第11話 湊くん、じゃない?
月曜の朝。
佐伯由奈は出社してすぐに、フロア全体に漂う重い空気を感じ取った。
朝倉陽菜が、いつもより早く出社して画面と向き合っている。
E社の提案書は、結局週末も完成しなかった。
商談は今週に延期となったが、陽菜の表情に余裕はない。
中島ひかりは、先週のミスを引きずって電話を取る声が小さくなっている。
高梨恒一は黙々と自分の作業を進め、誰とも雑談をしない。
そして水瀬湊は、今日もいつも通り淡々と事務処理をこなしている。
誰も悪いことをしていない。
でも職場は、確実に機能不全に陥っている。
由奈は手元のメモ帳を開いた。
先週から続けている記録が、そこにある。
「誰かが、調整していた」
「その人が、やめた」
「だから、回らなくなった」
あと一行だけ、空白が残っている。
◇
昼休み。
休憩スペースで、由奈と陽菜が二人きりになった。
陽菜はサンドイッチを一口食べたきり、手が止まっている。
目の下に薄く隈があり、週末も十分に休めていないことがわかる。
「陽菜さん」
由奈は静かに声をかけた。
「提案書、大変そうですね」
「うん。なんか、全然まとまらなくて」
陽菜の声に、いつもの明るさがない。
「前は、もっとスムーズに書けてた気がするんだけど」
「前は?」
「前は」
陽菜が少し考えた。
「誰かが、叩き台の方向性を整理してくれてた気がして」
「誰かが」
「うん。でも、誰だったのか、あんまり意識してなかった」
陽菜が苦笑する。
「当たり前すぎて。空気みたいに、そこにあるものだと思ってたから」
由奈は手元のお茶を見つめた。
空気みたい。
その言葉が、胸に重くのしかかった。
◇
「陽菜さん」
由奈は顔を上げた。
「最近うまくいかないこと、いくつか思い当たりませんか」
「うまくいかないこと?」
「会議が迷走したり、他部署との調整がスムーズじゃなかったり」
陽菜の表情が、少しだけ変わった。
「確かに、全部最近のことだね」
「最近って、いつ頃から?」
陽菜は記憶を辿るような顔をした。
「そういえば」
「何か、心当たりが?」
「誰かがフォローしてくれてた、って思うんです」
由奈は静かに言った。
「その誰かが、やめた」
陽菜の手が、テーブルの上で止まった。
「だから、止まった」
由奈は一呼吸置いた。
そして、ついにその名前を口にした。
「湊くん、じゃない?」
◇
陽菜の箸が、完全に止まった。
返事が、すぐには来なかった。
三秒。
五秒。
七秒。
「……うん」
陽菜の声は、とても小さかった。
「わかってた。たぶん、ずっと前から」
「でも、認めたくなかった?」
「認めたら」
陽菜が窓の外を見た。
「私が言ったことの意味が、全部わかっちゃうから」
由奈は黙って聞いた。
「AIみたいですよね、って言ったの。私」
「知ってます」
「笑いながら。悪気なんて、全然なくて」
「知ってます」
「でも、彼にとっては」
陽菜の言葉が、途切れた。
由奈は続きを言わなかった。
言う必要がなかった。
休憩スペースに、冷蔵庫のモーター音だけが響いた。
◇
午後。
由奈は自分の席で、手元のメモ帳の最後の一行を書いた。
「その人は、水瀬湊」
全部の答えが、揃った。
由奈はメモ帳を閉じて、湊の方を見た。
彼は今日も、淡々と作業をしている。
誰とも話さず、誰にも声をかけず、ただ自分の仕事だけをこなしている。
でも今は、その姿がまったく違う意味に見えた。
これが、彼の本来の仕事量なんだ。
それ以外は全部、誰にも頼まれていないのに、誰にも評価されないのに、ただやっていたことだった。
空気というものが、壊れるのを、由奈は初めて見た。
◇
十七時。
田中部長がフロアに出てきた。
「全員、少し集まってくれ」
全員が顔を上げる。
「水瀬から報告がある」
湊が立ち上がった。
由奈の心臓が、少し速くなった。
「来月末で、異動することになりました」
湊は静かに言った。
「業務推進部への配属です。これまで、大変お世話になりました」
フロアに、深い沈黙が落ちた。
陽菜が、湊を見た。
ひかりが、小さく口を開けた。
高梨が、静かに目を閉じた。
由奈は、湊の顔を見つめた。
表情は変わらない。
感情が読めない。
でも、その静かさの中に、もう迷いがないことだけはわかった。
「引き継ぎについては、来週から順次進めさせていただきます」
湊はもう一度、軽く頭を下げた。
誰も、すぐには返事ができなかった。
フロアに、長い沈黙が続いた。
誰も、言葉を選べなかった。
由奈は手元のメモ帳を握りしめた。
「湊くん、じゃない?」
自分が口にした言葉の重みが、遅れて押し寄せてきた。
そうだ。
湊くんだった。
でも、答えにたどり着いた時には、もう彼の心は、ここにはなかった。
元に戻るかどうかは、まだ誰にもわからなかった。
その確信だけが、冷たく残っていた。
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