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『AIでいい』と言われたので、本当に何もしなくなったら職場が壊れた  作者: そらのことのは


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10/12

第10話 下駄の正体

金曜の夜、二十時三十分。


朝倉陽菜は一人でフロアに残っていた。


昨日のD社案件は、なんとか乗り切った。


でも今日、E社から連絡が入った。


「提案の方向性を見直してほしい」


来週月曜の商談に向けて、週末で作り直さなければならない。


陽菜はパソコンの画面を見つめながら、どこから手をつければいいのか考えていた。


以前なら、こういう緊急案件でも、もっとスムーズに進められていた気がする。


なぜ最近は、何もかもがうまくいかないんだろう。



陽菜は過去のフォルダを開いた。


参考になりそうな提案書を探すために。


「B社提案書_最終版」


去年の秋、部長から「完璧な提案書だ」と褒められた案件。


自分でも会心の出来だと思っていた。


ファイルを開くと、当時の資料が画面に表示される。


市場分析、競合比較、導入スケジュール。


どれも論理的で、説得力に満ちている。


「これ、私が作ったんだよね」


陽菜は画面をスクロールしながら呟いた。


でも、見れば見るほど、今の自分には作れない精度だと感じる。



ふと、フォルダの中に別のファイルがあることに気づいた。


「B社提案書_初稿」


陽菜は、そのファイルを開いた。


自分が最初に作ったバージョン。


画面に表示された内容を見て、陽菜は息を飲んだ。


最終版と、まったく違う。


構成が粗い。


データの並べ方が直感的すぎる。


先方の立場に立った視点が、ほとんどない。


「これが、私の最初の形だったんだ」


陽菜は二つのファイルを並べて表示した。


初稿と最終版。


どこが、どう変わったのか。


競合分析のページ。


初稿では「他社との差別化」という漠然とした見出しが、最終版では「御社の課題に対する三つのソリューション」に変わっている。


コスト比較の表。


初稿では単純な価格比較だったものが、最終版では「初期投資」「運用コスト」「投資回収期間」の三軸で整理されている。


文章のトーン。


初稿の「弊社サービスの優位性」という押しつけがましい表現が、最終版では「御社の成長に向けた最適なご提案」という相手目線の言葉に変わっている。


誰かが、手を入れていた。



記憶を辿る。


あの時、水瀬湊に「確認してもらった」。


「少し気になったところがあったので、直してもいいですか」


湊がそう言ったのを思い出した。


陽菜は「もちろん」と答えた。


誤字脱字のチェックだと思っていた。


でも、違った。


彼は提案書の向きを、変えていたんだ。


陽菜は他のファイルも開き始めた。


「C社提案書_初稿」「C社提案書_最終版」


「F社提案書_初稿」「F社提案書_最終版」


どれも、同じパターンだった。


初稿は、今の自分が作るものと同じレベル。


最終版は、完璧に整理されている。


その間に、湊の手が入っていた。



陽菜は椅子に背中を預けた。


記憶が、次々と蘇ってくる。


会議で部長に突っ込まれた時。


横から「補足資料の三ページをご覧ください」と助け舟を出してくれた声。


他部署との打ち合わせで空気が険悪になった時。


「双方で確認が必要な部分もありましたね」とクッションを入れてくれた一言。


システム部への事前調整。


「朝倉さんが依頼される前に、大まかな条件だけ確認しておきました」


毎朝の雑談。


自分が振った話題を、誰もが参加しやすい形に翻訳してくれていた相槌。


全部、湊だった。


陽菜は自分の手を見た。


この手で、何かを成し遂げてきたと思っていた。


でも実際は、誰かに下駄を履かせてもらって、それに気づかないまま歩いていただけだった。



「AIみたいですよね」


自分が言った言葉が、耳の奥で反響する。


「感情の起伏がない最新のAI。事務作業もノーミスだし」


「極端な話、水瀬くんのポジションって、AIでよくないですか?」


陽菜の胸に、鋭い痛みが走った。


あの時、自分は何を言ったんだろう。


彼が毎回、自分の提案書を作り直してくれていたことも知らずに。


会議での絶妙なフォローも。


社内調整も。


職場の空気作りも。


全部を「当たり前のこと」だと思って、「AIでいい」と笑った。


だから、彼はやめたんだ。


怒ることも、反論することもなく。


ただ、本当にAIのように「契約された業務」だけをこなすようになった。



陽菜はパソコンに向き直った。


E社の提案書。


白紙のファイルが、画面に広がっている。


今度は、誰の助けもなく作らなければならない。


陽菜はキーボードに手を置いた。


でも、指が動かない。


何を書けばいいのか。


どこから始めればいいのか。


以前なら、湊が「叩き台の方向性はいかがですか」と声をかけてくれた。


「少し整理してみましょうか」と言ってくれた。


今は、誰も言わない。


「私、一人で完成させたこと、あったっけ」


誰もいないフロアに、その声だけが響いた。


営業エース。


そう呼ばれて、悪い気はしなかった。


でも実際は、いつも最後の一段を、誰かに上げてもらっていた。


そのことが、今になってわかった。



陽菜はファイルを保存せずに閉じた。


今日は、もう無理だ。


荷物をまとめながら、湊の席を見た。


いつも整然としている机。


余計なものが何もない。


静かで、何も言わない人。


でも、その静かさの裏で、どれだけのことをやっていたのか。


陽菜は、湊に何か言いたかった。


謝りたかった。


でも、何を言えばいいのか分からない。


「AIみたいですよね」と言った自分が、今さら何を言える。


陽菜はコートを羽織って、電気を消した。


廊下に出た時、目の奥が熱くなった。


でも、涙は出なかった。


ただ、自分が壊してしまったものの大きさだけが、重くのしかかっていた。



エレベーターの扉が開く直前、陽菜は見覚えのある封筒を拾った。


差出人は、人材紹介会社。


宛名は、水瀬湊だった。


でも、その一瞬で陽菜は理解した。


彼は、もう次に進んでいる。


この職場を、見限っている。


扉が開いて、冷たい夜風が流れ込んだ。


陽菜は俯いたまま、外に出た。


失ってから気づくのは、いつも遅すぎる。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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