第2話 誰も、締めなかった
九時三分。
佐伯由奈は、自分のデスクでコーヒーを飲みながら、何となくフロアを眺めていた。
始業前の、少しだけ緩い時間。
朝倉陽菜がバッグを椅子にかけながら、明るい声で言った。
「おはようございます! 今日もいい天気ですね」
「おはようございます」
何人かが返事をする。
いつもの光景。
陽菜が来ると、フロアの空気が一段階明るくなる。
由奈はそれを当たり前だと思っていた。
◇
九時十分。
朝礼前の、中途半端な時間。
「そういえば皆さん、昨日の深夜にやってた『マニアック探検隊』って番組見ました?」
陽菜が振り返りながら言った。
楽しそうな顔。
「深海魚の特集だったんですけど、ナレーションの人がやたらテンション高くて。一人で見てて、めっちゃ笑っちゃいました」
「番組ですか?」
中島ひかりが顔を上げる。
「見てないです、私」
「そうですか」
陽菜の笑顔が、少しだけ止まった。
由奈も見ていない。深夜一時過ぎの番組なんて、普通は見ない。
こういう時、いつもなら——
『ああ、四チャンネルのやつですよね。少し見ましたけど、あのナレーション独特でしたね』
誰かが、そんなふうに拾ってくれる。
由奈は無意識に、水瀬湊の方を見た。
湊は手元の書類を見ている。
何も言わない。
ペン先が紙を滑る音だけが聞こえた。
◇
「えっと……」
陽菜が続けようとした。
「最近、深夜番組って面白いのが多くて。配信でも見られるし」
「へえ」
ひかりが短く返す。
それだけ。
誰も続けない。
一秒。
二秒。
――長い。
由奈は画面を見た。見ているフリをした。
この沈黙が自分のせいになるのが嫌だから。
五秒。
六秒。
陽菜が「あはは」と笑った。
でも誰も笑い返さない。
八秒。
九秒。
十秒。
「……私だけですね、そんなの見てる暇人」
陽菜が自虐で落とそうとした。
いつもなら、ここで誰かが否定してくれる。
『朝倉さんは忙しいのに、よく時間作りますよね』とか。
『たまには息抜きも必要ですよ』とか。
でも今日は、誰も何も言わなかった。
「……そうですね」
ひかりが、気まずそうに返した。
それで、会話が死んだ。
◇
朝礼が始まった。
田中部長の短い話。
営業の進捗共有。
特に問題なく終わる。
でも由奈の頭には、さっきの十秒が残っていた。
なんか、変だった。
席に戻りながら、陽菜を見る。
陽菜はどこか戸惑ったような顔でPCを開いていた。
いつもなら朝礼後も、少し雑談の余韻がある。
今日は、キーボードの音だけ。
由奈は湊を見た。
湊は書類を整理している。
前より、静かに。
でも、それがやけに目についた。
前は、もっと何か言ってた気がする。
◇
十二時。
休憩スペースで陽菜とひかりが弁当を開けている。
「今日の午後、例の案件の打ち合わせなんですよね」
陽菜が言う。
「大変ですね」
ひかりが返す。
「相手の担当者、ちょっと細かい人で」
「あー、そういう人いますよね」
「数字の根拠とか、やたら聞いてくる」
「面倒ですね」
陽菜が何か言いかけて、やめた。
そこで、会話が止まった。
由奈はサンドイッチを食べながら待った。
いつもなら、ここから話が広がる。
『そういう人には事前に資料を多めに用意しておくといいですよ』とか。
『前もそんなことがあって』とか。
誰かが続きを出してくれる。
でも今日は、「面倒ですね」で終わった。
陽菜がお茶を飲む音。
ひかりがスマホを見る音。
それだけ。
誰も、続けなかった。
◇
十四時。
「眠いですね」
ひかりが伸びをしながら言った。
「わかる」
陽菜が返す。
「昼食後って、どうしても眠くなりますよね」
「ですね」
また、そこで止まった。
由奈はプリンターから戻りながら、その会話を聞いていた。
ここで誰かが何か言う。
『コーヒー飲みます?』とか。
『少し外の空気吸いに行きましょうか』とか。
小さな提案で、場を動かしてくれる人がいたはず。
でも今日は、「ですね」で終わった。
陽菜が画面に向き直る。
ひかりもキーボードを打ち始める。
会話が、消えた。
由奈は自分の席に座りながら、湊を見た。
湊は電話のメモを整理している。
丁寧に、静かに。
何も言わない。
あれ?
◇
十八時。
「今日、なんか疲れました」
陽菜が帰り支度をしながら言った。
独り言のように。
「忙しかったですか?」
由奈が聞く。
「忙しいっていうか……なんか、調子が出なくて」
「そういう日、ありますよね」
――それ以上、何を言えばいいのか、わからなかった。
陽菜が少し安心したように笑った。
「じゃあ、お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
陽菜が出て行く。
由奈はバッグを持ちながら、フロアを見回した。
湊がまだ残っている。
書類を揃えて、引き出しにしまっている。
ただ、それだけ。
でも由奈には、その「それだけ」が気になった。
何かが、変わった。
何が変わったのか、まだわからない。
でも確かに、何かが変わった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様でした」
湊はいつも通りの声で返した。
いつも通りすぎて、
由奈は廊下を歩きながら、もう一度「変だな」と思った。
でも、何が変わったのかを考えた瞬間、
由奈は無意識に湊の席を思い浮かべていた。
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