第1話 AIでよくないですか?
九時三分。
水瀬湊は自席に座りながら、何気なくフロア全体を見渡した。
特に意識しているわけではない。
誰かがイライラすれば、その空気は確実に伝染する。それを未然に防ぐ方が、結果的に自分の作業も邪魔されない。
営業の朝倉陽菜が電話している。声のトーンが高い。得意先だろう。
若手の中島ひかりがコピー機の前で立ち止まっている。手が止まっている。迷っている顔だ。
「ひかりさん、それ両面コピーですか?」
「あ、そうなんですけど、設定がよくわからなくて」
「メニューの左から三番目です。一枚目だけ白紙になるので、最初にテスト印刷した方がいいですよ」
「あ、そうなんですね。ありがとうございます!」
それだけの会話。
でもひかりの困った顔が、少しだけ明るくなった。
こういうことを、湊は一日に何度もやる。
頼まれたわけじゃない。
ただ、そうしないと誰かが詰まるから。
◇
九時十分。
社内チャットの通知が画面の隅に表示された。
営業グループのトークルーム。
「昨日の議事録、助かりました。さすがです、朝倉さん!」
送信者は田中部長。絵文字付き。
議事録をまとめたのは、湊だ。
会議後に抜けていた数値を補完して、他部署に確認を回して、部長が読みやすい形に整理した。
陽菜は会議が終わった瞬間、外回りに出た。
湊は、自分の名前がどこにもない画面を見つめた。
悪気がないのはわかっている。
だから、腹は立たない。
立たないはずだった。
◇
九時十五分。
プリンターがエラー音を鳴らした。
「うわ、また紙詰まりだ」
総務の男性が面倒くさそうに言う。
湊は立ち上がり、プリンターの側面を開けて紙を抜き取る。
「これで大丈夫です」
「おお、助かる。ほんと水瀬くんって、何でも屋だな」
総務の男性が隣の同僚に向かって笑いながら言った。
「紙詰まりまで直してくれるAIロボ、早く普及してほしいよな」
「ですね。人件費もかからないし、文句も言わない」
軽い笑い声。
湊は「そうですね」とだけ返して、自席に戻った。
AIロボ。
今週で四回目だ。
◇
九時二十五分。
「やば、松田さんまたスケジュール変更してきた」
陽菜が電話を終えて、独り言のように言った。
でも、誰かに聞いてもらいたい独り言だ。
佐伯由奈は画面から目を離さない。
ひかりはコピーの仕分けをしている。
湊は一拍置いて、
「また急ですか」
と声をかけた。
「そうなの。来週水曜が木曜になって、しかも午後から午前に」
「会議室の予約、変更しておきましょうか。総務にも連絡しておきますね」
「あ、そこまで。ごめん、ほんと助かる」
陽菜の肩の力が、少しだけ抜けた。
湊は会議室予約システムを開く。
特に何も思わない。
ただの、いつもの動作だ。
◇
十時。
会議室に五人が集まった。
田中部長、高梨、陽菜、由奈、湊。
「先週の新規獲得、目標比一二〇パーセントで着地しました」
陽菜が明るく報告する。
華やかで有能。彼女が話すと場が明るくなる。
「ただ、少し強引に取ってないか。後のフォローが回らなくなるぞ」
田中部長が水を差した。
陽菜の笑顔が、ほんの少し引きつる。
このままだと空気が冷える。
「その件でしたら」
湊が静かに口を挟んだ。
「朝倉さんから事前に共有いただいて、フォローのスケジュールを組んでいます。資料の三ページをご覧ください」
昨日、湊が残業して他部署と調整し、組み上げたリカバリー案だった。
「おお、そうか。それなら問題ない」
田中部長が頷く。
「さすがだな、朝倉。こういう先回りができるところが違うよな」
陽菜が「ありがとうございます」と笑う。
その笑顔は、本気で嬉しそうだった。
湊はホワイトボードを消しながら、その会話を聞いていた。
昨日の残業は、陽菜の「さすが」になっていた。
マーカーを置く音が、やけに大きく聞こえた。
◇
十二時。
休憩スペースで陽菜がサンドイッチを開けている。
「今日の会議も無事に終わってよかった」
向かいでひかりが頷く。
「朝倉先輩、部長に突っ込まれた時どうなるかと思いました」
「ほんと焦った。でも水瀬くんがサッと資料出してくれたから助かったよ」
陽菜がこちらを向いて笑う。
屈託のない、本当にいい笑顔だ。
「いえ、仕事ですから」
湊は短く返した。
「水瀬くんってさ」
陽菜がふと思い立ったように言う。
「本当にストレスとか無縁そうだよね」
「そうですかね」
「いつも当たり障りないし、怒ったところ見たことないし。今日の会議みたいな完璧なタイミングのフォローも、息をするみたいにやっちゃうし」
陽菜は悪気のない、純粋な称賛の目で湊を見た。
「感情あるの? って思うくらい」
ひかりが「あー、わかります」と相槌を打つ。
「なんか、すごい高性能なAIみたい」
湊は手元のペットボトルのラベルを見た。
感情あるの。
そう聞かれたのも、今日で初めてではない。
「そうそう。最新の感情認識AI。事務作業もノーミスだし、文句も言わないし」
陽菜は楽しそうに言葉を続けた。
彼女にとっては、最高の褒め言葉なのだろう。
「でもさ、よく考えたら」
陽菜がサンドイッチを一口食べて、少し考える顔をした。
「水瀬くんがやってることって、全部AIで代替できることじゃない?」
ひかりが「え?」と顔を上げる。
「だって、スケジュール調整とか、資料整理とか、会議のフォローとか。全部パターン化できるでしょ」
陽菜の声が、少しずつ弾んでくる。
「極端な話だけど、水瀬くんのポジションって、AIでよくないですか?」
サンドイッチの包み紙を丸めながら、軽いノリで続ける。
「人件費かからないし、二十四時間働いてくれるし、感情で判断ミスすることもないし」
ひかりが「あはは、たしかに」と笑う。
「しかも文句言わないから、残業代も要らない」
二人の笑い声が、休憩スペースに広がる。
湊は、手に持っていたペットボトルを見つめた。
周囲の笑い声が、急に遠く聞こえた。
頭の芯が冷えていく。
その代わりに、「もういいか」という感覚だけが残った。
ひび割れたガラスが、音もなく崩れ落ちるような感覚だった。
俺が空気を読み、言葉を選び、誰かが傷つかないように神経をすり減らして配ってきた「気遣い」。
それは――ただの「処理」だった。
昨日の残業も。
今朝のコピー機も。
議事録も。
会議でのフォローも。
誰も名前を出さない。
ただ、「うまくいった」とだけ言う。
ボタンを押せば、勝手に場が丸く収まる。
便利な機能。
人間ではなく、都合のいいインフラ。
「……そうですね」
湊は平坦な声で返した。
「AIの方が、効率いいかもしれませんね。
少なくとも、気は遣わなくて済みますし」
口元は笑っていた。
でも胸の奥で、太いケーブルがブツリと音を立てて切断された。
その瞬間、自分の中で何かが「仕事」から外側に押し出されていく感覚があった。
今までのそれが、「業務」に含まれていないことに、今さら気づいた。
AIでいいなら。
契約された業務だけをこなせばいい。
それ以外は、全部やめよう。
◇
十五時。
「水瀬くん、この書類のフォーマットって前と同じでいいんだっけ?」
陽菜が背伸びをしながら声をかけてきた。
普段なら「同じですよ。ただ一部変更があるので、直しておきましょうか」と返す場面。
彼女はそれを待っている。
湊はPCから目を離さずに答えた。
「はい。マニュアル通りです」
「……え?」
陽菜が戸惑ったような声を漏らした。
いつものクッション言葉がない。
「マニュアル、共有フォルダにあります」
「あ、うん。自分で見るから……」
陽菜は静かに自分の席に戻った。
湊はキーボードに手を戻す。
何もしない。
――もう、してやる義理はない。
空気を読まない。
先回りしない。
ただ、契約された「事務作業」だけをこなす。
陽菜は少し戸惑った顔で、マニュアルを探している。
数秒後、
「……あれ、どこだっけ」
小さな声が漏れた。
湊は、それを見なかった。
◇
十八時。
湊は定時に席を立った。
「お疲れ様でした」
誰にともなく声をかける。
「お疲れ様です」
陽菜が振り返った。
「水瀬くん、今日なんか変じゃなかった?」
「そうですか」
「なんか、いつもと違う感じがして」
湊は少し考えた。
「そんなことないと思います」
「そっか」
陽菜は少し不安そうな顔で画面に向き直った。
湊はフロアを出た。
廊下を歩きながら、今日一日を振り返った。
AIロボ。
感情あるの。
AIでよくないですか。
三人が三人とも、悪気はなかった。
だから余計に、どこにもぶつけられない。
エレベーターの扉が開く。
湊は乗り込んで、閉ボタンを押した。
鏡に映った自分の顔を見る。
表情がない。
いつも通りだ。
でも今日から、それは「性格」ではなく「方針」になった。
AIに感情はいらない。
AIは、与えられた仕事だけをこなす。
それ以外は、しない。
扉が閉まる。
フロアの明かりが、細くなって、消えた。
明日の朝、陽菜はまたいつものように話題を振るだろう。
面白い話を用意して、笑顔で待つだろう。
でも今度は、誰も拾わない。
誰も、続けない。
その沈黙が何を意味するのか、まだ誰も知らない。
湊自身さえも、まだ知らなかった。
その静けさが、職場の呼吸を止める。
ただ一つだけ、確かだった。
明日からこの職場の空気は、誰も作らない。
誰も、整備しない。
そして陽菜は、初めて自分の力だけで場を回さなければならなくなる。
――まだ、誰も気づいていない。
この部署から「調整役」が消えた瞬間、
最初に止まるのが、会議か、営業か、それとも人間関係か。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
この話はここから、
「一人が気遣いをやめただけで、職場はどこから壊れるのか」
をじわじわ描いていきます。
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次話から、少しずつ“止まり始める”ので、見届けてもらえたら嬉しいです。




