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『AIでいい』と言われたので、本当に何もしなくなったら職場が壊れた  作者: そらのことのは


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第3話 クッションの不在

十四時。


中島ひかりは、会議室Bの前で資料を確認していた。


今日は他部署との定例打ち合わせ。


総務部の田辺さんと、経理の松本さんが相手だ。


議題は先月の備品発注について。


ひかりなりに準備はしてきた。


大丈夫。ちゃんと確認したから。


「ひかりさん、行きましょう」


朝倉陽菜が声をかけてくる。


「はい」


ひかりは深呼吸して、扉を開けた。


◇


十四時五分。


「本日はお忙しい中、ありがとうございます」


田辺さんが丁寧に挨拶する。


三十代前半。穏やかだが、少し硬い印象の人だ。


隣の松本さんは経理部。


こちらは陽菜とひかり、そして議事録担当の水瀬湊。


「先月末の備品発注の件で、確認させていただきたいことがありまして」


田辺さんが切り出した。


「はい」


陽菜が応じる。


「営業部から申請のあった備品リストですが、一部、通常ルートと異なる処理がされていたようで」


「あー、それは急ぎの案件があったので」


陽菜が少し眉を上げる。


「直接メーカーに連絡を入れたんです」


「そのルートを使う場合は、事前に総務への連絡が必要なんですが」


田辺さんの声が、わずかに硬くなった。


◇


「すみません、確認不足でした」


陽菜が素直に頭を下げる。


「今後は気をつけます」


「お願いします」


田辺さんが頷く。


ここで終わればよかった。


でもひかりは、手元の資料を見ながら思った。


前にも同じことがあった。


確か、その時は総務部の方でも対応が統一されていなかったはず。


「あの」


ひかりが口を開いた。


「前回も似たような指摘があったと思うんですけど、その時は総務部の方でも処理が統一されていなかったって聞いていて」


部屋の空気が、一瞬止まった。


「それって、こちらだけの問題じゃないと思うんですが」


悪気はなかった。


ただの事実確認のつもりだった。


でも田辺さんの表情が、明らかに変わった。


◇


陽菜が反射的に湊を見た。


無意識に。


いつもなら、ここで湊が何か言う。


『双方で確認が必要な部分もあったかと思います』


『今後は連携を密にしましょう』


そういう一言が、自然に入ってくる。


でも湊は、手元の議事録を見ている。


ペンを動かしている。


何も言わない。


一秒。


二秒。


三秒。


「えっと」


陽菜が慌てて口を開いた。


「その点については、また改めて確認させていただければ」


言葉が弱い。


着地していない。


田辺さんの顔が、完全に硬くなった。


「……そうですね」


松本さんが静かに言った。


「ただ、今回の件に関しては、ルールの周知不足もあったかと思いますが、事前連絡は基本中の基本ですので」


声が冷たい。


◇


その後の十分間が、やけに長く感じられた。


業務的な確認事項を淡々とこなす。


でも会話の端々に、トゲがあった。


「では、今後はよろしくお願いします」


田辺さんが立ち上がる時の動作が、少し早かった。


「こちらこそ」


陽菜の返事も、いつもより小さかった。


扉が閉まる音が、妙に響いた。


ひかりは、胃のあたりが重くなる感覚があった。


何か、やらかした。


◇


「ひかりさん」


陽菜が振り返った。


声のトーンが、いつもより低い。


「はい」


「さっきの発言、言い方に気をつけてね」


「……すみませんでした」


「事実でも、場の流れってあるから」


「はい」


ひかりは頭を下げた。


陽菜は「わかればいいよ」と言って、先に歩き出した。


廊下に、湊とひかりが残された。


「水瀬さん」


ひかりが思わず声をかけた。


「はい」


「私、変なこと言いましたか?」


湊は一瞬、ひかりを見た。


「事実は言いました」


「でも、まずかったですよね」


「……場合によっては」


それだけ言って、湊は歩き出した。


いつもなら、もう少し何か言ってくれた気がする。


でも何を言ってくれていたのか、思い出せない。


◇


十四時三十分。


佐伯由奈は、戻ってきた三人を見た。


陽菜の顔が少し硬い。


ひかりが元気なさそう。


湊は普通だ。


普通すぎる。


「どうでしたか?」


由奈が陽菜に聞いた。


「まあ、なんとか」


「揉めました?」


「揉めたってほどじゃないけど、ちょっとね」


陽菜が苦笑する。


「ひかりちゃんが、少し直接的なことを言っちゃって」


由奈は頷きながら、ひかりを見た。


ひかりは自分のデスクで、静かにPCを開いている。


フォロー、できなかったのか。


誰のフォローが?


陽菜の?


湊の?


由奈には、まだわからなかった。


◇


同じ時間。


湊は議事録を整理しながら、ひかりの肩が小さく落ちるのを見ていた。


あのタイミングで口を挟むことは簡単だった。


『総務さんのご指摘はもっともですし、こちらの確認不足もありました』


『今後は事前連絡を徹底しつつ、運用面でも連携を取らせていただければ』


そんな一言を入れれば、田辺さんの顔も和らいだだろう。


ひかりの発言も、「現場の率直な意見」として受け取られただろう。


でも湊は、何もしなかった。


議事録のメモを、淡々と取った。


誰も、その因果に気づいていない。


湊はファイルを保存して、次の業務に移った。


◇


十七時。


田辺さんからメールが届いた。


件名:本日の打ち合わせについて


宛先は陽菜、CCに部長。


『本日はお時間をいただき、ありがとうございました。今後は事前連絡の徹底をお願いいたします』


業務的な文面。


でも最後の一文が、少し冷たかった。


陽菜がそのメールを読んで、小さくため息をついた。


由奈はそのため息を聞いた。


湊もそのメールを見た。


CCには入っていなかった。


でも共有フォルダで内容は確認できた。


以前なら、打ち合わせ後に一言入れていた。


「至らない点があり、失礼いたしました」


その一言で、今日の空気は少し和らいでいた。


でも今日は、送らなかった。


湊は画面を閉じた。


◇


十八時。


由奈が帰り支度をしていると、陽菜が声をかけてきた。


「今日、なんか疲れた」


「打ち合わせ、大変でしたね」


「うん。なんかうまく収められなくて」


陽菜が首を傾ける。


「私、ああいう時の立ち回りが下手なのかも」


由奈は陽菜の顔を見た。


珍しく、弱気な表情をしている。


「そんなことないですよ」


「そうかな」


「そうですよ」


でも陽菜の笑顔は、少し薄かった。


由奈はバッグを肩にかけながら、フロアを振り返った。


湊がまだ残っている。


書類を整理している。


何も言わない。


ただ、自分の仕事をしているだけ。


何かが、違う。


エレベーターのボタンを押しながら、由奈は今週の出来事を並べた。


月曜の陽菜の話題が滑ったこと。


火曜の会話が着地しなかったこと。


今日の打ち合わせがギクシャクしたこと。


全部、バラバラに見えるのに。


でも、何か共通点がある気がする。


共通点って、何だろう。


――思い浮かびかけて、やめた。


答えは、まだ出てこない。


でも確実に、何かが変わっている。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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