第7話 言葉になる違和感
火曜の朝。
佐伯由奈は出社してすぐに、フロア全体に漂う微妙な緊張感を察知した。
朝倉陽菜が、いつもより早く出社して資料と格闘している。
昨夜遅くまで残業していたのは知っているが、まだ完成していないらしい。
システム部からのデータ提供は今朝九時の予定。
会議開始まで一時間しかない。
由奈は自分の席に座りながら、陽菜の緊張した横顔を横目で見た。
普段なら、こういう時に誰かが「大丈夫ですか」と声をかけたりする。
でも今朝は、誰もそれをしなかった。
水瀬湊は、いつものように淡々と書類を整理している。
何も言わない。
何もしない。
◇
九時過ぎ。
システム部からメールが届いた。
「来ました」
陽菜が小さくつぶやいて、データファイルを開く。
数字の羅列が画面に表示される。
それを一時間で資料に落とし込むのは、明らかに無理があった。
「中島さん、コピーお願いします」
陽菜が印刷した資料をひかりに渡す。
「何部ですか」
「五部。急いで」
「はい」
ひかりが慌ててコピー機に向かう。
由奈はその一連の流れを見ながら、違和感を覚えた。
いつもなら、もう少しスムーズに進んでいた気がする。
事前の準備。根回し。段取り。
何かが、足りない。
◇
十時。
企画会議が始まった。
陽菜が二つの案を発表する。
新規重視案と、バランス案。
データは揃っているが、整理が粗い。
時間が足りなかったのは一目瞭然だった。
「バランス案の配分比率ですが」
高梨恒一が手を挙げた。
「新規六割、既存四割という根拠を教えてください」
「過去の獲得コストと、既存顧客の平均利用期間から算出しました」
「計算の詳細は?」
陽菜が資料をめくる。
少し手間取った。
「こちらのシートに記載していますが」
「このデータ、去年のものですね。今年の市場環境とは条件が違うのでは」
「基本的な傾向は変わらないと判断しました」
「その判断の根拠は?」
陽菜の表情が、少しずつ硬くなっていく。
由奈は会議室の空気を感じていた。
重い。
以前の会議には、もう少し「逃げ道」があった。
誰かが論点を整理したり、「一旦まとめましょう」と場の温度を下げたり。
でも今日は、その調整が入らない。
質問と回答が、そのままぶつかり合っている。
◇
三十分後。
「準備不足で申し訳ありません。午後までに詳細を整理して、再提出します」
陽菜が頭を下げた。
「そうしてくれ。スケジュールは限られているからな」
田中部長が立ち上がる。
また持ち越しになった。
先週と同じ結末。
でも先週より、全員の疲労感が濃い。
会議室を出ながら、由奈は湊を見た。
彼は議事録をまとめている。
淡々と、正確に。
でも、それ以外は何もしていない。
◇
午後。
小さな事故が起きた。
ひかりが陽菜に書類を渡した時のことだ。
「A社の見積書、できました」
「ありがとう。机に置いて」
陽菜は画面から目を離さずに答えた。
午後の会議に向けて、資料の修正に追われている。
ひかりが書類を置く。
陽菜がふと目を落とした。
「ちょっと待って。ファイル名、これ間違ってない?」
「え?」
「『202405』になってるけど、来月分だから『06』でしょ」
「あ、すみません。コピペして直すの忘れました」
「こういうミス、前にもあったよね」
陽菜の声に、少しだけ疲れがにじんだ。
「お客様に出すものなんだから、もう少し注意して」
ひかりがビクッと肩を震わせる。
「すみません、すぐ直します」
ひかりが書類を抱えて、自分の席に戻る。
フロアに、微妙な沈黙が落ちた。
由奈はその一部始終を見ていた。
陽菜は悪い人じゃない。
ただ余裕がないだけだ。
ひかりのミスも、よくあることだ。
でも、いつもならここで誰かが空気を緩める。
「月末月初は、新人あるあるですよね」とか。
「僕も昔、一年分間違えたことがありますよ」とか。
その一言で、失敗は「よくある話」に変わり、緊張も和らぐ。
今日は、その一言が出てこなかった。
◇
夕方。
由奈は給湯室でコーヒーを入れていた。
一人になって、今日一日を振り返りたかった。
「お疲れ」
後ろから声がして、振り向くと高梨が立っていた。
「お疲れ様です」
「会議、長引いて悪かったね」
「いえ」
由奈はコーヒーが落ちるのを待ちながら、思い切って口を開いた。
「高梨さん、最近職場の雰囲気、変わりましたよね」
高梨が手を止めた。
「雰囲気?」
「はい。なんというか、前はもっとうまく回ってた気がして」
「うまく回ってた、か」
高梨は少し考えた。
「佐伯さんは、なぜ回らなくなったと思う?」
「それは……」
由奈は言葉を探した。
「みんな忙しいから、でしょうか」
「忙しさは、今に始まったことじゃない」
高梨がお茶のパックを取り出しながら言った。
「職場ってのは、放っておいて勝手にうまく回るもんじゃないんだよ」
「え?」
「誰かが、見えないところで調整してるんだ。会話の橋渡しとか、場の空気の調整とか」
由奈は高梨の横顔を見つめた。
「それがなくなったから、歯車が合わない」
高梨はそう言って、お湯を注いだ。
「その『誰か』に心当たりがあるなら、その人が前と違うことをしていないか、よく見てみるといい」
それだけ言って、高梨は給湯室を出て行った。
◇
由奈は一人残されて、コーヒーカップを両手で包んだ。
誰かが、調整していた。
その人が、やめた。
だから、うまく回らなくなった。
由奈は頭の中で、今週の出来事を並べ直した。
雑談が滑った時。
会話が着地しなかった時。
会議が迷走した時。
打ち合わせがギクシャクした時。
「入るはずの一言」がない。
フォローがない。
整理もない。
クッションもない。
その「一言」を言っていたのは、誰だったんだろう。
由奈はフロアに戻りながら、一人ひとりを思い浮かべた。
陽菜は変わっていない。むしろ余裕をなくしている。
ひかりは変わっていない。
高梨も、田中部長も、前から同じだ。
では、誰が。
由奈は自分の席に座り、そっと湊の方を見た。
彼は定時になり、帰る準備をしている。
誰とも目を合わせず、誰とも雑談せず。
ただ静かに、自分の仕事だけをして帰っていく。
その姿を見て、由奈の胸に一つの疑念が芽生えた。
もしかして。
まさか。
でも、そう考えると全ての辻褄が合う。
由奈は手元のメモ帳を開いた。
ペンを持って、一行だけ書いた。
「前は、もっと何か言ってた人がいる」
名前は、まだ書けない。
確信には、もう少し時間が必要だった。
でも、答えはもうそこにある。
由奈はそれを、静かに感じていた。
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