第4話 会話の賞味期限
木曜の朝。
朝倉陽菜は給湯室でコーヒーを入れながら、何となく昨日の打ち合わせを思い返していた。
田辺さんの少し冷たい表情。
中島ひかりのしゅんとした肩。
あのギクシャクした空気。
忘れたいのに、頭から離れない。
「おはようございます」
後ろから声がして、振り向くとひかりが立っていた。
「おはよう。今日も早いね」
「昨日の資料、少し直したくて」
「えらいね」
「そうですかね」
ひかりが苦笑する。
陽菜はコーヒーが落ちるのを待ちながら、何か話題を出そうとした。
天気のこと、週末の予定、なんでもいい。
でも言葉が出てこない。
コーヒーメーカーの音だけが続いた。
ひかりがマグカップを洗い終えて、「失礼します」と出て行く。
陽菜は一人で、コーヒーを待った。
給湯室が、こんなに静かだったっけ。
◇
昼休み。
休憩スペースで、陽菜とひかりと佐伯由奈の三人が昼食を取った。
「最近、コンビニのパスタが美味しくなりましたよね」
ひかりが明るく言った。
「そうね」
陽菜が返す。
「前より麺がしっかりしてる気がして」
「わかる」
「あと、量も増えた気がします」
「そうかも」
そこで会話が止まった。
由奈はサンドイッチを食べながら、その様子を見ていた。
続くかと思って待った。
でも続かなかった。
いつもなら、ここから話が広がる。
「そういえば、あの新しいトマト系のパスタも美味しかったですよ」とか。
「コンビニ食品って、技術の進歩がすごいですよね」とか。
誰かが次の一言を出してくれた。
でも今日は、誰も出さない。
ひかりがスマホを取り出す。
陽菜がお茶を飲む。
静かになった。
由奈は「そういえば」と口を開こうとして、やめた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
三人で黙って昼食を食べた。
まるで話題に賞味期限があって、それが切れてしまったみたいに。
◇
午後。
田中部長への進捗報告。
「先月の新規獲得、目標比一二〇パーセントで着地しました」
陽菜は自信を持って報告した。
数字は嘘をつかない。
「うん、よくやってるな」
部長が頷く。
「ただ、A社の契約条件だが、利益率が想定より下がってないか?」
部長が手元の資料を指差す。
「回収見込みのシミュレーション、出てる?」
陽菜は一瞬、言葉に詰まった。
シミュレーションの数字。
資料のどこかにはあるはず。
でも、すぐに出てこない。
「えっと、それは……」
陽菜が資料をめくる。
焦りで手が少し震える。
いつもなら。
いつもなら、こういう時、横からスッと救いの手が伸びてくる。
「部長、回収見込みについては補足資料の四ページに記載しております。現在の利用状況から推移を見ますと、八ヶ月目には損益分岐を超える計算となっております」
落ち着いた、平坦な声。
水瀬湊の声。
その一言が、部長の追及を和らげ、陽菜に考える時間を与えてくれていた。
陽菜は無意識に、斜め後ろを振り返った。
湊は自分のデスクで、キーボードを叩いている。
こちらを見ていない。
当たり前だ。彼は事務担当で、この報告には関係ない。
でも、前は助けてくれた。
「朝倉くん?」
部長の声で、陽菜はハッと前を向いた。
「申し訳ありません。詳細な数字については、後ほど改めて提出させていただきます」
「頼むよ。数字は感覚じゃなくて根拠だからな」
「はい」
陽菜は自席に戻った。
心臓がバクバクしている。
◇
席に座り、陽菜は小さくため息をついた。
自分が、こんなに要領が悪かったなんて。
いや、違う。
要領が悪くなったわけじゃない。
何かが、足りないんだ。
陽菜はそっと、湊の方を見た。
彼は淡々と、画面に向かって作業を続けている。
その横顔は、いつも通りだった。
いつも通り、感情の読めない、静かな顔。
「極端な話、水瀬くんのポジションって、AIでよくないですか?」
自分が言った言葉が、ふと頭をよぎった。
AI。
言われた通りに、正確に作業をこなすだけの存在。
でも、本当にそうだろうか。
会議でのフォロー。
打ち合わせでのクッション。
雑談の時の、絶妙な相槌。
あれを、ただの作業だと思っていたんだろうか。
陽菜は首を振った。
考えすぎだ。
たまたま調子が悪いだけ。
でも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
最近、雑談が長続きしない。
報告で詰まる。
まるで、職場の歯車を回していた油が、少しずつ切れていくみたいだった。
◇
由奈は、その一連の様子を静かに見ていた。
陽菜が部長に詰められ、助けを求めるように振り返った瞬間。
湊が画面から目を離さず、作業を続けた瞬間。
そして、陽菜が席に戻って、小さくため息をついた瞬間。
由奈の頭の中で、バラバラだったピースが、少しずつ形を持ち始めていた。
月曜の沈黙。
火曜の会話の不着地。
昨日のギクシャクした打ち合わせ。
そして今日の、賞味期限の切れた雑談と、報告での詰まり。
共通しているのは――
いや、共通して“欠けている”のは。
由奈は、湊の背中を見つめた。
彼は、何もしていない。
ただ、自分の仕事をしているだけだ。
――それなのに。
「何もしていない」ことが、原因なんじゃないか。
由奈は手元のメモに、小さく文字を書いた。
「前は、もっと何か言ってた」
誰が?
ペン先が止まる。
由奈はメモを見つめた。
まだ、確信はない。
でも、もう気のせいではなかった。
静かに、音を立てずに、崩れ始めている。
◇
夕方。
陽菜は今日一日を振り返りながら、帰り支度をした。
会話が続かなかった。
報告がスムーズじゃなかった。
昼休みが静かだった。
全部、小さいことだ。
仕事の結果に影響するほどじゃない。
でも積み重なると、妙に疲れる。
「水瀬くん、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
湊は振り返らずに返事をして、ロッカーに向かった。
陽菜はその背中を見て、何かを言おうとした。
でも、何を言えばいいのかわからなかった。
エレベーターを待ちながら、陽菜は思った。
話題の賞味期限。
会話の続き方。
埋まらない間。
全部をつなぐ何かが、どこかで消えた気がする。
でも、その“何か”に、まだ名前がつけられなかった。
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