わせず、静かに自分の仕事だけをこなしている。
由奈の頭の中で、これまでの違和感が一本の線で繋がった。
会議での絶妙なフォロー。
雑談の時の自然な相槌。
言い合いになりそうな時の、さりげない論点整理。
全部、彼だったんじゃないか。
由奈は手元のメモ帳を開いた。
ペンを取って、ゆっくりと文字を書いた。
「誰かが、調整していた」
「その人が、やめた」
「だから、回らなくなった」
ペン先が止まる。
由奈は顔を上げて、もう一度湊を見た。
彼は今日も、定時になると静かに帰り支度を始めた。
誰とも話さず、誰にも声をかけず。
ただ自分の荷物を持って、出口に向かう。
その背中を見ながら、由奈はメモ帳に最後の一行を書いた。
「その人は……」
由奈は、そこでペンを止めた。
書ける。
でも、まだ書かなかった。
◇
同じ時間。
湊はエレベーターの中で、スマートフォンを取り出した。
転職サイトのアプリ。
先週インストールしたまま、一度も開いていない。
画面に指を置いて、少し迷った。
そして、アプリを開いた。
「あなたに合った求人情報」
いくつかの候補が表示される。
事務職、調整業務、コミュニケーション重視。
どれも、見覚えのある言葉ばかりだった。
「チームの潤滑油として活躍していただきます」
「職場の雰囲気作りにも積極的に関わっていただける方を歓迎」
そんな文字が、画面に並んでいる。
湊は小さくため息をついた。
どこに行っても、結局同じことを求められるのかもしれない。
今度は最初から、それが仕事だと分かっている場所で。
エレベーターが一階に着いた。
湊はアプリを閉じて、ポケットにしまった。
まだ決めたわけじゃない。
でも、選択肢があることは知っておきたかった。
冷たい夜風が頬に当たった。
湊はコートの襟を立てて、駅に向かって歩き出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
面白いと感じていただけましたら、リアクションや評価、
ブックマークで応援していただけると励みになります。




