第6話 陽菜が、詰まった
月曜の朝、八時三十分。
朝倉陽菜は、いつもより三十分早く出社した。
先週の会議で積み残された案件が、週末も頭から離れなかった。
新規重視案とバランス案。
明日の火曜日までに、両方とも説得力のある数字で仕上げなければならない。
静かなフロアで、陽菜は自分のデスクに座った。
まずは過去のデータを整理して、高梨を納得させる根拠を作る。
そのために必要なのは、システム部が管理している既存顧客の詳細データ。
陽菜は内線番号を確認して、受話器を取った。
◇
「システム部の佐藤です」
「おはようございます。営業の朝倉です。お忙しいところすみません」
「何でしょうか」
「既存顧客の過去一年分の利用データを抽出していただきたくて。明日の企画会議で使用する資料なので」
「利用データですか。どんな条件で?」
「えっと、顧客別の月次利用金額と、サービス別の利用頻度を」
「条件が曖昧ですね。もう少し具体的に言ってもらえますか」
陽菜は手元のメモを見た。
でも、どこまで詳しく指定すればいいのかがわからない。
「全顧客の、各月の売上金額と、あと……」
「抽出条件をクエリで書いてもらえます? その方が早いので」
「クエリですか?」
「SQLです。書けませんか?」
陽菜は一瞬、言葉に詰まった。
SQLなんて、書けない。
「申し訳ありません、そちらは詳しくなくて」
「そうですか。じゃあ、こちらで条件を整理しますけど、時間かかりますよ。今、別の案件で手が離せないので」
「どのくらいかかりますか」
「早くて明後日ですね」
「それだと、会議に間に合わないんです」
「うーん、困りましたね」
電話の向こうで、佐藤さんが少し考える気配があった。
「まあ、急ぎなら仕方ないですけど。でも今日の夕方以降になります」
「ありがとうございます」
陽菜はホッとした。
でも電話を切った後、何かが引っかかった。
前にも同じような依頼をしたことがある。
その時は、こんなにややこしくなかった。
なぜだろう。――前と同じことをしているはずなのに。
◇
九時過ぎ。
湊が出社してきた。
陽菜は、ふと思い立って声をかけた。
「水瀬くん、おはよう」
「おはようございます」
「さっきシステム部にデータの依頼をしたんだけど、なんか時間がかかるって言われちゃって」
「そうですか」
湊は淡々とした声で返した。
「前は、もっとすぐに出してもらえた気がするんだけど」
「そうでしたか」
「水瀬くんって、システム部の人と話したりする?」
「業務上、必要な時は」
「佐藤さんって、どんな人?」
湊は少し考えた。
「几帳面な方です。条件が整理されていれば、対応は早いと思います」
「条件が整理されていれば」
「はい」
そこで会話が止まった。
陽菜は、何か続きを期待していた。
「こういう風に頼むといいですよ」とか。
「事前にこれを準備しておくと」とか。
でも湊は、自分の席に向かった。
陽菜は一人で、「条件が整理されていれば」という言葉を反芻した。
◇
午前中。
陽菜は手元にある資料だけで、なんとか数字をまとめようとした。
でも、どうしても説得力に欠ける。
高梨が求めているのは、感覚論ではなく根拠のある配分比率。
それには、もっと詳細なデータが必要だ。
十一時頃、陽菜は高梨の席に向かった。
事前に相談しておけば、明日の会議がスムーズになるかもしれない。
「高梨さん、少しお時間よろしいですか」
「どうぞ」
高梨は書類から顔を上げた。
「明日の会議の件で、バランス案について少しご相談したくて」
「ああ」
「高梨さんがおっしゃった、新規と既存の配分比率なんですが」
「うん」
「どういう形でお示しすれば、わかりやすいでしょうか」
高梨は少し考えた。
「過去の実績と、それに基づく予測値があるといいね」
「過去の実績ですか」
「既存顧客の離脱率とか、新規獲得のコストとか。そういう数字を並べて、どちらにどれだけリソースを割くのが効率的か、根拠を示してほしい」
「なるほど」
陽菜はメモを取った。
でも、そのデータを揃えるのは、一人では難しい。
「高梨さん」
「何?」
「こういう根回し、最近は自分でやることが多くなったんですが」
「そうなの?」
「前は、もう少し……」
陽菜は言いかけて、止まった。
前は、どうだったんだろう。
「前は、もっとスムーズに進んだ気がして」
高梨がそう言った。
「え?」
「いや、こっちの勘違いかもしれないけど」
高梨は苦笑した。
「最近、事前の調整が少し大変そうに見えて」
陽菜は返事に困った。
自分では、前と変わらずやっているつもりだった。
でも、確かに最近はうまくいかないことが多い。
「頑張ってるのは分かるから、気にしないで」
高梨はそう言って、書類に目を戻した。
陽菜は席に戻りながら、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚があった。
◇
昼休み。
陽菜は一人で昼食を取りながら、午前中の出来事を振り返った。
システム部への依頼。
高梨への相談。
どちらも、前ほどスムーズにいかなかった。
なぜだろう。
自分のやり方が変わったわけじゃない。
でも、相手の反応が違う。
温度が、少し冷たい。
陽菜はサンドイッチを一口食べて、お茶を飲んだ。
食欲があまりない。
「前は、もっとスムーズに進んだ気がして」
高梨の言葉が、頭から離れなかった。
◇
午後。
システム部の佐藤さんから電話があった。
「朝倉さん、データの件ですが」
「はい」
「やっぱり今日は無理でした。明日の朝一番に回しますので」
「明日の朝ですか」
「会議は何時からでしたっけ?」
「十時からです」
「ギリギリですね。九時頃にメールで送ります」
「ありがとうございます」
電話を切って、陽菜は小さくため息をついた。
ギリギリ。
資料を整理する時間が、ほとんどない。
こういう時、前はどうしていたんだろう。
陽菜は記憶を辿った。
システム部への依頼。
いつもなら、前日には手元にデータが揃っていた。
誰かが事前に調整してくれていたような。
誰が?
陽菜は無意識に、湊の方を見た。
彼は今日も、淡々と画面に向かっている。
◇
十六時。
陽菜は意を決して、湊の席に向かった。
「水瀬くん、少しいいかな」
「はい」
「システム部のデータの件なんだけど」
「はい」
「明日の朝にならないと出てこなくて。会議に間に合うかギリギリで」
湊は黙って聞いていた。
「それで、もしよかったら、水瀬くんから佐藤さんに一言お願いしてもらえないかな」
「と、いいますと?」
「前みたいに、少し調整してもらえると助かるんだけど」
湊は少し考えた。
そして、静かに首を振った。
「申し訳ありません。それは私の業務範囲外です」
「え?」
陽菜は思わず声を出した。
「でも、前はやってくれたじゃない」
「前は、出過ぎた真似をしていました」
湊の声は、いつもと同じように平坦だった。
「システム部への依頼は、各担当者が直接行うのが適切です」
「そんな……」
「私が間に入ることで、情報の伝達ミスが起きる可能性もあります」
正論だった。
反論する余地がない。
「それに」
湊は続けた。
「私はただの事務担当ですから」
その一言が、陽菜の胸に刺さった。
「AIみたいですよね」
自分が言った言葉が、ブーメランのように返ってきた。
AIに、相談なんてできない。
AIは、指示されたこと以外はやらない。
「わかった。ありがとう」
陽菜はそう言って、自分の席に戻った。
◇
夕方。
佐伯由奈は、今日一日の陽菜を観察していた。
朝の早出。
システム部への電話。
高梨への相談。
湊への依頼と、その拒絶。
どれも、以前なら違う展開になっていたはずの場面だった。
由奈は手元のメモ帳を開いた。
先週から続けている、小さな記録。
「月曜:雑談が滑る」
「火曜:会話が着地しない」
「水曜:打ち合わせがギクシャク」
「木曜:報告で詰まる」
「金曜:会議が迷走」
「今日:社内調整が空回り」
一週間分の違和感が、一列に並んでいる。
由奈はペンを取った。
「前は、うまくいっていた」
「今は、うまくいかない」
「変わったのは?」
ペン先が止まる。
誰かが、何かをやめた。
その「何か」と「誰か」が、この職場の歯車を回していた。
由奈は顔を上げて、フロアを見渡した。
湊が、定時で帰る準備をしている。
陽菜が、まだ資料と格闘している。
普通の夕方の光景。
でも、その中に答えがある。
由奈はメモ帳に、小さく文字を書いた。
「誰かが、調整していた」
まだ、名前は書けない。
でも、もう一歩だ。
◇
十八時。
陽菜は一人でフロアに残っていた。
明日の資料を、手元にある数字だけでなんとかまとめようとしている。
でも、どう見ても説得力がない。
高梨を納得させるには、材料が足りなすぎる。
「私、こんなに要領悪かったっけ」
陽菜は小さく呟いた。
誰もいないフロアに、その声だけが響いた。
営業エース。
部長にそう言われて、悪い気はしなかった。
でも実際は、一人だと、思ったより進まない。
そのことが、今になってわかった。
陽菜はパソコンの画面を見つめた。
不完全な数字が、虚しく並んでいる。
明日の会議は、きっとうまくいかない。
その予感だけが、確実だった。
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