第5話 終わらない会議
金曜の午前十時。
会議室Aに五人が集まった。
田中部長、高梨恒一、朝倉陽菜、佐伯由奈、水瀬湊。
月に一度の企画会議。
議題は来月スタートする新規キャンペーンの販促戦略について。
湊は端の席に座り、ノートパソコンを開いた。
議事録担当。
それが今日の彼の役割だった。
◇
「それでは始めましょう」
田中部長が資料を広げる。
「来月のキャンペーンですが、ターゲットを新規顧客に絞るか、既存顧客も含めるかで方向性を決めたいと思います」
「私としては、新規に特化すべきだと考えています」
陽菜がプレゼン資料を配りながら言った。
「競合他社が既存顧客の囲い込みに走っている今こそ、新規開拓のチャンスです」
声に張りがある。
いつもの陽菜らしい、前向きな提案だった。
「数字的な根拠はありますか」
高梨が静かに聞いた。
「はい。過去三ヶ月のデータを見ると、新規顧客の獲得単価が下がってきています。今なら効率よく取れるはずです」
「既存顧客へのフォローが手薄になりませんか」
「それは、通常業務の範囲で対応できると思います」
最初の十分間は、順調だった。
◇
「でも、既存顧客を軽視するのはリスクが高い」
高梨が腕を組んだ。
「新規獲得に集中するのはいいが、その間に既存の離脱が起きたら元も子もない」
「離脱率は、そこまで高くないですよ」
陽菜が少し眉を上げる。
「現状維持の施策を並行して走らせれば十分です」
「現状維持って、具体的には何をするんですか」
「定期的なフォローコールと、メルマガの配信頻度を上げることで」
「それで離脱を防げる根拠は?」
「過去の事例では効果が出ています」
「どの事例ですか」
陽菜が資料をめくる。
少し手間取った。
「えっと、昨年の夏のキャンペーンで」
「あの時は条件が違いますよね。競合の動きも今とは全然違った」
高梨の指摘は的確だった。
でも、それが陽菜を追い詰めているのも確かだった。
由奈は手元のメモを見ながら、二人のやり取りを聞いていた。
こういう対立は珍しくない。
営業の攻めと、ベテランの慎重論。
いつもなら、ここで誰かが間に入る。
◇
由奴は無意識に、湊の方を見た。
湊はキーボードを叩いている。
二人の発言を、正確に議事録に記録している。
表情は変わらない。
何も言わない。
いつもなら。
いつもなら、この辺りで彼が口を開いた。
「お二人のご意見、どちらも重要な視点ですね。新規獲得の機会を逃さないことと、既存顧客の維持、両方を満たす案を考えてみませんか」
そんな一言で、対立が建設的な議論に変わった。
でも今日は、その一言が出てこない。
◇
「高梨さんは、じゃあどうすればいいと思うんですか」
陽菜の声が、少し尖った。
「新規も既存も、って言うなら予算が足りません」
「予算の話じゃない。優先順位の問題だ」
「優先順位って、新規でしょう。目標値を見れば明らかじゃないですか」
「目標値が現実的かどうかも含めて検討すべきだ」
「現実的じゃないって言うんですか」
「そうは言ってない」
「でも、そういう意味ですよね」
空気が、少しずつ悪くなっていく。
田中部長は腕を組んで黙っている。
彼は判断を下す立場だが、議論を整理するタイプではない。
由奈は時計を見た。
十時三十五分。
予定の終了時刻まで、あと二十五分。
議論は一歩も前に進んでいない。
それどころか、感情的な対立に発展しそうだった。
こういう時、誰かが場を整理してくれるはずなのに。
◇
「そもそも論になってしまいますが」
高梨が静かに言った。
「今回のキャンペーンの目的は何でしたっけ」
「新規顧客の獲得です」
陽菜が即答する。
「それは手段でしょう。目的は売上の向上ですよね」
「それは、そうですが」
「だったら、新規だけにこだわる必要はない」
「でも、部長からの指示は新規重視でした」
「指示の背景を考えるべきだ」
また平行線になった。
陽菜は「指示通りに」やろうとしている。
高梨は「指示の意図を」考えようとしている。
どちらも間違っていない。
でも、噛み合わない。
由奈は胃のあたりが重くなるのを感じた。
誰か、整理して。
論点を分けて、感情を冷まして。
由奈は再び湊を見た。
湊は画面に向かったまま、タイピングを続けている。
記録係として、完璧に機能している。
でも、それだけだった。
◇
十一時。
予定の終了時刻を過ぎた。
「あの」
由奈が思わず口を開いた。
「時間ですが」
全員の視線が由奈に向く。
「今日は、一旦持ち越しにしませんか」
「そうだな」
田中部長が重い声で言った。
「来週の火曜日までに、もう少し具体的な案を出してくれ。新規重視案と、バランス案の両方で」
「わかりました」
陽菜が小さく返事をした。
声から、力が抜けていた。
「以上です」
部長が立ち上がる。
予定を三十分オーバーしても、何も決まらなかった。
◇
会議室に、由奈と湊が残った。
由奈はホワイトボードの文字を消しながら、ふと口にした。
「今日の会議、長引きましたね」
「そうですね」
湊は淡々と返した。
「水瀬くん」
由奈は手を止めて、湊を見た。
「前は、ああいう時、何か言ってくれてませんでしたっけ」
言ってしまった。
確信はないまま、口から出ていた。
湊は由奈を見た。
その目は、いつもと同じように静かだった。
「私は議事録担当ですから」
「でも、前は」
「前は、出過ぎた真似をしていました。申し訳なかったです」
湊は軽く頭を下げて、会議室を出て行った。
由奈はイレーザーを握ったまま動けなかった。
出過ぎた真似。
違う。
あれは、必要なことだった。
あれがあったから、この職場の会議は回っていた。
由奈はプロジェクターの電源を落とした。
暗くなった会議室で、一つの認識が重くのしかかってきた。
◇
午後。
陽菜は自分のデスクで、頭を抱えていた。
来週火曜までに、二つの案を作らなければならない。
新規重視案と、バランス案。
どちらも、高梨を納得させるだけの根拠が必要だ。
一人でやるには、時間が足りない。
それに、どんなデータを集めればいいのかも、正直よくわからない。
陽菜は無意識に、湊の背中を探した。
いつもなら、こういう時、彼が「参考までに」と過去の類似案件を出してくれた。
それがどれだけ助けになっていたか。
今になって、痛いほどわかる。
陽菜は立ち上がり、湊の席に向かおうとした。
でも、一歩を踏み出して、立ち止まった。
「AIみたいですよね」
自分が言った言葉が、足枷のように重くのしかかる。
AIに、相談なんてできない。
AIは、指示されたことしかやらない。
陽菜は唇を噛み、ゆっくりと自分の席に戻った。
初めて、自分の力だけではどうにもならない壁を感じていた。
由奈はその一部始終を、静かに見ていた。
そして手元のメモ帳に、小さく文字を書いた。
「出るはずの一言が、出なかった」
誰の?
まだ名前は書けない。
でも、もうすぐ書けそうな気がした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
当たり前のように回っている空気や会話は、
誰かの意識的な行動で成り立っているのかもしれません。
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次回、もう少し踏み込んだ“気づき”が動き出します。




