第10話 下駄の正体
金曜の夜、二十時三十分。
朝倉陽菜は一人でフロアに残っていた。
昨日のD社案件は、なんとか乗り切った。
でも今日、E社から連絡が入った。
「提案の方向性を見直してほしい」
来週月曜の商談に向けて、週末で作り直さなければならない。
陽菜はパソコンの画面を見つめながら、どこから手をつければいいのか考えていた。
以前なら、こういう緊急案件でも、もっとスムーズに進められていた気がする。
なぜ最近は、何もかもがうまくいかないんだろう。
◇
陽菜は過去のフォルダを開いた。
参考になりそうな提案書を探すために。
「B社提案書_最終版」
去年の秋、部長から「完璧な提案書だ」と褒められた案件。
自分でも会心の出来だと思っていた。
ファイルを開くと、当時の資料が画面に表示される。
市場分析、競合比較、導入スケジュール。
どれも論理的で、説得力に満ちている。
「これ、私が作ったんだよね」
陽菜は画面をスクロールしながら呟いた。
でも、見れば見るほど、今の自分には作れない精度だと感じる。
◇
ふと、フォルダの中に別のファイルがあることに気づいた。
「B社提案書_初稿」
陽菜は、そのファイルを開いた。
自分が最初に作ったバージョン。
画面に表示された内容を見て、陽菜は息を飲んだ。
最終版と、まったく違う。
構成が粗い。
データの並べ方が直感的すぎる。
先方の立場に立った視点が、ほとんどない。
「これが、私の最初の形だったんだ」
陽菜は二つのファイルを並べて表示した。
初稿と最終版。
どこが、どう変わったのか。
競合分析のページ。
初稿では「他社との差別化」という漠然とした見出しが、最終版では「御社の課題に対する三つのソリューション」に変わっている。
コスト比較の表。
初稿では単純な価格比較だったものが、最終版では「初期投資」「運用コスト」「投資回収期間」の三軸で整理されている。
文章のトーン。
初稿の「弊社サービスの優位性」という押しつけがましい表現が、最終版では「御社の成長に向けた最適なご提案」という相手目線の言葉に変わっている。
誰かが、手を入れていた。
◇
記憶を辿る。
あの時、水瀬湊に「確認してもらった」。
「少し気になったところがあったので、直してもいいですか」
湊がそう言ったのを思い出した。
陽菜は「もちろん」と答えた。
誤字脱字のチェックだと思っていた。
でも、違った。
彼は提案書の向きを、変えていたんだ。
陽菜は他のファイルも開き始めた。
「C社提案書_初稿」「C社提案書_最終版」
「F社提案書_初稿」「F社提案書_最終版」
どれも、同じパターンだった。
初稿は、今の自分が作るものと同じレベル。
最終版は、完璧に整理されている。
その間に、湊の手が入っていた。
◇
陽菜は椅子に背中を預けた。
記憶が、次々と蘇ってくる。
会議で部長に突っ込まれた時。
横から「補足資料の三ページをご覧ください」と助け舟を出してくれた声。
他部署との打ち合わせで空気が険悪になった時。
「双方で確認が必要な部分もありましたね」とクッションを入れてくれた一言。
システム部への事前調整。
「朝倉さんが依頼される前に、大まかな条件だけ確認しておきました」
毎朝の雑談。
自分が振った話題を、誰もが参加しやすい形に翻訳してくれていた相槌。
全部、湊だった。
陽菜は自分の手を見た。
この手で、何かを成し遂げてきたと思っていた。
でも実際は、誰かに下駄を履かせてもらって、それに気づかないまま歩いていただけだった。
◇
「AIみたいですよね」
自分が言った言葉が、耳の奥で反響する。
「感情の起伏がない最新のAI。事務作業もノーミスだし」
「極端な話、水瀬くんのポジションって、AIでよくないですか?」
陽菜の胸に、鋭い痛みが走った。
あの時、自分は何を言ったんだろう。
彼が毎回、自分の提案書を作り直してくれていたことも知らずに。
会議での絶妙なフォローも。
社内調整も。
職場の空気作りも。
全部を「当たり前のこと」だと思って、「AIでいい」と笑った。
だから、彼はやめたんだ。
怒ることも、反論することもなく。
ただ、本当にAIのように「契約された業務」だけをこなすようになった。
◇
陽菜はパソコンに向き直った。
E社の提案書。
白紙のファイルが、画面に広がっている。
今度は、誰の助けもなく作らなければならない。
陽菜はキーボードに手を置いた。
でも、指が動かない。
何を書けばいいのか。
どこから始めればいいのか。
以前なら、湊が「叩き台の方向性はいかがですか」と声をかけてくれた。
「少し整理してみましょうか」と言ってくれた。
今は、誰も言わない。
「私、一人で完成させたこと、あったっけ」
誰もいないフロアに、その声だけが響いた。
営業エース。
そう呼ばれて、悪い気はしなかった。
でも実際は、いつも最後の一段を、誰かに上げてもらっていた。
そのことが、今になってわかった。
◇
陽菜はファイルを保存せずに閉じた。
今日は、もう無理だ。
荷物をまとめながら、湊の席を見た。
いつも整然としている机。
余計なものが何もない。
静かで、何も言わない人。
でも、その静かさの裏で、どれだけのことをやっていたのか。
陽菜は、湊に何か言いたかった。
謝りたかった。
でも、何を言えばいいのか分からない。
「AIみたいですよね」と言った自分が、今さら何を言える。
陽菜はコートを羽織って、電気を消した。
廊下に出た時、目の奥が熱くなった。
でも、涙は出なかった。
ただ、自分が壊してしまったものの大きさだけが、重くのしかかっていた。
◇
エレベーターの扉が開く直前、陽菜は見覚えのある封筒を拾った。
差出人は、人材紹介会社。
宛名は、水瀬湊だった。
でも、その一瞬で陽菜は理解した。
彼は、もう次に進んでいる。
この職場を、見限っている。
扉が開いて、冷たい夜風が流れ込んだ。
陽菜は俯いたまま、外に出た。
失ってから気づくのは、いつも遅すぎる。
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